Dの殺人事件、まことに恐ろしきは

男はスマホ越しに、今をときめく人気アイドルと旅をしていて ――/歌野晶午『Dの殺人事件、まことに恐ろしきは』試し読み②
江戸川乱歩の名作がハイテク機器によって現代風に生まれ変わったら……
『葉桜』の鬼才・歌野晶午による翻案ミステリ短編集『Dの殺人事件、まことに恐ろしきは』。
10月24日(木)の文庫版発売を記念して、「スマホと旅する男」を全文公開します!
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意表を衝かれ、呆然とした間抜け面をさらしていると、
「何かついてます?」
画面の彼女は眉を曇らせ、左手を頬に持っていった。
「あ? ああ、ビデオ通話。一緒に来られなかった彼女に長崎の風景を生中継しているのか」
私はポンと手を打った。
「稲佐山には行かれました?」
画面の彼女が言う。自分に問うてきていると判断し、私はいいえと答える。
「ゼッタイ行ってください。ゼッタイ夜に。もうメチャメチャものすごくきれいだったよね?」
この問いかけには、きれいだったねと男が応じる。
「なるほど、今はこういう形で、離れていても時と場所を共有できるのか。その気になれば、登山経験のない人をエベレストの頂上に連れていくこともできる。すごい時代だ」
私は感動に近いものをおぼえた。
「でもあたし、いつか自分の足で登りたいな」
彼女がつと目を伏せた。寂しげな様子から、闘病中なのだろうかと私は思った。
「じゃ、しばしのお別れ。見どころっぽくなったら、また呼ぶから」
男は電源ボタンを押し、画面が暗くなった端末を上着のポケットに入れた。
「このハイテク旅行、交通費はかからないけど、通信料がバカになりませんね。定額プランでも、すぐに契約容量の上限に達して通信速度が制限され、解除するための追加料金が際限なく発生しそう」
しめっぽい空気になることを嫌い、私はどうでもいい方向に話を振った。
「フリーのWi―Fiスポットがかなり整備されてきたので、通信費はそう心配していません。問題はむしろバッテリーです。プロセッサの負荷を抑えるよう改良しないとダメですね」
男は、まるで自分が通話システムの設計者のようなことを言う。
大波止の電停に着くとすぐに、車体をクリーム色と深緑に塗り分けた電車がやってきた。床は木製、天井に扇風機というレトロな車輛である。午前中、長崎駅から港まで乗った際には、一目見てそれとわかる観光客で満杯で、奥に詰めろとのアナウンスがうるさいほど繰り返されていたものだが、この電車はガランとしていて、まったく別の土地にやってきたような感覚におちいった。天候の悪化を見越し、みんな予定を切りあげてしまったのだろうか。
男と私はロングシートの最後部に並んで坐った。腰をおろすや、男はスマホをポケットから出し、画面を窓ガラスに向けて立てかけた。
「次は出島なので呼び出してみました」
男は窮屈そうに首を曲げ、スマホに向かって話しかける。
「お相撲さん?」
彼女の声がする。
「ボケてるつもり?」
「電車から見えるの?」
「見えてきた。あの屋根のついた立派な門が入口だってさ」
「全然島じゃないじゃん」
「開国後に周りが埋め立てられたんだよ」
男は、口元に手を立て、あたりをはばかるようにしゃべってはいるが、乗客が少ないため、声が結構車内に響いており、はたで聞いているこちらが気恥ずかしさをおぼえる。その居心地の悪さをなくしたく思い、私は男に話しかけた。
「かわいい彼女でうらやましいです。ルックスも、しゃべりも。アイドルの誰かに似てますよね。誰だっけなあ」
すると男は、顔をスマホから私に向け変え、こめかみをさすりながらはにかんだ。
「あざっす!」
スマホからテンションの上がった声が出てきた。声を落としてしゃべったつもりだったのだが、マイクが拾って彼女にも届いてしまったらしい。
「そうだ、ヴィーナスに似てるって言われません? マイヨジェンヌのヴィーナス。あまりいいたとえじゃなくてすみません」
「アハッ」
彼女の短い笑い声が窓ガラスを振動させた。
「いやぁ、バレちゃいましたか。ええ、彼女はマイヨジェンヌのヴィーナスです」
