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連載

冲方丁「骨灰」 vol.4

SNSの投稿に紐づいた現場を順に見て回るうち、謎の印にたどりつく。 冲方丁「骨灰」#1-4

冲方丁「骨灰」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 地下三階に下り、ひととおり東棟の地下を見て回った。
『作業員全員入院』
 この「つぶやき」にはコンクリートの床と壁に囲まれた狭い通路の画像がついている。
『人骨が出た穴』
 こちらは、地下にあるらしい土面に掘られた四角い穴だ。穴の向こうに見えるのはコンクリートの壁だ。
 いずれも特徴的な構造が見て取れるのですぐに見つかると思ったが、これと確信できる場所に行き当たることはできなかった。
 現時点で今より深いエリアはない。いったん東棟エリアから出て、将来、東口地下広場として機能する予定の空間も念のため見回ったが、成果はなかった。
 そもそも『東棟地下』という言葉を信じるなら、交差点付近の地下広場ではないことになる。だが他に調査すべき空間がなく、困惑して引き返した。
 地下貯水槽のそばを通り過ぎて東棟へ戻るうち、ふとヘッドライトの光の中に、何か妙な模様が浮かび上がるのが見えた。
 いや、よく見ると模様ではなかった。
『鎭』
 濃い灰色の塗料か何かで、大きくそう書かれている。光弘の身長より大きい。床から天井ぎりぎりまであった。
 なんの印だ?
 あまり近づくとヘッドライトの光が強すぎて字が薄らいでしまうので、何メートルか距離を取って眺めた。読み方も意味もわからない。だがそこで、字の左手にある仮設構造物と壁の間に、空間があることが影の動きで見て取れた。
 来たときは陰影が見て取れず、仮設構造物が壁にぴったりついているように見えたのだ。
 光弘はいったん字を無視して近寄り、仮設構造物と壁の間を覗き込んだ。
 仮設構造物の裏に、防音壁のような素材が裏打ちされている。そのせいで鉄材のすぐ向こうが壁だと思ったのだ。
 防音壁とコンクリート壁との間に、人が二人並んで入れるほどの空間が形作られていた。
 その空間の床に、四角い大きな穴がある。
 いや、違った。覗き込むと、すぐにそれが穴ではないことがわかった。
 階段だ。
 地下に入って来たときの金属の板とパイプによる仮設階段ではない。いわゆる打ちっ放しの、コンクリートの階段だった。
 誤って階段に落ちないよう仮設構造物で壁を作ったのか?
 光弘は首をひねった。だったら手すりをつければいいだけだ。これではまるで商業施設で業務用の階段を隠すための化粧板のようだ。
 階段は空間の隅にある。右手と目の前は壁だ。
 位置的に、壁の向こうのどこか頭上に暗渠があるはずだった。そう思って耳を澄ましていると水の音がかすかに聞こえてきた。壁のこちら側は、からからに乾いた空気が充満しているというのに、壁のあちら側では増水中だった。
 つまり、この階段は、暗渠の下をくぐることになるのか?
 地下三階の一隅に、わざわざ見つけにくい階段を作る理由がわからなかった。タブレットで図面を呼び出してみたが、何もない。
 階段の存在を示す図がなかった。空白だ。図面の入力ミスだろうか?
 いや、工事の前から存在していた階段で、作業員が落下しないよう安全のため壁を設置したのかもしれない。渋谷川が暗渠化した頃ならば八十年も前の工事跡ということになる。
 土砂やコンクリを流し込んで埋める気だろうか? 図面にない理由が他に思いつかないし、そもそも考えたところで答えが出るものでもなかった。
 光弘は自問自答をやめ、階段の前でしゃがみ、ヘッドライトの光で暗がりを照らした。
 階段は十段ほど下りたところで右折れになっており、さらに下に続いている様子だ。
 光弘は、周囲の空間を見回した。他に探すべき場所はなかった。
 溜め息をつこうとして喉がひりひりすることに気づいた。何度か唾を飲み込んで喉を湿らせ、靴音を響かせながら階段を下りていった。
 どうせ地下に下りれば冷たく湿気に満ちた空気に変わるだろう。地下とはそういうものだ。あっという間に湿気溜まりができて、カビ臭くなる。
 そう思ったが、とんでもなかった。
 最初の踊り場を折れたところで、目をぱちぱち瞬かせた。
 喉ばかりか目まで乾燥しているのだ。頰にふれる空気は、むしろ今しがたまで火でもいていたかのようにひりひりするほどだった。
 コンクリートを使用する現場ではむしろ乾燥は難敵だ。セメントは水と混ざることで硬化する。粘土と違い、水を吸って硬くなるのだ。硬化前に乾燥すると、亀裂や崩壊の原因になるため、温度と湿度を保つための、いわゆる養生を行う必要がある。
 この乾燥は、その点で最悪といえた。いや、異常だった。
 いったいどんな設備があって、こんな空気を作りだしているんだ?
 臭いも変だった。下水の臭気とは違う、もっと鋭く鼻を刺すような、何かがひどく熱されたような乾いた臭いだ。
 どこかで嗅いだことがある気もするが、思い出せなかった。
 代わりに、光弘が二十代のときに亡くなった父の姿が、唐突によみがえった。
 父には珍しいスーツ姿だった。父がそんな出で立ちをしているのを最後に見たのは、まさに今生の別れの場でのことだ。
 棺に入った父。
 なぜ今、父のことを考えているんだ? 光弘は思わず足を止め、汗ばむ額を拭った。たった一人で地下深く下りていく最中に、死んだ親の姿なんか思い出すもんじゃないぞ。
 そう自分に言い聞かせながら、また階段を折れた。
 やたらと喉が渇くのも、妙な連想をするのも、閉所恐怖でパニックに陥る前兆かもしれない。高所と閉所は、建設現場につきものの二大パニック・ポイントだ。人間の本能的な恐怖心を上手にコントロールしなければ、大事故を引き起こしかねない。
 そう死んだ父に教えられたことが思い出された。
 父は工務店の経営者だった。精神的にも肉体的にもタフで頼もしくて愛嬌がある。そういう父の印象が、あるときから様変わりした。病気がちで、寡黙で、気難しく、いつも暗い目をしている。どちらが本当の姿だったのか、父が死んだ今ではよくわからない。
 まただ。余計なことを考えている。
 自分を落ち着かせるため、ゆっくりと呼吸を繰り返した。そうすると落ち着くということも父に教えられたことだ。いや、そんなことはどうでもいい。
 とにかく深い階段だ。
 何度か折れたのに、いつまで経ってもフロアに出ない。
 さらに折れる前に足を止め、乾燥の原因を見て取れないかと辺りを見回した。それほど空気がひりついていた。この底になにがあるんだ? 溶鉱炉か?
 ふいに妙なものが見えた。
 足跡だ。

▶#1-5へつづく


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