第一印象は、話し上手な人、という感じだった。藤枝先生のことだ。
両親の強いすすめで、東京の私立大学に入ったわたしは、実のところ、勉強なんてしたくなかった。高校で文系のコースを選んだのは化学が苦手だったからだし、大学で文学部を選んだのは社会科が苦手だったからだ。メタノールの融点にも、株式会社と有限会社の違いにも、さほど興味はなかった。
藤枝先生は、わたしのそういう話を聞きたがった。そしてたいてい喜んでいた。
「つまりきみは、物語になりたいんだね」
「物語に?」
「そう。自分の人生が、いつかのどこかできれいに畳まれることを望んでいる。メチルアルコールは君の人生の伏線にはならない。それは単なる事実でしかないから」
わたしは枕に片耳をつけたまま、先生の話をぼんやりと聞いていた。いつものように、先生が語る内容は興味深いのだけれど、わたしには少し難しい。だんだん眠くなりそうだ。
「
「ばかにしないでください」
いくら不真面目な学生のわたしでも、源氏物語くらい読んでいる。浮舟はその最後、
「そこに、その家の縁者で、
ありがちな話だった。平安時代には、高貴な女性の姿というものは、他人には見せないものだった。それがひょんなことから姿を見せてしまい、見た男が
「行き倒れになっていたところを助けられた女性だ、という事情を聞いて、その中将はこう思った」
あはれなりけることかな。いかなる人にかあらむ。世の中をうしとてぞ、さる所には隠れゐけむかし。昔物語の心地もするかな。
「すばらしい、どんな人だろう。世の中をはかなんで、こんなところに隠れているのだろう。まるで古い物語のようだ……」
「浮かれすぎですね、その人」
この男は浮舟の気を引こうとあれこれやってみるけど、彼女は拒み続ける。最終的に、浮舟はそこで出家する。髪を切り落として、尼になるのだ。
「そして源氏物語の最後、
浮舟が生きていると知った薫が、都から人をやって様子を探らせる。だが浮舟は会いもせず、薫からの手紙に返事もしない。使者は手持ち
「報告を聞いた薫は、こう考えた。『きっと、だれか知らない男が彼女を隠してるんだ』って。『なにしろ、自分も彼女をそうやって隠していたんだから』ってね。これが源氏物語のラストシーン」先生は笑った。「いかしてるだろ」
男たちが作った都合のいい物語に塗り込められて、隠されてしまった女の話。源氏物語自体がそもそもそういう話だったのだと、作者自身が白状したような、唐突な終わり。
「人間っていうのは、物語の形でしか、世の中を理解できないものなんだね」
理解できないものは怖い。だから、理解できるようにする。
たとえば神話。空が高いのは、人に触られて嫌だったから。月が夜通し動くのは、太陽から逃げているから。海が塩辛いのは、涙で出来ているから。そういうふうにして世界を理解する。人間は物語が好きだ。理由があって、やるべきことがあって、結末がある。成功すればご褒美があり、しくじれば罰を受ける。
「先生が欲しいのは、ご褒美ですか?」わたしは尋ねた。「それとも罰?」
先生は何も言わず、水割りのおかわりを作っていた。その仕草をみてわたしはなんとなく、自分と同じなのかな、という感じがした。
きっと、先生が選んだお話は、最後に罰が待っているほうだ。
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2025年2月17日 - 2025年2月23日 紀伊國屋書店調べ
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