menu
menu

連載

冲方丁「骨灰」 vol.15

家族の団欒を妨げるインターホン。だが、エントランスには人の姿がない。 冲方丁「骨灰」#2-7

冲方丁「骨灰」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 
 ちょうど席を立っていた光弘は、ほとんど何も考えず、すぐそばの壁に設置されたインターホンへ向かった。カラーモニターが起動しており、マンションのエントランスで誰かがテンキーを押して、この部屋を呼び出したことを示している。
 だが呼び出した相手の姿が見えなかった。光弘は念のため受話器を取って、
「はい?」
 と声をかけた。
 応答なし。エントランスの自動ドアを開くボタンを押さずに待ったが、誰も画面に現れないままだった。いたずらだろうか。だが、夜八時を過ぎると管理人室は無人になるとはいえ、監視カメラがあるこうしたマンションの出入り口で、わざわざいたずらをするものだろうか。
「どうしたの?」
 美世子が立ち上がろうとするのを手振りで止め、光弘は受話器を戻した。カラーモニターが自動的にオフになった。
「お客さん?」
 と咲恵。
「ううん。間違いかな。でなきゃ、機械の誤作動かも」
「誰もいないのに鳴ったの? いたずらじゃない?」
 美世子が不安で顔を曇らせた。インターホンという生活の安全を守るための品に、ちょっとでもおかしなことがあると、かえって落ち着かなくなるものだ。実際に差し迫った危険があるわけではないにしても、気味が悪くなるのはどうしようもない。
 とりわけ妊娠七ヶ月目であり、多くの時間をこの部屋で過ごさねばならない美世子が不安になるのは当然だった。
「見えなかっただけかもな。自動ドアは開いてないから、誰も入ってきてないよ」
 光弘は、あえて何でもないというように明るく言って席に戻った。
「見えないお客さん?」
 咲恵が楽しそうに尋ねたが、その言い方に美世子がますます不安な気分を刺激されたのがわかった。光弘にしても、見えないお客さんという言葉には、物理的に何かされるのか、そうでないのかといった問題はともかく、どうにも薄気味悪いものを感じていた。
「誰もいないってことだよ」
 光弘はそう言って咲恵をあしらいながら、美世子の手を握って微笑みかけてやった。
 美世子が硬い笑みを返したとき、またしても音が鳴り響いた。
 
 美世子の手に力がこもるのがわかった。咲恵が、さっと椅子の上に立ってインターホンのカラーモニターへ顔を向けた。

 面白がってわめく声に、かえって光弘までもが穏やかでない気持ちにさせられた。不安を刺激され、そのせいで瞬間的にかっとなりそうだ。

 美世子が腰を上げながら叱った。声に不安から来る苛立ちがこもっている。
「ママも座ってて」
 光弘は再び席を立ってカラーモニターを覗き込んだ。今回もエントランスには誰もいないように見えた。自動ドアがモニターの左端のほうに映っているが、それに動きはない。どこかに人影が映っていないかと思ったが、それもなかった。
 光弘は受話器を取り、「はい?」と大きめの声を上げた。
 返事はなかった。
「本当に誰もいないの?」
 とうとう美世子が立ち上がって尋ねた。
「誰もいなーい!」
 咲恵が椅子の上で立ったまま光弘に代わって答え、美世子の苛立ちを増大させた。
「座ってって言ったでしょ!」
 咲恵がびっくりして目を見開いた。光弘は受話器を戻して、娘の頭を撫でてやりながら、美世子を宥めにかかった。
「まあまあ。機械の誤作動じゃないかな」
 胸の内側では、得体の知れない緊張のせいで心臓が締めつけられるような感覚を味わっていたが、平静な態度を保つよう努めた。ここで自分が率先して、静かにしろとか余計なことは言うなとか、怒鳴り声を上げるつもりはなかった。すっかり変わってしまった父のような振る舞いをしてなるものかという思いが心のどこかからわき上がってきたとき、みたび音が鳴った。
 
