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試し読み

異能バトル×頭脳バトルが融合! 痛くて切ない本格ミステリ 『教室が、ひとりになるまで』 大ボリューム試し読み第3回!

「2020本格ミステリ・ベスト10」13位に入るなど
2019年2月に刊行された『教室が、ひとりになるまで』が話題の浅倉秋成さん。
本作は第20回本格ミステリ大賞と、第73回日本推理作家協会賞
長編および連作短編集部門の候補作にも選ばれています。
本格ミステリとしてはもちろんですが、青春小説としても傑作の本作。
今回は特別に第一章を全文試し読みとして公開いたします。

>>前話を読む

◆ ◆ ◆

 3

 果たして本当に白瀬家と同じ間取りなのかと疑いたくなるほどに、我が家は狭い。
 とにかくものが多い。そもそも広くもない3LDKに六人で住むことが間違っている。
 ただいま、と半ば独り言のようにつぶやき、すぐに玄関にあふれかえった靴を無理矢理端に寄せて自分のローファーをねじ込むスペースをつくる。ボトルネックになっている縦長の収納ラックを避けるため半身になって廊下をすり抜け、リビングで山と化した洗濯物の横に自分の鞄を置く。振り向いた際にスマホをいじっていた弟の背中をばしてしまい謝り、そこに立たれるとテレビが見えない──と母親と妹に非難される前に素早く子供部屋に向かう。クローゼットを開け、乱雑に畳まれた服の中から着替えを選び身につける。大学で使用する資料をパソコンで作成していた兄が煩わしそうにこちらをのぞき見るので、すぐに出て行くよと身振りで合図を送る。
 予定していたよりも美月の家に長居をしてしまった。アルバイトの時間が迫っている。家を出る際に弟が「これともちゃん宛に届いてた」と白い封筒を差し出してきたのでよく確かめもせずに受け取り、礼を言ってから鞄に詰め込む。
 電車に乗り込むと適当な席に腰掛ける。遅刻はなさそうだと確信すると、ふと思い立ってLINEを立ち上げた。AB組合同で作成されたグループのアルバムを開くと、仮装パーティのときの写真が大量に出てくる。目的の集合写真はあっという間に見つかった。縮小表示のままだと複雑に絡まったカラフルな毛糸のようにしか見えない写真を指で拡大し、AB組合わせて七十人に及ぶ生徒たち、一人一人の仮装をじっくりと観察する。どこから借りてきたのか他校の制服を着ている者がいたり、教師の怒りを買うギリギリのラインを攻めた露出度の高い服を着ている者がいたり、エプロンだけを着用し喫茶店の店員だと言い切った僕のように、それと言われなければ何の仮装をしているのかわからない者がいたりと、実に個性豊かな仮装がそろっていた。しかし、ついに死神の格好をしている生徒は見つけられない。
 僕はイヤホンを耳にはめ込んで音楽をかける。気に入っているさいとうかずよしの曲が流れ始めたにもかかわらず、こぼれたのはため息だった。
 美月の話は、果たしてどこまでが真実だったのだろうか。
 死神に出会ったことがそもそも噓なのか、そういう仮装をした人物はいたものの会話の内容を誤って記憶してしまったのか。いずれにしても美月がそうとう精神的に追い込まれていることは疑いようがない。僕は窓外の景色をぼんやりと眺めながら、小さく顔をしかめた。
 校長が全校集会で言っていたとおり、僕らの学校では相次いで三人もの自殺者が出ていた。
 最初の自殺者は小早川燈花という隣のクラス──B組の女子生徒だった。合同のレク企画で何度か顔を見たことはあったはずなのだが、僕にとってはこれといった思い出のない生徒だった。会話をしたことすらない。遺影を見て初めて『そういえばこんな女子もいた気がする』。
 写真で見た限りだが、彼女はれいな顔立ちをしていた。髪はうっすらと茶色に染められ、毛先には緩やかなパーマがあてられていた。学校指定のリボンではなく、それよりも一回り大きなピンク色のリボンを胸につけていた。独自に調達したのだろう。しゃれっ気のある女子生徒の多くは誰でもそうしている。レク企画の運営に積極的だったそうなので活発な生徒だったのだろうが、大声を出して馬鹿騒ぎする雰囲気には見えなかった。場の空気に合わせて適切なサイズの笑顔を提供できるお嬢様タイプ──といったところだろうか。数枚の写真を見ただけの僕が、勝手な推測を重ねてどうにか導き出せるイメージは、そんなところだった。
 そんな彼女は五月の末頃に、新棟四階の女子トイレで首をって死んだ。おそらくは放課後に実行したのだろう。変わり果てた彼女の姿が発見されたのは、翌日の朝のことだった。遺体の第一発見者は、美月が死神に殺されるかもしれないと言っていた、山霧こずえだった。足下には倒れた脚立と直筆の遺書があったという。遺書の文面はこうだった。
 ──私は教室で大きな声を出しすぎました。調律される必要があります。さようなら──
 どこまでしんぴようせいのある情報なのかはわからないが、多くの生徒たちがこの文言こそが彼女の最後の言葉だったと信じている。
 二人目の自殺者は村嶋竜也。僕と同じA組の男子で、とにかく目立つ生徒だった。身長が百九十近くあったということもあるし、純粋に顔がかっこよかったということもある。声が他の生徒より一段階低かったのも、彼の存在感を際立たせるアクセントになっていたように思う。彼が口を開くと、誰もが自然と耳を傾けざるを得ない空気ができあがった。人望のない教師に比べれば、彼のほうがよっぽど強力な発言権を持っていた。
 元々はバスケ部で活躍していたらしいのだが、かんせつひざもしくは足首──とにかく下半身だったと思う──を悪くしてしまい、惜しまれながら二年進級時に退部。そこからは帰宅部の一員になった。他クラスの友人が多く、休み時間ごとに多くの生徒が彼に(彼だけにというわけではないのだろうが)会いにやってきた。女子からの人気も相当なものだったはずだ。B組の女子と交際しており、そんな二人の関係性こそが、AB組合同のレク企画立ち上げのきっかけにもなったのだと、少なくとも僕は認識している。
