KADOKAWA Group
menu
menu

試し読み

「タワマン文学」の先駆者、窓際三等兵による初の長編小説!『息が詰まるようなこの場所で』外山 薫 試し読み

「あらこのお菓子、素敵。こないだパリの本店で食べて美味しかったのよね。ちょうど、玲奈れなのピアノの先生からイギリス土産の紅茶をもらったばっかりだから一緒に煎れましょう」
 土曜午後。ゲームがしたいと駄々をこねる充の尻を引っぱたいて塾に送り出し、理恵とロビーで待ち合わせをしてローゼスタワー最上階の五十階に向かったさやかだったが、綾子の第一声を受けて早速嫌な気分になった。パリの本店だかイギリスの紅茶だか知らないけど、いちいちマウンティングをとってからでないと会話できないのか、この人は──。
「さすが高杉さん、パリの本店にも行かれたことあるんですね。玲奈ちゃんのピアノの関係ですか?」
 もちろん、心の中で毒づいていることはおくびにも出さない。大人の女同士、思ったことを全部口に出していたら社会が成り立たないことくらい知っている。
 高杉家の長女、玲奈は小四ながら天才ピアノ少女として界隈ではちょっとした有名人だ。著名なピアニストに才能を見初められ師事しているだの、長期休暇のたびに欧州に短期留学しているだのといったうわさを聞いたことがある。現に、今も家の中にはピアノの音色がかすかに響いていた。
 マンションの一室を防音室にリフォームしてグランドピアノを置くとなると、一体いくらかかるのだろうか。下手すると、その防音室だけでも2LDK60平米の我が家より価格が高いのではないか。つい卑屈になってしまう。
 高そうな紅茶の柔らかな香りが部屋に広がる中、広々としたリビングの窓からは、東京タワーからレインボーブリッジまで一望できる絶景が広がっていた。低層階の自宅からは決してお目にかかれない光景だ。今日の会でも参加者はみんな、それが定められた儀式であるかのように部屋に入った瞬間に感嘆の声を上げ、スマホで写真を撮っていた。
 このご時世、高杉綾子がタワマン最上階に住んで優雅に専業主婦をやりながら、娘に音楽の英才教育を施すという浮世離れした生活を享受できるのは、夫の財力によるところが大きい。
 綾子の夫の高杉とおるは代々続く医者の家系で、開業医として親から継いだクリニックを運営している。先祖から受け継いだ資産も、月々の稼ぎも、吹けば飛ぶようなサラリーマンの我々とは次元が違うのだ。
「パリは春休みに二週間行ったんですけど、もう寒くて寒くて。そういえば充君、春期講習はどうでした? うちは私が玲奈につきっきりだから、隆が今何やってるかすらわからなくて、困っちゃって」
 綾子が紅茶をウェッジウッドのカップに注ぎながら微笑む。これだから綾子と話すのは嫌なんだ。高杉家の長男、高杉隆の秀才ぶりは湾岸第二小学校の六年生の親なら誰でも知っている。充も通う中学受験塾、ブリックス湾岸校では常にトップを独走。去年の全国一斉実力テストでは全国から選ばれた精鋭の中で三位になり、賞品として数万円するようなタブレット端末を貰ったという伝説を持っている。充から聞くだけでも、
「ブリックスの算数の授業中、東大卒の講師のミスを指摘した」
「平均点が30点だったテストで90点を取った」
「計算テストと漢字テストで満点以外を取ったことがない」
 と、その秀才ぶりを表すエピソードは枚挙にいとまがない。国立大の医学部を出ている医者の父親の遺伝子もさることながら、家庭学習のため、各教科に家庭教師をつけているという噂も聞いたことがある。同じ塾に通っているといっても、上位クラスから落ちたり上がったりしている充とは、素材も環境も違うのだ。
 徹底した実力主義で知られるブリックスでは、クラスはおろか、席順すら成績で決まる。どの子が優秀で、どの子の出来が悪いのか、子供を通わせている親であれば筒抜けだ。いくら娘のピアノにかかりっきりとはいえ、専業主婦で噂話好きの綾子がそうした事情を知らない訳がない。わざわざ塾の話をしてきたということは子供の成績を使ってマウンティングをしかけてきたということに他ならない。
「うちは隆君みたいに優秀じゃないから、今日もテレビから引き離すのが大変で……」
 自虐的に話しながら、さやかは胃の底がムカムカしてくることに気がついた。充の奴、もう六年生だというのに自分の立場がわかっているんだろうか。隆君みたいに優秀だったら、私がこんな惨めな思いをすることなかったのに。気がつけば、怒りの矛先は目の前の綾子ではなく、息子の充に向かっていた。
 タワマンで子育てをするようになって気づいたことがある。住んでいる階数、部屋の値段、夫の職業、年収、子供の成績──。この建物では、付き合いがある人たちの間でありとあらゆる情報が筒抜けとなり、比較の対象となるのだ。誰も表立って口には出さないが、誰が上で、誰が下かという序列は明確にある。
