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試し読み

「わたしの周りでは、よく人がいなくなる」――消えた教授の行方を追うわたしは〈あさとほ〉と出会う。 新名智『あさとほ』試し読み#2

話題沸騰&続々重版!「読む人を消す物語」をめぐる長編ホラーミステリ

綾辻行人さん&有栖川有栖さんより「100%本格ミステリ」「長編ホラーの傑作」と激賞され、『虚魚そらざかな』でデビューした新名智さん。ミステリ界とホラー界の期待を背負う新名さんの第二作『あさとほ』は、7月1日(金)の刊行後、「王様のブランチ」(TBS系毎週土曜あさ9時30分より生放送)での特集をきっかけに大ブレイク。重版が止まらぬ話題作になっています。
本作は、 “読んだ人を消す”という謎めいた古典文学「あさとほ」を幼馴染みの夏日と明人が追う長編小説。
現実が歪んでゆくような静かな恐怖と、過去の傷で繋がる幼馴染みふたりのドラマが鮮烈な、青春ホラーミステリの完成形ともいうべき面白さを、大ボリュームの試し読みでお確かめください。



新名智特設サイトはこちら
https://kadobun.jp/special/niina-satoshi/

『あさとほ』試し読み#2



 ふじえだ先生が行方不明になった。
 それを聞いて最初に考えたのは、わたしの卒業論文はどうなるのだろう、ということだった。考えたあとで、わたしは自己嫌悪に陥った。それはあまりに薄情すぎる反応だったからだ。
 卒論指導はしばらく休みになるということだったので、一コマ分の時間が空いた。わたしたちは大学で会うことにした。わたしたちというのは、藤枝先生に卒論の指導を担当してもらっている三人のことだ。わたしと、と、みお
 わたしたちが通う大学のキャンパスは全部で三つ。ひとつはところざわにあり、あとのふたつがしん宿じゆくにある。わたしが通う文学部のキャンパスは、新宿にあるふたつのうちのひとつで、他の学部があるキャンパスとは少し離れていた。
 もう四年も通っているので、目をつぶっても歩ける……という具合にはいかない。このキャンパスはどういうわけかいつもどこかで校舎を建て替えていて、学期が変わるとたいてい見覚えのないビルが建っていたり、通路がいくつかなくなっていたりする。夏休みが明けて一週目の今日も、通り抜けられたはずの場所にさくができていて、仕方なく校舎の中をかいした。
 約束の場所は、キャンパスの奥にある目立たないラウンジだった。亜津沙は先に来て待っていて、こちらに気づくと小さく手を振った。わたしが席に着くなり、彼女はせきを切ったように話し始めた。
「ねえねえ、藤枝先生のこと、何か知ってる?」
 わたしは首を横に振り、今朝、澪に聞いたくらいのことしか知らない、と答えた。わたしたちふたりに、そのニュースを教えてくれたのは澪だった。たまたま大学に来て、出くわした他の先生から聞かされたらしい。
「行方不明になった、って言ってたよね。ってことは、家にも帰ってないのかな」
「そうだと思うよ」
「蒸発、ってやつ?」
「それだけじゃないでしょ。だれかに誘拐されたとか、事故にあったとか」
「駆け落ちとか」
 亜津沙はさらりと言った。そのせいで、わたしはかえってどきりとした。
「先生が、だれと?」
「わからないけど、藤枝先生って、そういう噂が多かったみたいだよ」
 藤枝先生が女子学生に手を出したことがある、という噂は、わたしも聞いている。先生は今年で五十六歳だけど、スマートで上品な人だったから、文学部でも隠れた人気があった。今の奥さんは、もともと教え子だったらしいという話も聞く。それが本当だということも、わたしは先生本人から聞いて知っていた。
「だからさ、ひょっとすると……」
「あ、澪」
 ちょうどそのとき、こちらに向かって歩いてくる澪に気づいた。わたしは彼女を大声で呼び、話題をごまかした。
「ごめんごめん、先生に質問してたら、遅くなっちゃった」
 そう言って、澪は空いていた椅子に腰を下ろした。小柄な体に似合わない大荷物を抱えて、前の授業の教室から走ってきたのだろう。べったりと汗をかいていた。
 わたしと亜津沙、そして澪は、二年生のときの古典の授業で知り合った。この大学の文学部は、一年生までは共通で、二年生からそれぞれの専門分野に分かれる。そこから、学年が上がるごとにどんどん専攻が絞られてくるので、卒論のテーマがかぶりそうな相手は、三年生の後半くらいでおおよそ察しがつく。
 亜津沙は、平安文学の研究がしたくて文学部に入ったという。二年生の頃から、学生の自主研究会に参加していたそうだ。それで、院生の先輩たちとも仲がよく、かわいがられていた。おおらかで人見知りせず、噂好きでもあった。
 澪のほうは、わたしと同じで、古典文学を学びたかったというよりは、藤枝先生に教わりたくて専攻を決めたらしい。半分真面目、半分心配性の性格。いつもせかせかと気を回している様子は、背が低いこともあいまって、ハムスターを連想させた。
「澪は、他に何か聞いてる?」
「なんにも。朝、ふたりに教えたとおりだよ。藤枝先生の家から大学に、先生の行方がわからなくなってるって連絡があったみたいで、それでいろいろ対応してるって」
 ということは、わたしが想像した通り、先生は自宅にも戻っていないということだ。
「やっぱり事故か何かなのかな。心配だよね」
「うん、そうだね……」
 それで話は終わったはずなのに、澪はまだ何か言いたそうだった。こちらを見て、口を開きかけて、やめる。普段の澪なら、きっぱりした態度で、言うべきことなら言うし、そうでないなら、わざわざことじりを濁さない。そんな彼女にしては珍しい態度だった。気になったけれど、どう指摘したらいいのかわからない。迷っているうち、代わりに亜津沙が口を開いた。