 彼は小早川燈花が首を吊った次の週に、視聴覚室の窓から飛び降りて命を絶った。視聴覚室は四階にあり、落下した先はアスファルトだった。即死だったそうだ。噂によればバスケ部に在籍するC組の生徒が落下する瞬間を目撃したとのことだったが、詳細は知らない。僕はいくつかのまゆつばな噂を耳にしてはそれを大噓だと決めつけ、いくつかのそれらしい情報にも疑いのまなしを向けた。結局、直筆の遺書があったらしいということと、その文言が以下のようなものだったということ以外、僕は何も知らない。
 ──私は教室で大きな声を出しすぎました。調律される必要があります。さようなら──
 小早川燈花のものと、まったく同じだった。
 さすがに二週続けて自殺者が出たことに学校は揺れた。小早川燈花の死を嘆いての後追いという可能性がもっとも理解しやすいものであったが、二人がそこまで深い関係にあったとはとても思えないというのが親しい生徒たちの総意だった。二人は表向きにもほどほどの仲の良さを保っていたし、人目を忍んで巧妙に交際をしていたというのも考えにくい。
 あんなに元気だったのに、なんで、どうして。
 しかし友人たちの疑問が解消されるよりも先に、三人目の自殺者が出てしまった。
 高井健友が空き教室の窓から身を投げたのは、村嶋竜也の死のおよそ二週間後で、今日から数えると十日前の出来事ということになる。村嶋竜也をどっしりと構えたリーダータイプだと評するならば、高井健友は常に大声を出しては活発に動き回るムードメーカータイプだった。流行はやりの芸人の真似をいち早く取り入れてはそれを連発。誰彼かまわず平気で声をかけることができる社交性の塊のような人物だった。前髪をヘアーゴムでちょんまげのようにまとめるのがポリシーのようで、何人もの教師にやめるよう注意されながらも『校則違反ではないっしょ』を決まり文句にテコでも変えようとしなかった。
 そんな彼も、さすがに二人の死に相当参っていたようだ。仮装パーティではどうにか元気にはしゃぎまわっていたが、無理をしているのは誰の目にも明らかだった。普段から陽気な人間は落ち込んだときの落差が顕著に出てしまう。
 彼は月曜日の放課後、空き教室のベランダから中庭に向かって飛び降りた。まだ午後五時前だったので、向かいの音楽室では吹奏楽部が活動をしている真っ最中だった。不幸にも何人かの生徒が落下する瞬間を目撃してしまい、その中のさらに数人は精神的なショックから学校に来られない状態にまでなってしまったらしい。彼が飛び降りたベランダには、綺麗にそろえられた上靴と、やはり遺書とが残されていたのを現場に居合わせた事務員が確認している。
 遺書の文面は、
 ──私は教室で大きな声を出しすぎました。調律される必要があります。さようなら──
 死神の存在を信じたくなる美月の気持ちも、わからないわけではない。それでも特殊能力の存在を真剣に検討するよりも、一種のウェルテル効果を疑うほうが明らかに建設的だろう。一つの自殺が、また一つの自殺を呼び、さらに次の自殺を呼んだのだ。ゆううつは簡単にでんしていく。
 達観したことを言って偉ぶるつもりはないが、思春期ならなおのことだろう。誰もがいかだにしがみついて、波の高い海を遭難するようにして生きている。過度に絶望してみせることすら、一種の希望なのだ。遺書の文面が似通っているという噂については単純にデマだろうということで僕の中では決着がついていた。何が何でもそこまで似るはずはないだろうし、そもそも誰かが読み上げたわけでもないのにここまで多くの人が文面を知っていることに違和感を覚える。すべては噂好きの生徒たちによって少しずつ積み上げられた虚構の重なりに違いない。
 彼ら三人はみんな、本当に自殺したのだ。
 理由はわかるはずもない。彼らには彼らなりに越えがたい波があったのだろう。彼らが僕の悩みを理解できないのと同じように、僕もまた彼らの悩みを理解してあげることはできない。
 三人の自殺者のこと、久しぶりにまともに会話をした美月のこと、彼女の口から飛び出した死神による陰謀論のこと。そういったあらゆるもやもやは、バイト先の慌ただしい空気の中にあっという間に溶けていった。
 僕の仕事はショッピングモールのフードコート内にある蕎麦そばで、ひたすらに蕎麦をで続けることだった。ずんどうに注文を受けた分のめんを落とし、長いさいばしでほぐして躍らせる。茹で時間はわずか一分半。それでも夕食どきは冗談みたいに注文が殺到し、最高難度のリズムゲームをプレイしているような気持ちになって何が何だかわからなくなってくる。繁盛の理由はうちの蕎麦が格別に美味うまいからではなく、この店の他にろくな飲食店がないからだ。前日に工場で打たれてからのんびりと輸送されてくる麵を、高校生のアルバイトがなんとなく茹でているのだ。評判を生むはずもない。
 二時間半が経過すると短い休憩に入る。茹で汁と薬味がついた前掛けを外して、バックヤードにある他店と共有の休憩スペースへと向かう。NHKには興味をそそられなかったのでテレビからは距離を置き、声の大きかったそうざいの二人組からも目一杯に距離をとる。座ってすぐ楽器屋からもらってきたマーチンのカタログを取り出そうとすると、鞄に突っ込んだ指先にはみのない感触があった。細長い、でも厚みのある白い封筒が入っている。
 出掛けに弟が渡してきた封筒だ。確かに垣内ともひろ様と書いてはあったが、裏面に肝心の送り主の名前はなかった。どことなく気味が悪くなり、しばらくひっくりかえしては元に戻してを繰り返していたのだが、開ける他に選択肢はないと気づいて封を切る。中から出てきたのは綺麗に畳まれた七枚の便びんせんだった。
 おそらく万年筆でつづられたのだろう抑揚のある青いインクを追い始めてすぐ、僕は言葉を失った。

