澤村御影さんの新作『准教授・高槻彰良の推察 民俗学かく語りき』が11月22日に角川文庫より発売されます。発売を記念し、カドブンでは、11/19,21,23の3日間にわたって試し読みを配信します!
幼い頃、不思議な祭に迷い込んだ大学生・深町尚哉。大学に入学した尚哉は、超記憶能力を持つ青い瞳の准教授・高槻と出会う。高槻はツチノコやトイレの花子さん、幽霊物件といった、怪異や都市伝説を嬉々として研究していた。彼もまた過去に奇妙な体験をしていて――!?
第一章 いないはずの隣人
──その日、深町尚哉が『民俗学Ⅱ』の初回講義に足を向けた理由は、単に『なんとなく』だった。
尚哉はこの春から、青和大学文学部一年の学生となった。
青和大学は、東京都千代田区にキャンパスを構える私立大学である。大学HPの紹介文によると、学生の自由と個性を尊重するのが青和大の学風だという。
が、尚哉からすれば、そもそも大学というのは、高校までに比べると自由も個性も十分尊重されている場所だと思う。
何しろ履修する講義を自分で決められるのだ。必修科目はともかくとして、必要単位を満たすための一般教養科目は好きに選べる。履修案内や講義要綱と共に渡された白紙の時間割表を見て、高校と大学の違いをしみじみ感じたものだ。
だが、時間割を自分で決められるということは、うっかりハズレの講義を取ってしまっても文句は自分にしか言えないということでもある。つまらない講義や難解すぎる講義はできるだけ避けたい。が、講義要綱だけではいまいち判断が難しい。取るかどうか迷っている講義の様子を知りたければ、初回の講義に出てみるしかなかった。
『民俗学Ⅱ』は、文学部の一般教養科目の一つだ。
別に、民俗学にさして興味があるわけではなかった。というか、そもそも民俗学がどんな学問かもよく知らない。なんとなく、地方のお祭りや昔話の研究をしているようなイメージがあるくらいだ。
だが、この講義については、講義要綱に書かれていた説明文がちょっと面白かった。『学校の怪談や都市伝説等から、民俗学というものについて幅広くアプローチする』云々という文言だ。
学校の怪談に都市伝説。扱う内容がまるでテレビのバラエティ番組のようで、そんなものが本当に講義のテーマになるのかと興味を引かれた。
講義は水曜の三限。第一校舎201号教室。
担当は、高槻彰良。文学部史学科民俗学考古学専攻の准教授だという。
教室に行ってみると、大型の階段教室だというのに、もうほとんど席が埋まっていて驚いた。民俗学なんてそうメジャーでもないだろうに、たいした人気だ。
教室の中は学生達の活気と喧騒で満ちている。尚哉は思わず顔をしかめた。人の多い場所は、昔からどうにも苦手なのだ。
一瞬帰ろうかとも思ったが、せっかく来たのにそれもどうかと思い直す。講義も聴かずに回れ右はさすがに勿体ないだろう。音楽プレーヤーのイヤホンを両耳に突っ込んでプレイボタンを押し、眼鏡のブリッジを押し上げるついでに覚悟を決めて、前の方にまだ残っている空き席目指して階段式の通路を下り始めた。
と、途中で、茶髪の男子学生と目が合った。
名前は思い出せないが、確か、必修科目の語学で一緒になった学生だ。
向こうも尚哉に気づいたようで、「よお」と小さく片手を挙げ、
「なに、お前もこの講義取るの?」
「あ、うん、そのつもり」
音楽プレーヤーを止めて片耳だけイヤホンを引き抜き、尚哉はそう答えた。
「そっか、俺もたぶん取ると思う。ほら、これ教える高槻って、ちょっと有名人だろ? こいつなんて、文学部じゃねえのにわざわざ聴きに来てんだぜ」
隣に座っている友人らしき学生を指差し、茶髪が言う。
一般教養科目は、他学部のものでも単位になる。この教室を埋め尽くさんばかりの学生の数は、他所の学部の学生が交ざっているせいもあるらしい。
だがしかし、有名人というのは何だろう。テレビにでも出ているのだろうか。
尋ねてみようと尚哉が口を開きかけたとき、「そうだ」と茶髪が尚哉の方へちょっと身を乗り出した。
「あのさ、英語クラスの連中が、今夜飲みに行こうって言ってんだけど。来る?」
「……え、もう飲み会とかするの? 早くない?」
唐突な誘いに、思わず尚哉は苦笑いした。
大学生というのはとかく飲み会ばかりするものというイメージがあったが、どうやら本当だったらしい。ちなみに一年生の大半はまだ未成年のはずなのだが。
「いいじゃん、親交は早めに深めとくに越したことないって。講義とかサークルの情報交換もできるしさ。で、どうする、お前も来る? 女子も何人か来るってよ」
「あー……ごめん。今夜は、ちょっと」
尚哉が曖昧に言葉を濁すと、茶髪は「そっか」とあっさりうなずいた。
「ま、どーせこの先も飲み会はすると思うから。次はお前も来ればいいよ」
「うん、ありがと。それじゃ」
尚哉は軽く片手を振り、また階段を下り始めた。
後ろで、茶髪とその友人が話しているのが聞こえる。
「何あの地味メガネくん。友達?」