男がばつが悪そうに首をすくめる。
「やっぱり。似てると、よく言われますか」
「似てるも似てないも、ヴィーナス本人ですから」
会話が噛み合わず、私は曖昧に笑って話題を打ち切った。
電車は出島跡に沿って走り、男はスマホの彼女に、あれが貿易事務を執り行なっていたところ、あの和洋折衷の建物は明治時代に建てられた社交クラブだよと解説していたが、築町の停留場に着いたところで、眼鏡の位置を気にしながら私の方に顔を向けた。
「ジェニファー・ローレンスは生まれながらのセレブだとお思いで?」
「は?」
「芸能人であるヴィーナスが、こんな野暮ったい一般男性の彼女であるわけがない――あなたはそう思い、程度の低い冗談を言う男だと、しらけているのですよね」
マイヨジェンヌは今をときめくアイドルユニットである。もともとはマヨネーズの業界団体が販促のために仕立てたお遊びユニットだったのだが、コミック調のコマーシャルソングが動画サイトで爆発的再生回数を記録し、第二弾、第三弾の歌もメガヒットでテレビの歌番組やバラエティーに進出、年齢性別を問わず支持を集めて国民的アイドルとも称されるようになり、当初三人だったメンバーは五十人に増殖、ケチャップやマスタードをモチーフとした兄弟姉妹ユニットも派生して、今では百人を超えるファミリーを形成している。ヴィーナスはマイヨジェンヌの増殖メンバーの一人であった。
「けれど、ジェニファー・ローレンスにも、セレブになる前の時代があるわけです。下積み時代よりもっと前、ケンタッキーでエレメンタリー・スクールに通っていたころ彼女は、わたしはいずれ大女優になるのだから下々の者とかかわりを持っても意味がないの、と独り部屋にこもってシェークスピアを読んでいたのでしょうか。ヴィーナスもまたしかりで、魚津で箕下純子だった時には、リンゴのように頬の赤い、ただの洟垂れ小僧でしかなかったのです」
「洟垂れ小僧って、ひっどーい」
彼女がむくれた。窓に立てかけてあったスマホは男の手の中に移っていた。
「これは失礼。小娘でした」
「そこかよ」
「お二人は幼なじみということですか?」
私は尋ねた。
「です」
画面の中で彼女が笑う。そうなんですかと私はうなずきを返す。
次は西浜町とのアナウンスのあと、男が話しかけてきた。
「どうも納得されていないようですね。百歩譲ってこの男が幼なじみだとしても、今さら親しくつきあうことがあるとはとても思えない、テレビ局に出入りしていれば高収入のイケメンがよりどりみどりなのに」
私が納得していないのはその点ではない。もう一つ前の段階だ。スマホの彼女がヴィーナス本人であろうはずがない。確かな理由がある。しかし男の目も確信に満ちており、へたに突っ込むとキレられて厄介な事態に発展しかねなかった。
「いいでしょう、これも何かの縁だ、僕たちがこうして旅しているわけをお教えしましょう。ただし、ここだけの話ですよ。ネットにあげたり週刊誌に売ったりしちゃダメですよ。約束してくださいますか?」
「え、ええ」
私が気後れしていると、男はペースを完全に掌握し、血色の悪い舌先で皹割れの目立つ唇を十分湿らせ、二人の馴れ初めを話しはじめるのだった。
「純子とは同じ町内でして、だから小学校も一緒、そして集団登校が義務づけられていたため、顔を合わせない日はなく、学年が二つ違うにもかかわらず、非常に親しい間柄でした。僕と純子だけでなく、集団登校していた全員が、上級生は下級生をかわいがり、下級生は上級生を頼りにしと、大家族のきょうだいのような感じでした」
「かわいがる? 寄ってたかっていじめてたくせに」
彼女が片目をギュッとつぶった。怒った表情も愛らしい。
「何言ってんだよ」
「アフロ、アフロってさ」
「ただの綽名だろ」
「きつい天パーで悩んでいた子をそういうふうに呼ぶのは、いじめ」
「親愛の情からだよ」
「よく言うよ」
「嫌だったの?」
「決まってんじゃん」
「アフロと呼ばないでと言ってくれればよかったのに」
「言えるなら悩んでない。それに、髪の毛に指を突っ込んでモシャモシャしたり、『カラスの巣』とか言って紙屑や木ぎれを載せたり、どこが親愛の情よ」
