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試し読み

純粋さの塊のような生き方と、ありあまる将棋への情熱――【大崎善生『聖の青春』試し読み】

 小学校6年になった聖は文字通り将棋けの日々を送っていた。6年の秋に広島そごうで将棋のイベントがかいさいされ、米長邦雄、もりやすひでみつというスター棋士が指導対局を行った。いつものように伸一が聖を車で療養所へ迎えにいきそのイベントに参加した。
 聖が教わる相手は森安九段、当時は棋聖位を保持しているトッププレイヤーの一人だった。
「何枚落ちにしようか」と森安に聞かれた聖は「飛車落ちでお願いします」とおくすることなく答えた。その瞬間、森安は首をひねった。どんなに強い子供でも普通は飛車角落ちでもプロにはなかなか勝てない。まして自分はプロの中でも頂点に立つタイトルホルダーである。
「それでいいの?」と森安はもう一度やさしい声で聖に問いかけた。
「飛車落ちでお願いします」と聖は表情を一つも変えずに再び答えた。伸一はそのやりとりをどぎまぎしながら聞いていた。森安の顔が明らかにむっとしているように見えたからだ。
 5面指しの指導対局がはじまり、聖の将棋が最後まで残った。ほかの将棋はスイスイと駒を進めていく森安も、聖のところだけは少考を繰りかえした。
 聖はうわの攻めをたくみにかわし、するすると上部への脱出をくわだてる。プロの九段の鋭くかつ的確な攻めに少しもひるむようすもない。そしてついに聖の王様は安全地帯にまで逃げ延びた。それから一転、聖は森安じんもうこうけ、その姿からは想像もつかないようなふてぶてしい手つきであっという間にうわぎよくを仕留めてしまった。
 指導を終え観戦していた大人たちが一斉にため息をらした。森安はまるで勝負将棋を負けたように不愉快さを隠そうともしなかった。小学生とはいえ聖の将棋には勝負に対するしんらつさがあり、子供への指導とのんびり構えていたプロを熱くさせる何かがあったのだ。
 森安はひとことめなかった。ただこうすればどうするつもりだったかと聖に聞き、聖はかんはつを入れずにそれに答えるのだった。
 これが聖のはじめてのプロとの将棋であった。
 聖にとっては指導なんて何の意味もない。思いはただ一つ、目の前にある将棋に勝つこと、ただそれだけだった。強くなりたい、そして勝ちたい、そのじゆんすいな気持ちだけが聖を支えてきたのである。
 昭和57年1月、聖は小学校2年から5年間にわたり少年時代の日々をすごした原療養所を出て家に帰ることになった。成長とともに体力がついて病気にある程度抵抗できるようになったこと、薬の進歩により症状をおさえこめるようになったことがその主な理由である。
 5年ぶりに家に帰った聖は明らかに変わっていた。近所を駆け回ることも、トミコに反抗することもなくなっていた。ただ静かにひたすら将棋の勉強をつづけるのだった。
 聖は府中小学校に転入し、わずか3ヵ月後には同校を卒業する。小学校卒業を記念した寄せ書きには「努力」と書き残している。

 昭和57年、桜のく季節に聖は府中町立府中中学校に進学した。その7月に中学生名人戦に参加するために父に連れられて2度目の上京をする。
 市にある伸一の大学時代の友人の家に一晩世話になり、翌日千駄ケ谷の将棋連盟に向かった。しかし、全国の壁はやはり厚く、聖はベスト8まで勝ち進み敗退してしまった。優勝者はみやけんから参加したなかがわだいすけ現七段だった。
「お父ちゃん」
 とぼとぼと二人で将棋会館から千駄ケ谷駅へ向かう道すがら聖が言った。
「なんじゃ?」
「もっと将棋が指したい」と聖がぽつりとつづけた。
「悔しいんか」と伸一は聞いた。
「うん」と言って聖はくちびるんだ。
 その顔を見ていると何だか急に伸一は聖のことが不憫に思えてくるのだった。不意になみだがあふれそうになった。病気と闘いながら生きる聖があれほどに夢中に打ちこみ、自信と勇気の根源になりつつある将棋で打ちのめされた、そのことがせつないのだ。
「よし、聖、父さんが道場を探してやる。新幹線の時間まではまだだいぶあるから、ぎりぎりまで指せばええ」と伸一は言った。
「本当か?」
 どんなにか嬉しかったのだろう、聖の顔がパッと明るくなった。
 何のあてもない二人はとりあえず千駄ケ谷の駅の公衆電話に備えつけてある電話帳を繰って将棋道場を探してみることにした。そして西にしにつにある将棋センターを見つけ、そこへいくことに決めた。東京駅に電車一本で帰れて、迷わずにすみそうに思えたからだ。
 西日暮里将棋センターは駅の近くの雑居ビルの3階にある小さな将棋道場だった。「段級はどのくらいですか?」と女性のせきしゆに聞かれた聖は「四段です」と消え入りそうな声で答えた。
「じゃあ、とりあえずこの人とやってみてください」と席主は顔色一つ変えず手合いをつけてくれた。東京では四段の中学生なんてめずらしいものではないんだなと、席主の応対を見ながら伸一は思った。聖にしても伸一にしても、この大都会にされ、試合に敗れ、自信ががらがらと崩れていた。広島では強い強いと誉められたが、結局はの中のかわずだったんじゃないかとしんあんになりかけていた。全国には化け物みたいに強い子供がいっぱいいる。療養所のベッドの上で本だけを頼りに勉強してきた聖には、しょせん限界があるのではないかという不安が二人ののうをよぎっていた。
 しかし、聖はそんな弱くなりかけた気持ちをかき消すかのように、そして自らの壁をうち破るかのように勝って勝って勝ちつづけた。気がつくと結局道場にいた四段全員をことごとくやっつけてしまったのだった。
 もう道場に聖の相手はいなかった。帰りたくをしていると、玄関のドアが開き、一人のきよかんがふらりと店に入ってきた。聖に負かされたアマ強豪たちの眼が一斉にその男に注がれ、こころなしか皆の表情が明るくなったように思えた。
「彼ならこのむやみに強い中学生をやっつけてくれる」
 注がれた視線がそう言っていた。
 その巨漢こそはいけしげあきその人だった。
 しんけんとして全国にその名をとどろきわたらせていた小池は、昭和55年にアマ名人戦にはじめて参加しあつとうてきな強さで優勝、そして翌年も優勝をさらい2連覇の偉業を成し遂げていた。またアマプロ戦にも引っ張りだこで、しかもプロを相手に優に勝ち越すというきようてきな強さを誇っていた。その小池がふらりと西日暮里将棋センターに顔を出したのである。
 席主から話を聞いた小池はにこやかに聖に近づいてきた。そして「ぼく、強いんだなあ」と言った。
 聖も小池のことは「将棋世界」で知っていた。プロにいちばん近い、いやプロすらもおそいちもく置く存在であることも知っていた。
「一局やろう」とぶっきらぼうに小池が言った。もちろん聖に異存はなかった。
 何も言わずにコックリとうなずいてみせた。
 二人の対局をギャラリーがぐるりと取り囲んだ。その輪の外から伸一もかたをのんで見守った。
 大きすぎる体を丸めるように一心不乱に将棋盤に向かう小池には何ともいえぬ雰囲気があった。やはり強豪といわれる人間にはオーラのようなものがあるんだなあと、伸一はみように感心した。
 将棋は小池のしやあなぐまに聖がかんに急戦を仕掛けていった。決まったかに見えた聖の攻めをギリギリのところで小池がしのぎ、そして小池のはんげきを聖がいなしながら王様を逃げ回すという激戦になった。初心者の伸一が見ていても手にあせにぎる熱局だった。
 小池の指先に力がこもっている。聖も気合よく駒を打ちつけ少しもそれに負けていない。
 長い長い戦いを制したのは中学生の聖だった。小池がとうりようした瞬間、取り囲むギャラリーのかたの力がスーッと抜けたように思えた。伸一も知らず知らずのうちにホーッとため息を一つついた。
「僕、強いなあ」と小池は敗戦に何ら悪びれることなく聖をたたえた。先ほどまでのおにのようなぎようそううそのように、にこやかになっていた。
「はあ」と聖は少し照れたように笑った。
「がんばれよ」と小池は聖をやさしく励ました。
 道場でのオープン戦とはいえ、向かうところ敵なしと恐れられていた小池重明に勝ったことが聖にもたらした自信は計りしれないものがあった。
 広島へ帰る終電の時間が迫っていた。伸一は聖をうながして、道場を出ることにした。
 そのとき、手合係の女性が大学ノートを取り出しそこにサインをしてくれと言った。小池重明に勝った人には必ずサインをもらうことになっているというのである。
 聖はそこにサインをした。何だかとてもいい気分だった。
 広島に向かう新幹線の中で、聖もそして伸一もようようとしていた。中学生名人戦で敗れ、全国の厚い壁の存在を知りあんたんたる気持ちでいた昼すぎまでの二人がまるで噓のようだった。コミックを読みながら聖はごげんだった。
 小池重明を破った。それも、長時間にわたる力将棋の末。その事実が折れかけていた聖の翼を蘇らせた。アマ名人を破り、そして「強い」とうならせた。「僕、強いなあ」というくつたくのない小池のがおが何度も聖の脳裏をよぎっていつときも離れなかった。


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