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試し読み

純粋さの塊のような生き方と、ありあまる将棋への情熱――【大崎善生『聖の青春』試し読み】

 7月19日、聖は広島市民病院にきんきゆう入院することになる。ようだいはかなり重くわずかな予断も許さなかった。
 じんネフローゼは極度のろうや発熱がゆういんとなって起こる腎臓の機能障害である。はっきりとした原因はいまだに解明されていない。
 腎臓の果たす大きな役割のひとつにたんぱくしつを血液中に取りこむというものがある。ネフローゼを発病するとその装置に異変をきたし、血液中に取りこまれるべき蛋白の大半がはい尿にようという形で体外に流出してしまうことになる。
 血液中の蛋白質にはしんとうあつの調整という重要な役割がある。体内の水分は蛋白質ののうの低いほうから高いほうへと流れていく。
 腎臓の濾過能力が低下し、血液中の蛋白濃度がうすれることによって浸透圧のバランスがくずれ、水分が各さいぼうへと流出しはじめる。その結果、顔や手足が異様にむくみ出すのである。
 最悪のケースは肺に水分が流れこむ、はいすいしゆ。呼吸困難におちいり死亡することが多い。
 蛋白質は細胞のばんでもある。その蛋白質が不足すると白血球をはじめ、身体を守るめんえき細胞の供給が減少し、ていこうりよくが低下する。そのために、ちょっとしたことで高熱を発しやすくなるのだ。
 最高の良薬は安静にすること。何もせず何も考えずにジーッととんに横たわっているのが、もっとも効果のあるりよう方法なのである。しかし、それは同時に遊びたい盛りの子供たちにとっては、もっとも困難な治療方法でもあった。
 広島市民病院に入院した聖は1週間もしないうちに尿から蛋白がスーッと消え、たちまち元気を取り戻した。
 しかし、それからがこの病気の難しいところである。熱も引き体のだるさからも解放された子供は病気が治ったと思ってはしゃぎ回る。そして少し回復しては、遊ぶことに体力を使い果たしまた発熱というあくじゆんかんを繰りかえすことになるのだ。
 聖のはじめての入院もそんなことを何度か繰りかえし、結局退院したのは年のも押しせまった12月28日。入院した日からもう5ヵ月の月日が流れていた。
 病院から戻った聖は近所の元気な子供たちの先頭に立って、坂道を朝から晩まで駆け上がったり駆け下りたりの日々を送った。山にうように造られた桜ケ丘団地は、坂で成り立っているといっても過言ではなく、それは安静という宿命をかかえる聖にとって決して快適なかんきようではなかった。
「安静が第一じゃ」と伸一がいくら口をっぱくして言っても聖は何一つ耳を貸さない。
 それはある意味ではしかたのないことなのだろう。子供は子供同士でつかれ果て動けなくなるまで遊び、そうすることによって体力と社会性を身につけていくのである。それはねこたちがじゃれあいながらしゆりようの方法を覚えていくように、人間らしく成長していくために欠くことのできないことなのかもしれない。
 聖は人気者だった。特に自分より年下の子供たちへのやさしさやいたわりは誰もが感心するほどだった。くる日もくる日も、近所のわんぱくを引き連れて、病気なんかどこく風と活発に遊び回っていた。そんな聖を見ていると、伸一もトミコもこのまま順調に育っていってくれることを祈らずにはいられなかった。
 しかし、人間的な成長をするためには結局のところ聖は大きなだいしようはらわされることになる。子供の病気の最大の悲劇がそこにあるのかもしれない。成長していくという本能が、自分の抱える病気という現実との間に大きなじゆんを生んでしまうのである。
 そのどうしようもない矛盾が、子供をいらたせ、結果的に必要以上にあばれさせることになる。
 暴れては発熱、少し休んではまた暴れて発熱。そんなことを何度か繰りかえし、とうとう聖は一歩も動けなくなってしまった。

 不思議なゲーム

 昭和50年8月5日、6歳になった聖は広島市民病院に再入院することになる。
 腎ネフローゼの再発であった。
 このころから聖は夢中で本を読みはじめる。
 トミコは毎日のように児童文学書を買い求めては病院に届けた。図書館からも借りた。しかし、あっという間に図書館の児童文学書は借りつくし、気がつけばもう一冊も残っていなかった。
 知人が17冊まとめて貸してくれたこともあった。しかし、それもそう長くはもたなかった。本を読むスピードがけたちがいに速いのだ。何よりも聖には病院のベッドというへいたんぼうだいな時間があった。
 この年の9月に聖と同じ部屋に入院していた女の子が死んだ。みゆきちゃんという、聖よりもまだ幼い子だった。6歳の聖に死の意味を正確に理解できたかどうかはわからない、ただ確かなことは今朝けさまでとなりていた女の子が動かなくなってしまったということ。そして、どこかへ連れ去られ、もう二度とは戻ってこないだろうということだった。
 常に死と隣り合わせのかんきようで、そして自分自身もいつも死のすぐ横にいる。それは、病気で入院しているということのげ場のない現実だった。
 少しでもそんな入院生活の気晴らしになればと、伸一は聖にいろいろなゲームを教えてやった。
 トランプや花札やもくならべ、その中の一つにしようがあった。
 ある日、伸一は将棋ばんこまを雑貨屋で買って聖の病室を訪ねた。そして並べかたと駒の動かしかたを教えてやった。伸一も将棋は動かしかたとルールを知っているくらいである。
 聖はベッドの上に、伸一は来客用の丸いに腰かけて二人ははじめて盤をはさんで向かい合った。駒の動かしかたもおおざつなルールも聖は15分ですぐに覚えた。
「とりあえず一局やってみようや」と伸一が言うと聖の目がキラキラとうれしそうに輝いた。
 こうして病院のスチールベッドの上で、村山聖にとってはじめての対局が行われた。いつもは熱にうなされ体のだるさにひたすらえ、そして少し元気が出てくると膨大な時間をもてあまし、そうやって一日の大半をすごすベッドの上で聖はぎごちない手つきで駒を動かしたのだった。
 聖はもちろん、伸一もまったくの初心者なので、一局の将棋があっという間に終わってしまう。
 それでも二人で1時間ほど指しただろうか、それは初心者同士のめちゃくちゃな、それでいて何ともかいな将棋だった。
 その夜、聖は不思議なこうようかんでうまく寝つくことができなかった。
「またやってみたい」と思った。
 昼間に父親と指したシーンがせんめいよみがえり、なぜか顔が熱くなった。
「今度父ちゃんいつきてくれるんじゃろう」
 そう思うたびに目がえてくるのだった。
 広島市民病院の同室の女の子がいなくなったベッドの上で、聖は生まれてはじめて将棋を指し、その興奮に眠れない長い夜をすごしていた。それは将棋という小さなさかずきが音もなくかわに浮かべられたしゆんかんである。
 腎ネフローゼにおかされ1年の半分以上を病院のベッドの上で暮らさなければならない少年の胸がわけもなくときめいていた。少年はいま、将棋という不思議なゲームと出会い、新しいつばさを手に入れたのである。
 村山聖、6歳の初秋のことであった。

 2度目の入院は8月5日から11月29日まで4ヵ月におよんだ。
 退院して家に帰ってきた聖はどうしようもないほどのかんしやくちになっていた。ちょっとでも自分に納得がいかないことがあると気がれたように暴れた。
 自分に襲いかかった病気というじんな運命を、幼い聖には理解することもまたうまくおさえこむこともできなかった。心の奥底からき上がる苛立ちがまとわりついて離れない。それを無理矢理ふりほどこうとするかのように聖はくるった。
 特にトミコへのはんこうれつきわめた。
 ちょっとしたことでごとを言った瞬間、聖はほつを起こしたようにドアをありったけの力でドンドンとたたきはじめた。やめろと言えば、ますます激しく暴れる。隣の部屋に立ててあったトミコのよめり道具の三面鏡がたおれ、鏡が粉々にくだけ散った。
 さすがにまずいと思ったのか、聖は隣の家にだつのごとく逃げこみ押し入れの中にかくれてしまった。バタンと戸を閉めて、それっきりいくら呼んでも出てこない。
 どうしたらいいのか、トミコは困り果ててしまった。
 隣のお兄さんがまんののらくろの本を持ってきて押し入れに向かってこう言った。
「聖君、ここにのらくろを置いておくぞ」
 しばらくすると、押し入れの戸がわずかに開き、聖の手がびてさっとのらくろをひったくってまた閉じた。それからどのくらいったのだろうか、やっと落ち着きを取り戻した聖がのらくろを片手に押し入れから出てきてくれた。
 何にしても一度「いやじゃ」と言い出すと、もうおしまいだった。てこでも動かなくなる。それは、聖が手にしているゆいいつの最終兵器のようなものであった。
 いつもテレビのアニメにかじりついていた。あまりにも度がすぎるので祐司が聖のているテレビをバシッと切ったことがあった。
 聖の顔色がさっと変わり、外へ飛び出していった。しばらくすると、まるでしんのように家がれはじめた。ドーン、ドーンと地鳴りのような物すごい音がする。
 何事かと思いあわてて外へ出てみると、聖が野球のバットを持って全力で家をなぐっているのだった。壁には大きなあながあいていた。
 あるときはさいなことで癇癪を起こして家中の本を外に放り投げはじめた。手に持てるだけの本を持ってげんかんまで走りそこから外へぶん投げる。投げ終えるとまた部屋にい戻り本を持つ、そんなことを延々と繰りかえすのだ。後で集めると、放り投げられた本はみかん箱5箱分もあった。
 反抗することでも聖はたぐいまれな集中力を発揮し、そのはくりよくは子供とはいえ迫るものがあった。
 そんな聖の横暴ぶりを伸一はすべて許した。祐司や緑には厳しすぎるほどに厳格な伸一だったが、どうしても聖をおこる気持ちにはなれなかった。怒るどころか、そうやって自分の中にあるどうしようもない宿命と闘っている息子がびんに思えてならないのだ。
 母は母で、父は父でそして兄は兄で、それぞれにどこかで聖に対する後ろめたさを持ちつづけていた。聖の抑えきれない苛立ちは、ある意味では自分たちの責任であるといつも感じていた。
 重い病気の子供を持つ家庭特有の勢力地図が知らないうちに村山家にもでき上がっていた。聖はその力関係の上に君臨する王様のようにふるまい、またそうすることしかできなかったのである。


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