「えー? そんなことした?」
「した」
「ごめん。それについては今度じっくり謝るから」
男は膝の上のスマホに向かって手を合わせる。それから、脱線しましたと私に顔を向け、
「ともかく、僕らは小学校時代は近しい関係だったのですが、僕が中学にあがると、急に疎遠になりました。登校は別だし、たまに道で会っても、お互い挨拶すらしなくなりました。そして僕が高校生になって間もなく、彼女は一家でどこかに引越していき、関係が完全に切れることになります」
「新潟」
と彼女。
「そう、それを憶えていないほど、どうでもいい存在になっていたのです。年賀状のやりとりもなく、秋の夜長にふと彼女のことを思い出すこともありませんでした」
「どうせあたしはその程度の女さ」
「そして九年の月日が過ぎました。その間、僕は高校を卒業し、大学の工学部に入り、卒業後は東京のコンピューター・ソフトウェア開発会社でプログラマーとして働きはじめました。自分で言うのもなんですが、かなり優秀な学生でして、教授が学会賞を獲った研究も、僕の論文がベースになっていて、院生を差し置いて教授のアシスタントを務めていました。だから教授には、マスター、ドクターと進むことを強く勧められたし、僕もできれば研究を続けたかったのですが、家庭の事情がありましてね、大阪の私立に行かせるのはさぞ大変だっただろうと思うと、もう二年、五年と行かせてくれとはとても言えません」
「小学校で一番頭がよかったよね。あたし、宿題みてもらったの憶えてるよ」
「学校の成績は優秀でも、社会には暗くて……。研究が楽しいのでそっちにばかり入れ込んで、就活をおろそかにしていたんですよ。その結果、採用が決まったのは、開発会社といっても大手メーカーの下請けでして、そういうところの新人プログラマーなんてのは、いわゆるIT土方ですよ。仕様にしろ納期にしろ理不尽な要求を突きつけられ、しかし意見することは許されず、不眠不休でゾンビのようになりながら働くわけです。すると、いくら若いとはいえ、半年一年と続けば、栄養ドリンクも風池や中衝のツボ押しも効かなくなり、過労でバッタリ倒れる。体が壊れると気が弱くなってしまい、またあの修羅場に戻るのかと思うと、頭痛やめまい、嘔吐や過呼吸に襲われる。
このままでは死んでしまうと、僕は退職し、魚津に帰りました。そうして実家で心身の回復をはかっていたある日のことでした。郵便局の仕事から帰ってきた母が、興奮を抑えきれない様子で言ったのですよ。
『角の山崎さんのところに前に住んでた箕浦さん? 箕面さん? あそこに女の子がいたわよね、あんたより少し下の。その子がテレビで大人気で大変なことになってるって!』
落ち着かせて聞き出したところ、幼なじみの箕下純子が、今をときめくマイヨジェンヌのメンバー、ヴィーナスになっているというのです。郵便局に来たお客さんから聞かされたとのことでした。
にわかには信じられない話でした。ヴィーナスは、細面で、おめめパッチリ、セクシー唇、さらさらヘアーが特徴ですが、一方の純子はというと、丸餅のような顔に腫れぼったい目、きつい天パーなのです。おぼろげな記憶によるものではなく、昔のアルバムを引っ張り出してみても、箕下純子は野暮ったい田舎娘で、長じて化粧をおぼえたとしても、ヴィーナスに変身できるとはとても思えません」
「ひっどーい」
「母はおおかた与太を掴まされたのだろうと思いました。けれど一つだけ気になることがありました。ヴィーナスというのはローマ神話の愛と美の女神ですが、ギリシア神話でそれに相当するのはアプロディーテーです。アプロディーテーは、わが国においては、アフロディーテと清音で発音されることのほうが多いでしょうか。アフロディーテ、アフロ――アフロ? 箕下純子の綽名ではありませんか。彼女はそれをもじってヴィーナスという芸名にした?」
「言ったじゃん、アフロって呼ばれるの、イヤだったって。高校の途中からずっとストパーかけてる」
「嫌な過去だったからこそ、それを乗り越えようと、あえて芸名の裏側にひそませるということはあるかもしれない」
「ないない。事務所が決めたんだし」
