『源泉恐怖小説集 牛の首』より「ツウ・ペア」
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5
なぜ、そんな所を歩いているのか、自分でもはっきりしなかったが、彼は、日曜の午後の人出で
うす曇りの二月の厳寒の中で、彼は全身、ねとねととした脂汗にまみれていた。──無茶飲みしたウイスキーが体の中にのこり、顔がもえ上っているようだった。ひっきりなしに汗を流しながら、彼はふらふらと雑踏にぶつかりながら歩いていた。
どうして洋品店のウインドウの前などに立ちどまったのかわからなかった。──なにか、ぶつぶつつぶやきながら、彼はガラスに顔をくっつけるようにして、舶来の生地や、ゴルフ用具をながめているだけでなく、どうして中へはいって、カウンターの所に立ったのか、店員から、「なにか……」と声をかけられるまで気がつかなかった。
その時になって、やっと、自分がずっと前から、外国ものの、大型の
そのウインドウに、彼の欲しかった鋏があり、カウンターの下のガラスケースに、それがいくつかならべられていた。
「はい……」と店員は言って腰をかがめ、カウンターの上に、二つ、三つとならべて見せた。「これはドイツ製、こちらはスエーデンのもので……専門家のお使いになる品でございます」
ふらつく体をカウンターにささえ、彼は一番大型のものをとりあげて、皮のケースをはずした。
その時、入口の方から、黒い、細い体が店内にはいってくるのが、眼の隅に見えた。
その娘の視線が、彼の横顔に凍りつくのに気がつかなければ、そちらをふりかえらなかったかも知れなかった。──ともすれば、朦朧としがちな眼をしばたたいて、入口の方に顔をむけた時、黒いセーターに黒のパンタロンをはき、黒いマキシコートのボタンをはずした若い娘の、恐怖にみちた視線ともろにぶつかった。──肩から背にすべる長い髪、卵型のなめらかな顔、細い弧を描く眉、通った鼻筋、ハート型の唇……。
彼の中に、どしん、と脊椎をどやし上げるような衝撃が走り、視界がにわかにはっきりした。最初、
昨夜、彼の部屋に出た幽霊女だ!──彼女は……生きている!
娘の唇が、わなわなふるえながら悲鳴を上げるようにゆっくり開かれた。
「おい、君!」彼は大声でどなった。
「待ちたまえ!」
体の中にのこっていた酔いが、一瞬怒りとなって燃え上った。──背後で店員が何か叫んでいたが、耳にはいらなかった。昨夜の幽霊女が、生きていて、この日曜の午後の街を歩いていた事、そしてむこうが、明らかに彼の顔を見て、恐怖の表情をうかべ、逃げ出した事が、一瞬、宿酔いに機能の低下した彼の理性を失わせた。あの幽霊が、生きている女性だった以上、これは誰かが──何のためか知らないが──彼をおどかそうと、人為的にしくんだトリックにちがいない、と思ったとたん、彼は爆発的な怒りにかられたのだった。──鍵のかかった部屋への幽霊の出し入れ、血と、髪の毛の不可解な出現と言った事は、その時彼の頭になかった。ただただ、あの娘が、何か汚いお芝居の一味であり、今こそつかまえて泥を吐かせてやる、という事だけで頭が一杯だった。
雑踏にぶつかりながら、彼は猛烈な勢いでダッシュした。まわりの悲鳴や怒声など耳にもかさず、彼は十メートルほど先にひるがえる、黒いコートの裾めがけて走った。流行の、
「助けて!」娘は金切り声で叫んだ。
「殺される!」
「おい!」と誰かが、彼の腕をつかんだ。「待て!──何をするつもりだ」
その腕を体をふってふりはらっている間に、娘は四、五メートルひきはなし、角をまがろうとしていた。彼は歩道を蹴って、一気に間をつめた。
角を曲った所が、工事中で、車道、歩道ともに通行止めだなどとは思っても見なかった。勢いつけて角を曲ったとたん、通行止めのため、走ってひきかえしてくる娘と、出会い頭にはげしく正面衝突した。もつれあってたおれそうになるのを、やっとこらえて、彼は娘の細っこい体を乱暴につかまえた。
「おい、君!」と彼は眼にはいる汗に、眼をしばしばさせながらどなった。「なぜ逃げた?」