 目の前に座り微笑む綾子は、間違いなくヒエラルキーの頂点に立っていた。専業主婦であくせく働くことなくタワマン最上階の部屋に住み、息子は日本トップクラスの秀才、娘は天才ピアノ少女ときた。かつて女性誌で読者モデルをしていたという容姿は四十代半ばになっても衰えることなく、肌なんて近くで見てもツヤツヤしている。一体どんな化粧水を使って、いくら美容医療にかけているんだろうか。
 綾子に会うたびに、さやかは惨めな気持ちを抑えることができなかった。毎朝六時に眠い目をこすって充を叩き起こし、計算と漢字のドリルをさせた後にバタバタと出社して、夕方まで仕事に追われて慌ただしく帰宅。夕食を準備して食べさせ、塾の復習に付き合う日々だ。エステどころか、美容院に最後に行ったのはいつだっただろう。すべてを持っている綾子に対して、嫉妬心から勝手にマウンティングされているという被害者意識を募らせているだけなのかもしれない。そう思うと、さらに情けない気分になった。
「でも隆君も充君もすごいよね、まだ小学生なのに毎日塾に通って勉強して。うちの息子たちなんて、野球ばっかりで学校の宿題すらまともにやんないよ」
 理恵がサバサバした口調で会話に割って入る。理恵の息子の琉晴君は塾には一切通っていないという、タワマンでは珍しいタイプだ。湾岸第二小学校の生徒は八〜九割が中学受験をすると聞いたことがある。子供に残せる資産を持たないサラリーマン家庭の場合、学歴だけが頼りとなるため、小学校低学年から塾に通わせることが常態化している。さやかも、小一から充をブリックスに通わせていた。料理人の父を持つ伊地知家のような、手に職タイプはそもそも珍しいのだ。
「琉晴君は野球が上手なんでしょ? ピッチャーだって聞いたけど。隆は本ばっかり読んでるから、健康的で羨ましいわ」
 綾子がどこまで本気かわからない様子で問いかけると、理恵は
「それが旦那に言わせると、琉晴はお兄ちゃんと違ってあんまり野球センスないっぽくて。六年生になって、チームのエースの子が塾を優先するようになったから、ようやく試合で投げれるようになった感じ。まあ本人は楽しいみたいだし、うちはそれで良いかなって」
 とケラケラ笑う。さやかは、理恵のこういうところが好きだった。さやかを含め、自分たちで作った序列を気にしてがんじがらめになっている人々でタワマンは溢れている。そんな中、周りに流されずに我が道を行く理恵の強さは際立つ。琉晴君も中学に通っている兄の蒼樹あおき君も、勉強そっちのけで大好きな野球に熱中しているという。振り返ってみれば、さやかが子供の頃も、男子といえばそんな感じだった。小学校のうちから塾通いをして、毎月のように偏差値やクラス分けで値踏みされることが当たり前になっている東京の子育て環境が異常なのだ。
「それにしてもこの家、地面が遠くてまるで山頂にいるみたい。これだけ標高が高いと、気圧が低くてお米を炊いても固くなっちゃいそう」
 理恵があまりにも突拍子もないことを言うので、その場にいる全員で思わず笑ってしまった。その後はPTA役員会の本来の議題である、運動会の仕事の分担などそっちのけで、クラスメイトの親の噂話や学校の先生の評判などを話し込んでいた。
 幼い頃、母親がスーパーで出会ったママ友と延々と井戸端会議をしていたが、こんな感じだった気がする。郊外だろうが都会だろうが、アラフォーの女が集まってやることといえば変わらないのかもしれない。さやかの実家は郊外によくある一軒家だが、母も家の大きさや子供の出来不出来でマウンティング合戦していたのだろうか。今度帰ったら聞いてみようかな。自分で持ってきた手土産の洋菓子を頬張りながら、さやかはそんなことを考えていた。


紹介した書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2025年3月号

2月25日 発売

ダ・ヴィンチ

最新号
2025年4月号

3月6日 発売

怪と幽

最新号
Vol.018

12月10日 発売

ランキング

書籍週間ランキング

1

メンタル強め美女白川さん7

著者 獅子

2

気になってる人が男じゃなかった VOL.3

著者 新井すみこ

3

禍話n

著者 取材協力 FEAR飯(かぁなっき、加藤よしき)

4

リペアラー

著者 大沢在昌

5

柴犬ぽんちゃん、今日もわが道を行く

著者 犬山スケッチ

6

意外と知らない鳥の生活

著者 piro piro piccolo

2025年3月3日 - 2025年3月9日 紀伊國屋書店調べ

もっとみる

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP