『日出処の天子』のミステリアスな厩戸皇子、『天上の虹』の大津皇子、澁澤龍彦の小説にもなった高丘親王……。小説や漫画の登場人物としても知られる皇子たち。彼らはなぜ、天皇(大王)になれなかったのか。
その疑問に答えてくれるのが本書です。
角川選書『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』(倉本一宏・著)より「はじめに」「乙巳の変」の内容を一部抜粋してお届けします。
はじめに
『古事記』『日本書紀』をはじめ、日本古代の歴史書には、天皇(または大王)として即位できなかった皇子(または王子)に関する記事が、数多く残されている。もちろん、多くの皇子の中で即位できた人物はごく一部なのであって、ほとんどの皇子は即位できずに終わったのである。また、特に古い時代となると、そのすべてが史実とは言えない伝承や物語であるが、いずれも何らかの歴史事実を反映したものである可能性もある。
それら、「即位できなかった皇子たち」の中には、「残念な」では済まされない苛烈な未来が待っていた人物も多い。即位できた者は何故に即位することができ、即位できなかった者は何故に即位することができなかったのか、その政治的背景を探ることによって、日本古代、ひいては日本という国そのものの特質に迫ることのできる可能性も秘められている。それはこの国の王権の謎を解く鍵にもなり得る問題なのである。
この本では、記紀(『古事記』『日本書紀』)の伝承時代から、律令制成立期、律令制下、さらには平安時代の摂関期から院政期にかけての、即位できなかった皇子たちの政治的背景を探求し、日本古代国家の本質に背後から迫ることを目標とする。
また、「歴史は勝者が作り、文学は敗者が作る」とは、よく耳にする言辞である。これらの敗れた皇子の中には、豊かな日本文学を生んだ母胎ともなった者もいる。それらについても言及し、文学の誕生にも触れることとしたい。
なお、私は大王という君主号の成立を雄略の時代、天皇という君主号の成立を天武朝と考えているので、雄略以前の君主の称号を王、天武即位以前のこの国の君主の称号を大王と記載することとする。同様、大王や天皇の漢風諡号は、奈良時代も後期になってから付けられたものであるが、本書では便宜上、即位以降には、なじみのある漢風諡号によって呼称することとする。
また、天武即位以前の大王の子を、男子を王子、女子を王女と、天武即位以後で大宝律令制定以前の天皇の子を、男子を皇子、女子を皇女と、大宝律令制定以後の天皇の子を、男子を親王、女子を内親王と、それぞれ表記する。同一人物で時期によって呼称が変わるのは、そのためである。
乙巳の変
皇極四年(六四五)六月に起こった乙巳の変は、一般には葛城王子(中大兄王子)が蘇我蝦夷・入鹿といった蘇我氏本宗家を倒すことを目的としたものと考えられている。しかし、これまでの大王位継承の流れから考えてみると、葛城王子の本当の標的が蘇我系王統嫡流の古人大兄王子であったことは明らかである。
クーデターの現場からは辛くも逃げ帰った古人大兄王子であったが、蘇我氏本宗家が滅びてしまった以上、その命運は尽きていたと言わざるを得ない。
這々の体でクーデター現場という窮地を脱出し、「改新政府」発足にあたっては出家して吉野(現奈良県吉野郡大淀町の比曾寺〈世尊寺〉か)に入った古人大兄王子であったが、それを見逃しておく中大兄王子と中臣鎌足ではなかった。
大化元年(六四五)九月、蘇我田口川堀を筆頭とする数人の官人と共に、古人大兄王子が「謀反」を計画しているとの密告があった。中大兄王子は「兵若干」(「或本」では「兵四十人」)を吉野に遣わし、古人大兄王子を討滅した。
古人大兄王子の与同者とされた者のうち、川堀を除く全員が、その後も官人として活動していることが、この事件の本質を如実に語っている。問題は、古人大兄王子の死によって蘇我系王統が滅亡し、六世紀以来の大王位継承が、非蘇我系王統の全面勝利によって最終的に決着したということである。これ以降、大王位継承は非蘇我系王統に限定されることになった。
ここに至って、非蘇我系王統の優位が確定していく過程で、母も史実としては地方豪族(近江の息長氏)、キサキの母も地方豪族(伊勢の大鹿氏)と、本来はあまり有力な王族でもなかったであろう押坂彦人大兄王子が「皇祖」と位置付けられたのであろう(加藤謙吉氏のご教示による)。
▼倉本一宏『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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