「あー、語学一緒で。あの講義、全員英語で自己紹介させられたし、席近かったから、覚えてんの。……名前忘れたけど」
「いやそれ、覚えてるって言わねえし」
名前を覚えていないのはお互い様だったらしい。
二人の声を背中で聞きながら、地味メガネで悪かったな、と思う。
大学入学を機にがらりと外見を変えてお洒落になる連中も多いらしいが、別に自分はそういうのは求めていない。そもそもこの春から一人暮らしを始めたので、懐事情は結構苦しいのだ。高校時代から着ているパーカーとデニムで大学に来て何が悪い。
それに──地味なくらいが、ちょうどいいのだ。目立ちたくない。
前から二列目の空き席にたどり着き、腰を下ろす。
すると今度は、すぐ後ろの席の女子二人の会話が耳に入ってきた。はきはきした声の女子と、少し舌足らずな甘ったるい声の女子。
「そういえばユキ、サークルどれにするか決めた?」
「えー? まだー。でもテニスにしよっかなって思っててー」
「ユキは高校もテニス部だったしね。あたしは、アナウンス研究会が気になるけど」
「えー、いいんじゃない? カナは話すの得意だから、アナウンスとか向いてそうだしさー。あ、それよかさ、昨日言ってた合コンの話なんだけどー」
「ああごめん、あたし、金曜は予定があるんだよね」
ふいに、はきはきしていた方の女子の声がぐにゃりと歪んだ。
まるで機械にでもかけたかのように、音の高低がでたらめに狂う。元の声とは似ても似つかぬ太く低い音から金属的に軋む高音までを不規則に行き来して。
背筋を滑り落ちる悪寒をこらえつつ、尚哉は背後を振り返った。
ショートカットの女子とふわふわしたロングヘアの女子だった。二人は何事もなかったかのように、会話を続けている。
「そっかー、予定あるなら仕方ないねー」
「うん、ごめんね。今度埋め合わせするから」
「いいよ、別の子に声かけてみるからさー。その代わり、次はカナも来てよねー?」
「わかったわかった、次は絶対行くって」
再び声を歪ませながら、ショートカットの女子がこちらに胡散臭そうな視線を向けた。尚哉は慌てて前に向き直る。
そうしながら心の中で、ロングヘアの女子に向かってそっと呼びかける。
──今君の隣に座ってる子は、たぶん合コンは好きじゃないんだと思うよ、と。
急に、教室中の喧騒が耳につき始めた。周囲の学生と話している者、スマホに向かって話している者、飛び交う会話。
「うっそ、マジで? 俺も高校時代はずっとバスケ部だったんだけどさあ」
「えー? リカコの連絡先? 知らなーい」
「うるせえなあ、おかんからの電話じゃねーよ、彼女からだよ彼女!」
「やだ、冗談だって! 気にすることないよ、似合ってるってその服!」
広い教室のそこかしこで声が歪み狂い、耐えがたい不協和音と化す。
尚哉は耳を押さえてうつむいた。後方でどっと複数の笑い声がはじける。お前らよくこんな中で笑っていられるなと思う。今度はすぐ後ろの席で、ロングヘアの女子の声が狂ったバイオリンのように派手に軋んだ。うるさい。うるさい。気持ちが悪くて息が詰まりそうだ。人の多いところはこれだから嫌いだ。やっぱり帰ればよかった。
あまりの耐えがたさに、止めたままだった音楽プレーヤーに手をのばす。
そのときだった。
「はい、こんにちは」
──その、声は。
何の歪みもなく、驚くほど真っ直ぐに耳に届いた。濁り淀んだ空気の中に、すっと一筋だけ白い光が射したかのように。
尚哉は、思わず声のもとをたどるように顔を上げた。
いつの間にか、教壇に一人の男が立っていた。
マイクを持っているからには、きっとあれがこの講義を担当する准教授なのだろう。だが、随分と若く見えた。すらりとした長身を、仕立ての良さそうな三つ揃いのスーツで包んでいる。
男は「あれ?」と呟いてマイクを見下ろし、
「──ええと、ごめんなさい。スイッチ入ってなかったね」
男の声が、マイクを通したものになる。教室内の喧騒が、笑い声に変わった。尚哉の後ろで、例の女子二人組もくすくす笑っている。
「やだ、何あれ。可愛い」
「ていうか、すっごいイケメン! あたし、この講義絶対取るー!」
女子達は、ひそひそとそんなことを言い交わしている。
成程、確かにあれはイケメンだ。大きな二重の目に、綺麗に通った鼻筋。薄い唇には親しみのわく笑みが浮かんでいる。端整なうえに優しげな雰囲気のその顔は、『甘いマスク』という小説でよく見かけるフレーズにいかにもふさわしいもののように思えた。やや茶色みがかった髪は、染めているのか地毛なのかわからない。
「あらためまして、こんにちは。『民俗学Ⅱ』を担当する高槻です。新入生の皆さんは、入学おめでとう。二年三年の人達は、今年もよろしく」
そう言って、高槻彰良は教室を見渡して軽く会釈してみせた。
不思議なほどに透明感のある声だった。男性にしてはやや音域が高く、マイクを通していてもふわりと柔らかに耳に届く。イケメンというのは、顔だけではなく声まで良いらしい。天は二物を与えすぎだ。
でも──なぜだろう。
あの声を聞いていると、なぜだか楽に息が吐ける気がする。