1月31日(木)、重松清さんの新刊『木曜日の子ども』が発売となります。
本作の発売を記念して、1月21日(月)~30日(水)まで10日間連続での発売前特別試し読みを行います。
【第1回】
平和なニュータウンに位置する中学校に届いた、一枚の脅迫状。すべての悪夢は、そこから、始まった――。
第一章 事件
その街の名前は、以前からよく知っていた。足を踏み入れるのは初めてでも、なだらかな丘をまるごと造成した街の地形や、主要な建物や道路の位置関係は、自分でも驚くほど正確に記憶に残っていた。
七年前の夏、そこは日本中のどこよりも有名なニュータウンだった。街の歴史から住民の平均年収まで、さまざまな情報がマスコミを通じて全国に流された。
事件が起きたのだ。
旭ヶ丘というありふれた地名は、その夏以来、特別な意味を帯びて語られるようになった。
どこかで進むべき道を間違えてしまった私たちの社会の象徴として。かつて確かにあったはずの絆をなくしてしまった家族の象徴として。そして、疲れて、病んで、決して踏み越えてはならないはずの一線をためらいなく越えてしまう子どもたちの象徴として。
七年前の夏の終わり、「緊急特番」と銘打たれた長時間の討論番組が週末の深夜にオンエアされた。
「旭ヶ丘は、いまの日本の縮図です」と一人のパネリストが言った。
「旭ヶ丘の教訓を、これからどう活かしていくかが肝心なんです」と別のパネリストは言った。
「いや、その前に」とマイクに身を乗り出した三人目のパネリストは、「少年法の改正について、そろそろ本格的に論議すべきではありませんか」と言った。
私はその番組を自宅のテレビで観た。ウイスキーを啜り、手元の雑誌や新聞をぱらぱらめくりながらだったので、討論の細かい中身はほとんどなにも頭に入っていかなかった。ただ、十人以上のパネリストが並んだその討論が出口を見失って堂々巡りをしていることだけは、素人目にもよくわかった。
画面の右上には、叩きつけるような筆文字の小さなテロップがずっと出ていた。マスコミが命名した事件の名前も、そこにあった。
〈徹底討論! 「木曜日の子ども」事件の深層!〉
討論番組では、U字形に着席したパネリストの真ん中に司会者が座り、その背後に事件の経緯を記したボードが掲げられていた。
経緯についてはカメラがボードをアップで撮らなければ読み取れなかったが、そんなことをしなくても、事件の舞台となった旭ヶ丘ニュータウンの名前を、誰もがすっかり覚えてしまったように、事件についての重要な事柄も、私たちの頭の中には刷り込まれていた。
事件の日時は、七月一日――その日のお昼前、旭ヶ丘中学校宛てに一通の封書が届いたところから、すべては始まったのだ。
中に入っていたのは、コピー用紙が一枚。パソコンの文字で一行だけ書いてあった。
〈もうすぐたくさん生徒が死にます みんな木曜日の子どもです〉
脅迫状にしては、あまりにもつかみどころのない文面だった。かといって、生徒が死ぬと書いてある以上、取り合わずに放っておくわけにもいかない。
手紙を開封した教頭はその場に居合わせた数人の教師と相談して、念のために、というつもりで警察に電話を入れた。
警察も要領を得ない話に困惑しながら、とりあえず警官を学校へ向かわせることにした。
だが、交番の警官が着いたときには、もう事件は終わっていた。
死亡した生徒九名。
入院した生徒二十一名―うち三名は、一時昏睡状態に陥る重症だった。
すべて、二年一組の生徒だった。さらに担任教師も入院して、その後は教壇に戻るどころか、重篤な後遺症で社会生活も営めなくなってしまった。
給食の野菜スープに、毒物が混入されていた。ワルキューレという名前で一般に知られる、無色無臭の化合物だった。北欧神話に出てくる、戦場で死者を選んで冥界へと導く乙女たちに由来する名前どおり、きわめて強い毒性を示し、消化器から吸収されると瞬時に嘔吐や痙攣に襲われ、呼吸が停止する。一方、気化したワルキューレを吸い込むと、これもまた瞬時に心臓が激しい痙攣を起こし、心室細動と同じ症状を呈して死に至る。どちらの場合も摂取から症状が出るまでの時間があまりにも短いため、有効な解毒方法はない。
成人の致死量、一グラム。鑑識の調べでは、それが寸胴鍋に二十グラム以上も入れられていたらしい。均一に混じりきらない、その濃度の差が、生死を分けた。
犯人は、二年一組の男子生徒だった。
(第2回へつづく)
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