拝啓
 初夏のみぎり、垣内様におかれましては文武にご活躍のこととおよろこび申し上げます。
 さて、この手紙を受け取ったあなたは、まったく心当たりのないことに大いに戸惑っていることと思います。無理もありませんが、一つ一つ理解していただければ幸甚の至りです。
 諸事情あって名前は明かせないのですが、私はあなたが現在通われている私立きたかえで高校の卒業生です。高校時代の思い出は楽しいものから悲しいものまで枚挙にいとまがなく、ここにすべてを記すことはとてもかないません。今のあなたがそんな高校時代のただなかにいることをどこかうらやみ、しかし同情し、同時に励ますような気持ちで筆を走らせています。長い導入にれったい思いをされているかもしれませんが、緩やかでえんな書き出しはこれから伝えることの重大さ、非現実性への布石だと受け止めていただければ幸いです。
 本題に入ります。北楓高在学時の私は、少し変わった能力を使用することのできる生徒でした。それは人より耳がいいとか目がいいとか、あるいは舌先が鼻の頭にまで届くといった常識の延長にある特殊性のことではなく、もっと超常的で特別なものでした。こういった能力を持つ生徒のことを、我々は伝統的にと呼んでいます。能力は卒業と同時に在校生へと代々引き継ぐのが慣習になっているので、能力を受け取った者の意としてという呼び名が定着したのでしょう。これが正式名称であるのか俗称に過ぎないのかは私の知るところではありません。いずれにしても、北楓高校には常に四人のが存在しており、それぞれ異なった能力を有しています。
 ここまで書けばお察しいただけるかもしれませんが、この度、本能力の三十三代目のにあなたが選ばれましたのでこの手紙をしたためた次第です。前述のとおり卒業と同時に能力を引き継ぐのが基本ではあるのですが、今回は私が指名した三十二代目のが不幸にもこの世を去ってしまいましたので、急遽、卒業した身である私が再度を指名する必要に迫られました。
 失礼ながら在校生の名簿だけを見て適当に再指名を行いましたので、私はあなた様がどのような人となりであるのか存じ上げません。あなたが良識のある人物で、この能力をきっと学校の平和と生徒の幸福のために活用してくれるものと願っております。
 卒業する際には、やはりあなたも本能力の三十四代目のを選定する必要があります。よって在学時からに値する人物を厳選しておくことを強くおすすめいたします。選出時の手続き、手紙の書式、名簿の取り寄せ方法等は別紙にまとめておきましたのでご参照ください。
 どうして北楓高校に四つの能力が伝わっているのかということについては、本学の創立者であるきしたにりようけん氏の自伝に詳しいので、気になった場合はご参照ください。図書室に一冊だけ所蔵されています。以下、本能力に関する説明と、基本的なルールを列記いたします。先の文章と重複する箇所もありますが、熟読することをおすすめいたします。