「たまたまヴィーナスとアフロが結びついただけなのだとしても、それが僕の心に響いたのです。それもまた、たまたまなのでしょうか。否! このサインがなければ、僕は母の話に取り合わず、今こうして純子と一緒にいることもなかったのですよ。これを神の導きと言わずしてどうします」
冷房のない車輛である。天井で扇風機が回ってはいるが、たまにやってくる風は熱気を帯びている。真下にモーターがあるのか、椅子も行火のようになっている。私は男の話に耳を傾けながら、額や首筋の汗をハンドタオルでぬぐっていたが、無意味だと悟ってからは、タラタラ流れ落ちるにまかせている。下着の中も不快に湿っている。
なのに横の男はというと、鼻の頭に一粒の雫も浮かべていない。ネクタイをウインザーノットに締め、長袖のジャケットまで着ているというのにだ。
「アフロとヴィーナスの同一性に気づいた僕は、二人が同一人物である証拠を見つけるべく、ネットをかけめぐりました。しかしいくら検索しても、ヴィーナスのプライバシーに関しては、新潟出身ということくらいしかわかりませんでした。マイヨジェンヌは〈サラダの星から来た妖精〉という設定で展開しているため、ヴィーナスにかぎらず、メンバーの素顔については事務所側が情報統制をはかっていたのかもしれません。
文字情報の探索に行き詰まりを感じ、画像を検証することにしました。ヴィーナスの顔写真の中に箕下純子の面影を探そうとしたのです。けれどこちらも行き詰まってしまう。笑顔、すまし顔、寝顔、変顔、横顔、あおりショット、目元のアップ――何百と写真を見たところで、どれも純子とは全然違って感じられる。整形して別人のような美しさを獲得したと考えれば説明はつきますが、僕は、純子とヴィーナスが同一人物である証しを探しているのですから、無根拠な解釈だけでは納得できません」
「なにげに失礼なこと言ってる。『別人のような美しさ』って、元がメチャクチャひどかったみたいじゃん」
「ヴィーナスの美しさは、街で見かける美人とは次元が違いました。まさに神話のヴィーナス級です」
「ごまかされたような……。言っとくけど、いっさいメスは入れてないからね。注射も打ってない。大人になって顔が変わっただけ。女ってそういうもの。あと、プロのメイクさんがついてるからね」
「けれど体は正直でした」
「は?」
「証拠は顔ではなく体にありました。プールで撮影したグラビアを見ていて気づいたのです。ビキニのボトムから露出した鼠径部から腿の上部にかけて、茶色く細長いものが写っていました。印刷の汚れ? いや、何かの傷の跡ということはないか? たしか箕下純子のその部分も火傷で皮膚が攣れていたような――」
「そうなんだよ!」
スピーカーからの音が割れた。画面の中で彼女が立ちあがっていた。
「だから水着の撮影は基本NGだったし、どうしてもやんなきゃって時は、長めのショートパンツにしてもらってた。なのにあの撮影の時にはスタイリストが間違って用意しやがって、パレオがあれば巻いて隠せたんだけど、それも用意してきてない。スケジュールがパツパツだったから、撮影延期なんてゼッタイ無理だったし、別の水着を買ってくる時間もない。だから仕方なしにハイレグを穿いた。『傷はレタッチで消せるから問題ない』って言葉を信じて。なのにあの編集の野郎、修整の指示を出すのを忘れやがって! うちの事務所の力で子会社に飛ばしてやったけど、そんなんじゃ気がすまない。火傷の跡をさらされたのよ。女子を何だと思ってんの。おまけに、ヴィーナスは腿に蛇のタトゥーを入れてるというデマまで流れて、マジ勘弁、ザケンなッてるを變ゃぁ躁ヅ♡りゅポんきュぽンくぎャらぐゎしぇるぱゐひヒ$がすへまとキ印ゑゑゑゑゑ――」
興奮してまくしたてていた彼女の口調がおかしくなったかと思うと、画面にブロックノイズが発生し、映像も音声も止まってしまい、しばらくののちブラックアウトした。
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〈第3回へつづく〉
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