表の世界と裏の世界を同時に楽しめるとしたら――。
全五篇の連作集。最強のエンタメ小説。殺し屋シリーズ最新作の開幕である。
日常で体験できないことを体感でき、見ることのできない世界を見せてくれるストーリー、そして時間を忘れ夢中になれる世界が私は大好きだ。この『AX』もそうだった。そして『最強の殺し屋は――恐妻家。』というキャッチコピーを見て、私は一瞬で心を掴まれたのである。
主人公の兜は、超一流の殺し屋。業界内で一目も二目も置かれるほど。しかし、家に帰れば妻の顔色を窺う恐妻家。一人息子も呆れるほどだ。もちろん、殺し屋の仕事のことは秘密だ。家族には、文房具メーカーの営業社員ということになっている。なっているというか、その仕事にも就いているので会社員であることは嘘ではない。息子の克巳が生まれた頃から、殺し屋の仕事を辞めたいと考えていたが、そう簡単ではなかった。
「本当に殺し屋なの?」と思ってしまう家庭での兜の恐妻家ぶり。そして一方で、「本当に恐妻家なの?」と思ってしまう淡々とした兜の殺し屋の仕事ぶり。二つの顔を持つ兜の存在によって、読者はあっという間に、表と裏の二つの世界へ飲み込まれてしまうだろう。
妻の機嫌を損なわないよう頭をフル回転させる兜の姿は微笑ましく、サラリと助け舟を出す息子の方が大人のように思え、思わず笑ってしまう。そして、この家族のやり取りは、よくある光景だと思うかも知れない。しかし、よくある光景だからこそ、見たことのない殺し屋の世界を際立たせている。そしてその逆も。兜が敵と対峙する時は、兜の大切な家族のことが常に頭にチラつき、兜本人よりも、読者の私の方がハラハラしていたのである。
テンポよく進んでいくストーリー。次は何が起こるのかという期待感。きっと読者の読むスピードが上がっていくに違いない。コミカルな描写、シリアスな描写、アクションなどが、休む間もなく、容赦なく展開される。読んでいて、あちらこちらに感情が動かされ、もっと読みたいと欲してしまうはずだ。
殺し屋であり、父親、夫、一家の大黒柱としての兜の複雑な気持ちが、ストーリー全体を通して見え隠れしているのも、今作の魅力だ。作中に、庭のスズメバチ退治、息子の進路相談など、日常の出来事を表す言葉を見つけると、なんだかホッとしてしまう。家族を守りたい、かけがえのないものを守りたいという気持ちを持つとは、過去の兜は想像もしなかったはずだ。しかし、今は自分の命よりも、大切なものを手にしている。本当に人生は何が起こるかわからない。
そして、この『AX』も何が起こるのか、最後の最後まで気が抜けない。思わぬ方向から、思いもよらない出来事が展開される。この物語の行き先は、単に面白いだけではない。殺し屋と一家の大黒柱という二つの顔を持つ一人の男、兜の気持ちや行動、兜を取り巻く環境に飲み込まれ、是非この世界を楽しんでもらいたい。想像以上の展開が待ち受けている。