■あなたの能力について
1.あなたに与えられた能力は『噓を見破る能力』です。
2.発動条件は体に瞬間的に強い痛みを与えることです。
3.痛みを覚えてまもなく耳にした他人の台詞について、あなたはその発言が噓であるのかどうかが判定できるようになります。
4.仮に発言が噓であった場合、あなたには言葉が震えたように感じます。この『震え』を具体的に言葉で表現するのは非常に難しいのですが、実際に耳にすればすぐに理解できると思います。声が膨張したような、ゆがんだような感覚になります。
5.ただし能力は同一人物に対して三回までしか使用できません。能力の使用は計画的に、慎重に行うことを推奨します。

について
1.校内には常時、あなたを含めて四人のが存在しています。すべて生徒です。
2.彼らは、それぞれ異なる能力を有しており、その発動条件も異なります。
3.能力の内容と発動条件を他人に知られたり、言い当てられたりすると、力は瞬く間に失効してしまいます。よってあなたは能力の詳細を誰にも語ることはできません。力を人に見せつけるような真似もおすすめできません。
4.すべての能力は私立北楓高校の敷地内でしか発動しません。
5.卒業時、あなたは次のを、新入生を含めた在校生の中から選出する必要があります。
6.選出せずに卒業した場合、新一年生の中からランダムで新たなが選出されます。
7.が死亡した場合は、先代のが新たなを在校生の中から再度選出する必要があります。
8.能力を言い当てられるなどして能力が失効した場合、次のは三年後の新一年生の中からランダムで選出……

