遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕獏「蠱毒の城――⽉の船――」#104〈前編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
これまでのあらすじ
閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を探すよう命じられる。さらに姜一族の南家・姜竜鳴に面会し、竜鳴の娘・鳴花と共に常羊山に向かうことに。
二十三章 軒 轅 剣
(六)
声が聴こえた。
小さな、細い声だった。
すぐにその声に気がついたのは、完全には眠っていなかったからだ。
寝台の上に横になり、眼を閉じてはいたが、眠らずに考えていたのだ。これまでのことや、昼のことを。
いったい、自分はここで何をすることになるのか。
昼に会ったあの女──
明日は、
何かが起きるのなら、その時に起きるであろうとも鳴花は口にした。
常羊山で、いったい何が起きるというのか。
昨夜泊まった
椿麗に会いたかった。
椿麗の声や、肌の温もりを想い出した。
その、覚えている温もりにすがるように、
そこで、声が聴こえたのである。
「起きよ」
そういう声であった。
「起きよ、真成、来るぞ」
来るぞ──
と、声が言った時には、真成は覚醒していた。
上体を起こした時には、床から、何者かが跳びかかってきたところだった。
いったん起こした上体を、真成はその瞬間再び倒していた。
仰向けになった真成の上を、黒い影が飛びこえていった。
猿!?
猿ではないが、猿ほどの大きさの何かだった。
真成の上を跳びこえる時、そいつは、おそらくは、左右どちらかの手を伸ばしてきて、真成の身体の上の空間をひと撫でしていった。
その指が、何かに引っかかり、いったんはその何かを摑みかけていたのだが、真成が上体を倒していたため、そいつは、それを指先にほんの一瞬ひっかけただけで、寝台横の壁にぶつかり、ひと呼吸だけその壁にしがみつき、次の瞬間には、たちまち壁をかけ登って、屋根裏に通っている太い
真成は、また、上体を起こした。
その時には、左手に
そいつの指先に引っかかったのは、真成が胸から下げた
猿のような影は、あきらかに今、真成の胸にぶら下がっている宝骨をねらったものらしい。
いったい、何故。
梁の上から、その猿のようなものが、真成を見下ろしている。
その
その時、真成は気がついた。
まだ、いる。
部屋の隅だ。
部屋の隅の暗い場所に、やはり、猿くらいの大きさのものがうずくまっている。闇よりも濃いわだかまり。
その頭部には、二本の、角のようなものが生えているのが見てとれた。
人でないのはもちろん、それは、猿でもないものだ。
その中心から、一対の碧く光る眸が、真成を見あげている。
窓は、格子になっており、そこから、夜気と月光が部屋の中まで入り込んでくる。
その光で、梁の上や、部屋の隅の暗がりにいるものたちも、おぼろにその姿が見てとれるのである。
耳を澄ませば、
しゅっ、
しゅっ、
という、小さな音も聴こえてくる。
そいつの呼吸音らしかった。
しゃっ!
と、鋭い呼気を洩らして、そいつが真成に跳びかかってきた。
剣を抜く間もなかった。
宙に浮いたそれを、真成は剣の鞘ではたいた。
そいつは、声もあげずに壁まで飛んで、そのまま壁にしがみついた。
しゅっ、
しゅっ、
ち、
ち、
と、壁と梁から、そいつたちの呼吸音や、
二匹か、二頭か、彼らの碧い眸としばらく睨みあっていると、
ふっ、
ふっ、
と、彼らの眸の光が消えた。
眼を閉じたのか、顔のむきをかえたのであろう。
ほぼ同時に、ふたつの影が動いた。
真成に襲いかかろうとしたのではなかった。ふたつの影は、窓に向かって動いたのである。
するり、
するり、
と、ふたつの影は格子を抜けて、外へ出ていった。
窓から差し込んでくる月光が、格子の模様を床に浮きあがらせている。
その上に立って、真成は、溜めていた息を吐いた。
何であったのか、いまのあれは。
それにしても、あれが飛びかかってくる寸前で、声をかけてくれたものがいたが、それがなければ──
真成がそこまで考えた時、
「行ったな……」
さきほどの、細い、高い声がした。
(後編へつづく)