娘は、彼の腕の中で、恐怖のために石ころのようになった眼を見ひらき、色を失った唇をわなわなふるわせながら、かすれた声でいった。
「おねがい……殺さないで……」
次の瞬間、その顔は
その時になって、彼は自分の右手をひたす、ぬらぬらしたもののぬくみに気がついた。曲ったままこわばった指は、娘の胸から流れ出した熱い血に染まり、爪には一本の長い、細い髪の毛がはさまっていた。手の甲の三本のみみず
6
「どうして彼女が……」と
「彼女の友だちの話だと、彼女も、君とであう二、三日前から、若い男に殺される夢を見ておびえていた、というな……」奈良崎は沈痛な調子でいった。「彼女の友だちからきくと、彼女の語っていた〝夢の中の殺人者〟の
「それはまだわかります。──先輩からきいた、予知とか、予夢とかって奴でしょう。特に事故なんかで死ぬ人が、そういう夢をよく見る、って話は先輩からたくさん聞かされましたね。しかし……ぼくの場合は、いったいどうなるんでしょう? まだ殺してもいないうちから、どうして死んでいない女の幽霊にたたられたんでしょうね。……有罪はしかたがないが、その事だけがどうもすっきりしない……」
「その事についても……ある程度、わかったつもりだが……」奈良崎はためらいながらいった。「君には──兄弟はいるかね?」
「いません」多木は首をふった。「ぼくは産みの親が二人とも、赤ん坊の時死んで、多木家の養子になったんです。その養父母も大学の時相ついで死んで──遺産はかなり残してくれましたが──養父母にもほかに子供はいませんでしたから……」
「君は、実家の戸籍謄本を見た事があるか?」
「いいえ、抄本ばかりです──養家のなら見たような気がしますが……」
「死亡抹消されているから、原簿を見ないとだめだが──君には、実は兄弟がいたのだ」
「ああ……そんな事を、ちらときいたような気もしますが……」彼は、遠くを見るような眼つきをした。「赤ん坊の時死んだんです」
「ところが、死んでいなかったんだ……」奈良崎はいった。「今は……死んでるがね」
「へえ……」多木の眼に、かすかな動揺が起った。「ほんとですか?──しかし、たとえぼくに兄弟がいた所で、それがどんな関係があるんです」
「君の兄弟は、──兄さんだが、生れたのは、君と同じ年の同じ月、同じ日だ……」奈良崎は、絶句した彼の顔に、じっと眼をすえた。「そう──君たちはふた児……それも一卵性双生児だった……」
「ふたごですって?」多木の声は高くなった。
「……一卵性……双生児ですって?」
「ああ……もっと奇妙な事に、君に殺された彼女の方も、同じような事情があった。──彼女にもやはり一卵性双生児の姉がいた。しかし幼い時わかれて、お互い知らなかったらしい……」
多木は金網を両手でぎゅっとつかんだまま、絶句した。──唇が色を失って、かすかにふるえていた。
「その事件をしらべるために、北海道まで行って来たよ……」奈良崎は、ふっと溜息をついて眼をそらした。
「君が、あれをやってしまうきっかり一年前、君の兄さんは、洋裁学校にかよっていた彼女の姉さんを、洋裁用の鋏でさし殺している。無理心中だった……」
「そんな……」彼は視線のさだまらなくなった眼を、キョロキョロと天井や壁に走らせながら、しわがれた声でつぶやいた。「コルシカの兄弟……いや……だって、一年もたって……」
それから多木は、眼を宙にすえたまま、またしばらく絶句した。──しばらくして、彼は、変に沈んだ、低い声でつぶやいた。
「じゃ……ぼくの所へ出たのは……ぼくのふた児の兄貴に殺された、彼女の姉の幽霊なんですか?」
「そう考えていいだろうな……」奈良崎はうなずいた。
「しかし、なぜ……」叫ぶように大声でいいかけて、多木はまた沈んだ声でつぶやいた。「なぜなんだ?──なぜ、彼女の姉は……ぼくにたたらなきゃならないんだ? 関係ないのに……」