 僕は静かに便箋を畳んだ。
 よくここまで読んだものだと我ながら感心した。さすがにこんな手紙で胸を躍らせるほど子供だと思われているのだとしたら甚だ不愉快だったし、それ以上にこんなものをせっせと書いている姿を思い浮かべると肺の隅から隅までむなしさでいっぱいになる思いだった。
 これを書いたのは、間違いなく美月だろう。
 やや達筆すぎるような気もしたが、美月の筆跡なんて実際のところよく知らない。おそらくは先ほどの死神の話を信じさせるためにわざわざこれを僕の家の郵便受けに忍び込ませたのだろう。そうとしか考えられない。彼女の予想では、この手紙を読んだ僕がぷるぷると手を震わせて『美月の話は本当だったのだ。学校には四人も能力者がいて、そのうちの一人が死神だったのだ』とでも確信してくれると思ったのだろう。
 いったい何が彼女をそうまでして死神による陰謀論に固執させるのか。僕は現実が見られなくなってしまった美月の現状に不覚にも涙を浮かべそうになり、慌てて首を横に振った。
 封筒を鞄に放り込もうとしたときに、切手の上に消印が押してあることに気づいた。昨日の日付だった。やや奇妙だ。当然ながら、そうなると美月はこれを昨日の時点で書き上げてポストにとうかんしていたということになる。つまり美月は、今日僕が訪れると訪れないとにかかわらず、僕を呼びつけてでもあの話をするつもりだったということだろうか。いや、手紙が届いてから改めて説明するつもりだったのだろうか──と、いろいろなことの整合性を考え始めたところで、頭の上から声が降ってきた。
「ラブレター?」
 休憩室で会うごとに声をかけてくるタピオカドリンク屋ののりさんだった。
 僕は違いますと言って封筒を鞄にしまった。「なんか、変な手紙でした」
「不幸の手紙?」
「そんな感じかもしれません」
「え、何それ。めっちゃ怖いんだけど」と言いながら、がははと手を叩く。
 一般的に健康的な体つきと言われるところから更にもう一回り半ほどふっくらとした彼女と知り合ったのは、働き始めて間もない頃だった。やはりここで休憩していたときに、これは誰かと人違いをされているのではないかと思うほどフランクに話しかけられた。「私の名前は『のり子』です」と自己紹介されたわけではなく、彼女の着ているエプロンに『のり子』とカラフルな丸文字で書いてあるのを見て名前を把握しているだけなので、一度も彼女のことを名前で呼んだことはない。さすがに偽名や源氏名ではないと思うが、万が一を考えると名前を呼ぶ勇気は湧いてこなかった。一方の僕はおそらくどこかで名乗ったことがあるのだろう。いつの間にか愛称をつけられていた。
「そういえばかきちゃん、北楓だよね? 今ヤバいんじゃないの?」
「……自殺のことですか?」
「そうそう。なんか四人も五人もって。記事がちょいバズってるの見たよ」
「三人です。よく知ってますね」
「学校名見たときに『垣ちゃんのとこだ!』って思って、めっちゃビビったよ。自殺に不幸の手紙なんて、けっこうヤバいんじゃないの?」
 広くもない休憩室に自殺という刺激的な言葉が響くと、周囲の視線が自然と集まってきた。僕は声のトーンを落として、
「手紙はたいしたことじゃないです。自殺は、たまたま重なっちゃっただけだと思いますよ」
「ふうん。でもなんか怖いよねぇ……あ、ギターやっと買えそうなの?」
 僕の鞄からマーチンのカタログがはみ出しているのを見つけたのだろう。奔放に話題を切り替えることに抵抗のないのり子さんは、また大ぶりの笑顔を見せた。
「まだ、もうちょっと貯めないとダメですね。二十万以上するやつにしようと思ってるんで」
「に、二十万!? 大学でバンドサークルに入ってる友達は一万ちょっとのやつ買ったって言ってたけど、エレキじゃないやつってそんなに高いの?」
「普通に安いアコギもありますけど、せっかくならいいやつが欲しいんで」
「はー、垣ちゃんはストイックだ。すごい高校生だよ」
 それから彼女はしばらく脈絡なく様々な話を提供してくれた。大学のつまらない授業は軒並み自主休講を決め込んでいること、最近ネットフリックスに加入したので日がな一日アメリカのドラマを見て過ごしていること、個人的なマッコリブームが到来してしまい一人暮らしの部屋で記憶がなくなるまで飲み続けてしまったこと。