「ねえ、ほかにも何か聞いてるなら、教えてよ」
「え?」聞き返されると思わなかったのか、澪ははっとした。「あ、別に、たいしたことじゃないの。たぶん関係ないと思うし」
「まあ、言うだけ言ってみたら?」
 わたしにもそう促されて、澪はそれでもちょっとだけ迷ってから、続きを話した。
「実は、文学部で人がいなくなるの、初めてじゃないんだって」
「……どういう意味?」
 澪は首を振った。
「わかんない。よこ先生が別の先生と話してるのを、たまたま聞いただけだから……何年か前にも、教員が来なくなることがあったね、って」
 そんな話には心当たりがない、と思って亜津沙のほうを見た。研究室の先輩たちと仲のよい彼女なら、何か知っているかもしれない。すると案の定、思い出したようだ。
「それってもしかして、きよはらさんのことじゃない?」
 亜津沙の話では、何年か前に清原という非常勤講師がいて、古典文学の講義を持っていたらしい。ところが、学期の途中でどういうわけか大学に来なくなり、音信不通になってしまったのだという。
「先輩たちの間じゃ有名なんだよ。いろいろ噂があるみたい。藤枝先生のパワハラがひどくて逃げ出したとか……」
「まさか」
 わたしの知る限り、藤枝先生は温厚な人だ。そういうことをしそうな人とも思えない。もちろん、そのくらいのことは亜津沙もわかっていて、冗談だ、というふうに笑う。
「本当は病気のせいだって聞いたよ。何か心配事があるみたいで、思いつめた感じだったって」
「藤枝先生がいなくなったことと、その人がいなくなったことは、関係あるのかな?」
「関係?」亜津沙が言った。「清原さんがいなくなったから、そのせいで藤枝先生もしつそうしたってこと?」
 それはない、とわたしは心の中で答えた。人をふたりも失踪させる原因なんて、すぐには思いつかない。一緒に山へ行って遭難したとかいうならともかく、時間差がある。
「でも一応、うめもとさんに聞いてみようかな」
 梅本さんは、博士課程にいる先輩で、わたしたちともよく遊んでくれる。ゴシップにも詳しくて、あの先生とあの先生は憎み合ってるとか、あのサークルでこんなめ事があったとか、飲み会ではしょっちゅう口をすべらせていた。亜津沙と馬が合うわけだ。
「その清原さんって人、専門はなんだったの?」
 澪が聞いた。一言に古典文学の研究と言っても、中身はいろいろある。時代にしても、時代から時代まであるし、物語や日記などの散文や、和歌やはいかいなどの韻文、歌物語などという折衷のものもある。その本がだれによっていつ書かれたとかいうことを調べるのが専門の人もいれば、本の内容だけを研究する人もいる。
「清原さんの専門はね、さんいつ物語の研究」
 聞き慣れない単語だった。
「散佚っていうのは、なくなった、っていう意味ね。現代まで書き写されずに行方不明になってしまった昔の物語のことを言うの」
 亜津沙の説明によれば、そのような物語は、題名だけが伝わっているものでもそれなりの量があるらしい。ということは、題名すら伝わらずに消えてしまった物語はもっと多いということだ。なぜ題名が伝わるかといえば、他の物語や日記などで言及されたり、後世の歌集などで引用されたりしていることがよくあるからだった。たとえばさらしな日記には、主人公がしんせきから物語の本を贈られる場面があるけれど、そこで書名を挙げられている本のいくつかは現存していない。つまり散佚した、ということだ。
「で、清原さんはそういうのを集めて、内容や作者を推定したり、他の物語への影響を調べたりしていたみたい」
「なんで知ってるの?」
「ええとね、ちょっと前に、卒業論文のタイトルの付け方で迷ってて、先生に相談したら、昔の卒論を参考にするといいって言われて」
 それで、うちの大学の国文学会が発行している学術雑誌のバックナンバーを読んだ。毎年、春に出る号には、前年度の卒業論文や修士論文のタイトルと、書いた学生の名前とが一覧で掲載されている。その同じ号に、たまたま清原さんとやらが書いた論文も載っていたのだという。
「じゃあ、藤枝先生とは専攻分野まで似ているってわけか」
 藤枝先生の専門は、『げん物語』や『うつほ物語』など、平安時代の文学だ。とはいえ、専門分野がかぶっていたら失踪してもおかしくない、なんてこともないけれど。
 それからもしばらく、わたしたちは藤枝先生の失踪について無責任な推理をあれこれしていた。けれど次第に、話題はわたしたちの今後についてに変わっていった。聞いたところによると、卒論指導は別の先生が担当することになるらしい。だれになるかはまだ決まっていないという。古典文学を専門にしている教授は他にも何人かいるし、たぶん、卒論のテーマから見て、近い分野の教授に割り振られるんじゃないか、と亜津沙が言った。
「じゃあ、わたしたち、離れ離れだね」
 澪がぽつりと、そうつぶやいた。
「え、そうだけど……」亜津沙がいたずらっぽく、にやっと笑う。「澪ちゃん、もしかして寂しいのかな?」
 そんなことないよ、と、澪は顔を赤らめて反論した。その反応を見る限り、そんなことないわけではなさそうだったが、わたしは何も言わないでおいた。たまたま一緒になっただけの三人だ。それでも、わたしはけっこう、この関係が好きだった。てっきり、このまま三人で卒業するものだと思っていた。
 わたしの周りでは、よく人がいなくなるらしい。でも、今度は覚えているだけましかもしれない。


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