「君の兄さんに殺された時、彼女には、結婚する約束までした恋人がいた……」と奈良崎はいたましそうにいった。「それに……君の兄さんとちがって、女の方はすぐ死ななかったそうだ。一時間ほど生きていた。──その間、大変苦しみ、なぜ死ななきゃならないのか、これから、やっと幸福な生活をはじめようとするのに、死ぬのはいやだって……大変泣きさけんだそうだ。手術をしようにも麻酔がちっともきかず、最後まで泣きさけんだ、と病院の方ではいってたよ。麻酔がきかなかったため、死んだようなものだそうだ……」
多木は、猿のように金網につかまったまま、うつろな眼を見開いていた。
「君の兄さんは、もう一つの鋏で心臓をついて、こちらは即死だったからな……。つまり……女の方は、怨みを晴らそうと思っても、たたる相手がこの世にいないのだから……」
「それにしても……」彼はうつろな眼をしたまま、かすれた声でつぶやいた。
「……なんてひどい……理不尽な……なぜ妹まで犠牲に……」
「妹の方も、あつあつの恋人がいて、もうじき結婚する事になっていたそうだ。──一卵性双生児の姉の、嫉妬──なのかね……」奈良崎は、ハンカチを出して、そっと汗をぬぐった。
「生きてるって事は……厄介な、恐しい事だね。自分が全然知らない事で……思っても見ない事で、直接の責任は何もないのに、知らぬ間に他人に怨まれている、という事が、よくあるにちがいない。ずいぶんひどい話だが……女の世界なんて、美人であるという事だけで、……幸福であるだけで、憎まれたり、嫉妬されたりする事がしょっ中だからね……」
「ツウ……ペア……」
と、突然多木がしわがれた声で言って、低く笑った。
「この事は一応弁護士には話しておいたが……」腰を上げながら奈良崎は、自分に言ってきかせるようにつぶやいた。
「弁護の材料にゃならんだろう。──たたりとか、
「ツウ・ペア!」
いきなり大きな声でどなると、多木は大声でゲラゲラ笑いはじめた。──看守がけわしい顔をして、近づいてきた。
あんな話をきかせて……狂ったかな?
と、ゲラゲラ笑いながら、二人の看守に腕をとられて面会室を出て行く多木を見送りながら、奈良崎は思った。もし、狂ったなら──せめて一人は助かるわけだ。
だが、多木は狂わず裁判をうけた。
──そして、すすんで本人も有罪をみとめ、実刑を申しわたされた。
一年たって、社の方に突然、顔色の悪い男の訪問をうけた奈良崎は、その、多木と同室で仮釈放になったという男から、元気にやっている、超自然現象の本をさしいれてほしい、という多木の
多木が鋏で心臓をついて死んでからしばらくたって、身寄りのない彼の遺品は、遺言によって奈良崎の手もとに送られて来た。──その中に、手ずれのしたトランプが一組あった。それがあの晩、二人でポーカーをやったトランプである事を思い出した奈良崎は、奇妙な気分におそわれながら、カードをくった。あの晩、多木の手にできたツウ・ペアの、ダイヤとハートのクインの胸には、色あせ、うすくなった血痕がまだついていた。スペードとクラブのキングをぬき出してならべた時、奈良崎はぎょっとしてそれを見つめた。
キングの、血で汚れた手ににぎりしめられた剣が鋏にかわっていた。
だが、よく見ると、それは、トランプの表面の傷に、血がしみこんで、鋏のように見えただけだった。どこにはさまっていたのか、一本の長い髪の毛が、四枚のカードをからめるように、机の上にうねっていた。
作品紹介
厳選恐怖小説集 牛の首
著者 小松 左京
定価: 880円(本体800円+税)
発売日:2022年10月24日
小松左京ファン必読! 選りすぐりの恐怖小説集第2弾。
「あんな恐ろしい話はきいたことがない」と皆が口々に言いながらも、誰も肝心の内容を教えてくれない怪談「牛の首」。一体何がそんなに恐ろしいのかと躍起になって尋ね回った私は、話の出所である作家を突き止めるが――。話を聞くと必ず不幸が訪れると言われ、都市伝説としても未だ語り継がれる名作「牛の首」のほか、「白い部屋」「安置所の碁打ち」など、恐ろしくも味わい深い作品を厳選して収録した珠玉のホラー短編集。
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