 明確なオチも重要な意味も身につまされる教訓もないそれらの話に、それでも僕はいつも救われるような気持ちになった。というのも彼女が語るエピソードの主導権はいつも、きちんと彼女が握っているからだ。そんなところに、妙な温かみと楽しさを覚えてしまう。
 今日は突然だったのに出勤してくれてありがとう、明日は代役が立ったから垣内くんは休みで大丈夫だよと店長に言われ、僕は仕事を終えた。ロッカーで着替えながらツイッターを眺めていると、すぐそこのロータリーでイシミズさんが弾き語りをしているという情報が入ってくる。脱いだシャツをダンクを決めるようにして慌てて洗濯業者行きのカゴへと放り込んだ。
 時間も時間だったので終わってしまっているのではないかと不安だったが、どうにか最後の一曲には間に合った。背伸びをしないと当人を見つけられない程度には人が集まっていた。さほど人通りの多いロータリーではないのだが、さすがにその辺に転がっている学園祭に毛が生えたレベルのミュージシャンとは地力が違う。まるで声そのものがヴィンテージの楽器のよう、ジャジーに、甘く、アコースティックに響く。酒焼けしたようにかすかすで、だけれども、意図したところ以外では絶対に裏返らないし、歪まない、よく統制された声は、一度聴いたら永遠に忘れられない。他方、手元も決しておろそかにしない。歌いながらとは思えないほどフォークギターは雄弁にかき鳴らされ、随所に気持ちのいいカッティングが細かく入る。
 やはり別格だ。
 人がけ始めたところで挨拶をする。イシミズさんは自主制作したCDをケースにしまう手を止めると、ストローハットを少し浮かせて挨拶を返してくれた。
「またバイト帰り?」
「はい」
「体、壊すなよ」
 歌うときとは打って変わって、しやべるときのイシミズさんの声はびっくりするほど澄んでいて優しい。そのギャップがとんでもない逸材のあかしであるような気がして、僕はまた一段と感動してしまう。早速、買うべきギターを吟味してもらおうと僕がカタログを取り出そうとすると、それを察したイシミズさんは僕を制して、
「OK。だけどまずメシ行こう。おごるよ」
 初めてのことではなかったが、そうあることでもないので素直にうれしかった。さんざ茹で続けた蕎麦以外のものでさえあれば?野家でもマクドナルドでも文句を言うつもりはなかったので、日高屋でもいいかいと訊かれたとき首を横に振る理由はなかった。遠慮するなと言われたので、ラーメンにチャーハンをつける。イシミズさんはまだ二十代前半だろうが、それでも夜に家族以外の大人ととる食事にはたとえがたい誇らしさと幸福感があった。
 ラーメンを食べ終えたイシミズさんはつまようくわえたままカタログをしばし眺めると、
「もうマーチンでいこうと思ってるんだ?」
「なんとなくですけど、はい」と僕は頷いた。イシミズさんも使ってるんでとは言わなかった。
「なら定番だけどD-28でいいと思うけどな……あとは実機を見たときと触れたときのフィーリングだな。楽器屋には何回か足を運んだほうがいい。似たように見えていた楽器の個性がだんだんとわかるようになってくる」
「ネット通販とかよりは、やっぱり楽器屋のほうがいいんですかね?」
「まあ、実店舗で買うとメンテとか頼みやすいし、そっちのほうが無難だろうね。ところで──」
 イシミズさんは空いていた右手でしばらく耳たぶを触ると、やがてデコピンの要領でぴんとはじいてみせた。彼がよく見せる所作の一つだった。ミュージシャンだからという先入観があることは認めるが、まるで常にリズムを刻んでいるように見えて僕は好きだった。
「本当に、エレキとかには興味ないの?」
「エレキ? まあ、そうですね。どうしてですか?」
「いや、どっちかって言えば若い子はそっちに興味があるんじゃないかなって思っただけだよ。一応、技術的な話をするとエレキのほうが弦は押さえやすいからエントリーに向いているという人もいることにはいるしね」
「そうなんですね……でもエレキだとなんていうか、バンドになっちゃうじゃないですか」
 イシミズさんは爪楊枝を右手でつまみ出すと目を大きく見開き、
「そりゃそうだ」
 ギターケースを担いだイシミズさんの横を歩く僕の姿は、ともすると彼の音楽仲間のように見えているのではないだろうか。夏の夜、湿度の高い空気を切って歩きながら、僕はそんなことを考えていた。いつもより心なしか胸を張っているのが自分でもよくわかる。
「どのくらい練習すればイシミズさんみたいに自由に演奏できるようになりますか?」
「自由? 心外だな、そんなに譜面を無視してるように感じた?」
「あ、いや、ごめんなさい。悪い意味で言ったつもりじゃないんです。ただ、なんかこう演奏も歌もうますぎて、何ものにもとらわれていない感じがあって、それが自由っていうか──」
「冗談冗談」イシミズさんは笑った。「わかってたよ。ちょっとからかってみたくなっただけだ」
 僕はイシミズさんを不快にさせたわけではないことに過度に安心してしまって、何も気の利いた返答はできなかった。力ない笑みを浮かべるだけ。
「まあ、でも、きっと君はすぐに上手になるよ。高いギターを夜遅くまで働いて買おうってんだから。その金銭的な苦闘と、欲しいけどなかなか手に入らない時間的な焦れったさが、実機と出会ったときにプラスに作用してくれる。練習したら練習した分だけうまくなるさ。僕くらいのレベルになるのが目標なら、そんなのあっという間だよ」
「そんな、とんでもないです」と言ってすぐ、自分の発言がまた受け取りようによっては失礼にあたるのではないかと考え始めて僕は混乱してしまった。まごまごして二の句が継げないでいると、イシミズさんは僕の不安をふつしよくするよう柔らかく笑いだした。
「悪魔に魂を売ってみるのもひとつの手だね」
「……悪魔?」
「クロスロード伝説って知らない?」
 僕が首を横に振ると、イシミズさんはちょうど信号待ちで立ち止まった大通りの交差点を指さしてみせる。
「ロバート・ジョンソンってギタリストがいたんだけど、彼はクラークスデールの交差点で悪魔に魂を売り渡し、その代わり超人的なギタースキルを身につけたんだ。彼のギターはあまりにも革命的で、多くの人にとんでもない衝撃を与えた。でも彼は契約の代償により、二十七歳の若さでこの世を去ってしまう。それがクロスロード伝説」
「本当ですか?」
「はは、伝説だよ」
「そりゃ……そうですよね」
 なんでそんなことを訊いてしまったのだろうと、自分がひどく情けなくなった。
 目の前の交差点を何台もの車が通り過ぎていった。無数の赤いテールランプが暗い夜の中で細長い残像を残しては薄れ、また新たな残像によって上塗りされていく。僕は交差点のちょうど中央部に超人的なギタースキルを授けてくれる悪魔の姿を思い浮かべようとしてみた。しかし悪魔とはどんな容姿をしているのだろうと考えているうちに、ほんの数時間前に聞いたばかりのとある陳腐なイメージが頭の中で主張を始めた。
 黒いローブに、髑髏の仮面、手には大きな銀色の鎌。
「……死神」
 口に出してしまい、やっぱり僕はひどく後悔した。一瞬にしてイシミズさんとの交流のすべてが、稚拙な陰謀論の中に飲み込まれてしまったような気になる。
「死神? まあ、遠くはないかもしれないね」
 僕は交差点の中央に立つ死神のイメージを必死に消そうと努力した。それでも思いのほか彼──いや、美月の話によれば『彼女』だったか──のイメージは強力で、なかなか記憶の外には消えていってくれなかった。悪魔に魂を売って二十七でこの世を去ったロバート・ジョンソン。ならば自殺してしまった三人の同級生たちも、死神に魂を売ってしまったとでもいうのだろうか。あまりに、あまりに馬鹿馬鹿しい。
 信号が青に変わったところで、ようやく死神の幻影は消えた。

(第4回へつづく)



浅倉秋成教室が、ひとりになるまで』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321809000178/


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