 光弘の目の前で、オフになったばかりのカラーモニターが起動し、がらんとしたエントランスを映し出した。モニター越しに見るエントランスは奇妙に無機質で、ざらついていて、陰影がともすると気味の悪い染みのように見えた。
 美世子が、光弘のそばに来てすがるように手を握った。咲恵にもとうとうその不安が伝染したとみえ、椅子から降りて光弘と美世子の脚に同時にしがみつくようにした。
 光弘は受話器を取ろうとしたが、美世子に手を引っ張られてできなかった。それで少々煩わしい気分になったが、緊張のせいであることはわかっていた。二人にしがみつかれていると自由に動けず、かえって二人を守りにくくなるという本能的な不快感が引き起こされるのだ。だがもちろん、だからといって父がしたように二人を押しのけたりはせず、左右に身をねじって空いている方の手を伸ばし、美世子の腕と、背後からしがみつく咲恵の背を、交互に軽く叩いて二人を落ち着かせようとした。
 だが美世子も咲恵も言葉を失ったようになっており、夕食の席だったとは思えないような沈黙が降りかかってきていた。光弘はいっそ受話器を外したまま壁にぶら下げておこうかと思ったが、それでインターホンの機能が停止するわけではないと思い直した。代わりに、カラーモニターがひとりでにオフになるのを見届けてから言った。
「下に行って見てくるよ」
 美世子が、「えっ?」と疑問とも制止ともつかぬ声を上げた。なんでわざわざそんなことをするんだと言いたいのだろう。
「インターホンの使い方がわからない人が、番号を間違えたまま、下で立ち往生してるのかもしれないだろ」
「誰も映ってないじゃない」
「画面の外にいるのかな。もし怪しいやつがいたら警察を呼べばいい。というか、もしそうなら呼んだ方がよくないか?」
「そうだけど……」
「けーさつ呼ぶの?」
 しゆんじゆんする美世子をよそに、咲恵がそのほうがいいというように小声で訊いた。
「まだだよ。とにかく──」
 光弘の言葉を、呼び出し音が遮った。
 
 ぱっとカラーモニターが誰もいない空間を映し出した。明らかに間隔が短くなっており、呼び出し音が繰り返されることに苦痛を覚えるようになっていた。ふだん大して意識していなかったが、インターホンの呼び出し音というものがこれほど人の平常心を奪うという事実には無性に腹が立った。しかも止めるすべがないときては、いっそインターホンの電源を切るか、壁から引っ剝がしてしまいたくなる。もちろんそんなことをしても一時しのぎに過ぎず、インターホンなしでは生活に支障をきたすことになるのだから、今すぐそれ以外の方法で解決する必要があった。
「行ってくるよ。大丈夫だから」
 光弘は力を込めて美世子の手を握り、離すよう促した。美世子もそうせざるを得ないと理解したか、光弘の手にすがりつくのをやめ、咲恵の体を自分のほうへ引き寄せた。
「携帯を持っていってね」
「もちろん。下から電話する」
「電話しながら行ったら?」
「エレベーターに乗ると電波が切れちゃうよ。下でかけるから」
 そうすると素早く通報できなくなるな、と思いつつも美世子を宥めるためにそう言い、光弘はリビングの棚から、部屋の鍵を取ってズボンのポケットに入れ、充電中だった自分の携帯電話からケーブルを抜いた。美世子も同じ棚にあった自分の携帯電話をつかみ、咲恵と一緒に、玄関までついてきた。
 玄関には脱いだ靴が何足も並べて置かれていた。そのうち、今朝家を出たときに履いた靴を選んだ。滑りにくく、しっかり踏ん張れる靴を。もし不審者がいたとき、機敏に動ける靴を履いていたほうがいいに決まっている。
「じゃ、行ってくるね。すぐ戻るから。おれが出たら念のため鍵を閉めて」
 光弘は努めて明るい態度をみせながら玄関を出た。美世子と咲恵が開いたドアの隙間からずっとこちらを見ていた。光弘はエレベーター・ホールに向かうため廊下を曲がる前に、笑みを浮かべて手を振り、ドアを閉めるよう促した。二人とも不安そうに手を振り返し、それからドアが閉まって、施錠の音がかすかに聞こえた。
 光弘は手を下ろして進み、エレベーターを呼び出して乗った。顔は無表情になり、自然と奥歯を嚙みしめ、目元に力をこめていた。瞬きせずドアが開くのを見つめ、乗ってくる者がいないことを確認し、大股で外へ出た。美世子と咲恵がいなくなったとたん、すっかり闘争的な態度になっている自覚はあった。妻子をおびえさせられたという怒りがわいているのだ。この調子だと、誰かがエントランスの自動ドアの向こうにいるのを見た瞬間、怒鳴りつけてしまいそうだった。
 だがそこには誰もいなかった。
 自動ドアの向こうにある、通常のガラスドアと、まだ雨がぱらついているらしい外の通りを眺めたが、誰かが入ってくる様子も、誰かが出ていった様子も見て取れなかった。
 うっかり自動ドアに近づいて開いてしまわないよう距離を取ったままでいると、手の中で電話が鳴った。当然ながら美世子からだった。
「もしもし?」
「ねえ、誰かいるの?」
「いや、誰もいない」
「鳴ってるのに?」

▶#2-8へつづく


MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年12月号

11月25日 発売

怪と幽

最新号
Vol.008

8月30日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP