およそ5年振りの連載再開
「太陽編」は、角川書店の月刊文芸誌『野性時代』(現在は『小説 野性時代』に引き継がれている)の1986年1月号から88年2月号に連載された。
『月刊マンガ少年』に連載された「異形編」の完結が1981年4月号なので、およそ5年振りの連載再開だった。
再開に至ったきっかけは、当時の角川書店社長だった角川春樹氏からのアプローチによるものだ。手塚と直接会った春樹氏は、壬申の乱を舞台にした『火の鳥』を描いて欲しいと依頼。しかし、すでに作品の過去のパートが「異形編」で室町時代後半に達していることから、7世紀の壬申の乱にまで遡るのは難しい、と考えた手塚治虫は「『壬申の乱』という別のマンガにしてはどうか」と提案した。これに対し、春樹氏は、角川書店のシンボルマークである鳳凰のイメージとも繋がる『火の鳥』でなければならないこと、手塚治虫の描いた壬申の乱をどうして読みたいことを伝え、最終的に手塚が折れる形で企画がスタートした。
過去のパートである「異形編」に続く「太陽編」で、さらに過去を描くために手塚が考えたのが、全体を読むと過去と繋がった近未来の話にするという手法だった。こうして、過去と未来が大きく振幅するという「太陽編」の構想がつくられていった。つまり、過去のパートを未来のパートの一部分にすることで、時系列的な矛盾を解決しようとしたのだ。
メディアミックス戦略
掲載誌の『野性時代』は当時の月刊文芸誌には珍しいB5判サイズ。角川映画や角川文庫とのメディアミックス路線を採用して、森村誠一の『人間の証明』や『野性の証明』、横溝正史の『悪霊島』や『病院坂の首縊りの家』、平井和正の『幻魔大戦』、池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』、つかこうへいの『蒲田行進曲』、村松友視の『時代屋の女房』などの話題作を次々と世に送り出していた。
『火の鳥』に関しても、メディアミックス路線が採用され、劇場用アニメ『火の鳥 鳳凰編』の製作が決まった。監督には、かつて虫プロダクションに在籍したりんたろうが抜擢され、86年12月に全国東宝系で公開された。
公開に先立っては、アニメ情報誌『ニュータイプ』の別冊「ニュータイプ100%コレクション」の1冊として『火の鳥』が発行されている。
また、87年には「ヤマト編」(平田敏夫・監督)、「宇宙編」(川尻善昭・監督)でOVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)も製作された。
単行本については、「黎明編」からの全巻を新たに出版することが決まった。しかし、すでに、講談社の手塚治虫漫画全集などで読める状態だったことから、手塚は、85年に文藝春秋から出した『アドルフに告ぐ』と同じように、文芸書の読者に向けた大幅なリニューアルをすべきと判断した。体裁を四六判ハードカバー仕様として、表紙も自分のマンガではなくイラストレーターを起用したいと希望したため、鳥取県出身で日本のイラストレーターの草分けの一人と言われた毛利彰氏に白羽の矢が立った。
さらに、内容についても全面的なディレクターズカットを行って、それまでの単行本にはなかった4色カラーページを冒頭に追加し、決定版と呼べるものに仕上げた。
値段は1冊980円で、新書判コミックスが300円前後だった当時のマンガ単行本としては高額だったにもかかわらず、12巻までの累計で300万部を越える大ベストセラーになって、その後の豪華本コミックブームに先鞭をつけた。
なお、発売順は、『鳳凰編』が86年4月に、つづいて『乱世編(上)』、『黎明編』、『乱世編(下)』を月に1冊ペースで出した後、『未来編』、『ヤマト編/異形編』を7月末に同時発売。8月からは再び月に1回ペースで『宇宙編/生命編』、『復活編/羽衣編』、『望郷編』、『太陽編(上)』という順番で刊行されている。
生前の手塚のインタビューなどでは、手塚が原案、総監督などを担当した劇場用アニメ『火の鳥2772』を手塚自身がコミカライズした描き下ろし単行本をスペシャルとして加える予定もあったが、入院や早すぎる死によって果たされなかった。
また、手塚の没後の90年には、「ギリシャ・ローマ編」が初単行本化された。
単行本初版と文庫版の相違
「太陽編」の単行本は元々は上下2巻構成になっていて、上巻に収録されたのは『野性時代』86年10月号までに収録された部分にあたる。常に単行本化に際しては大幅な描き直しをしていた手塚としては異例の短期間での単行本化である。さらに驚くのは、下巻だ。奥付の発行年月日は、「昭和62年12月25日」で初出データは「~昭和63年2月号」。つまり、雑誌の連載と単行本のための原稿整理が並行して進められていたことになる。
この年の手塚治虫は、3月に外務省の文化大使としてフランスに行き、5月には同じくフランスのアヌシー国際アニメーションフェスティバルに参加。9月には再び外務省の依頼でカナダにというハードなスケジュールを縫うように、『ルードウィヒ・B』、『グリンゴ』の連載を開始し、実験アニメ『森の伝説』を完成させるなどしている。
連載を続けるのと同時に単行本の作業を進めるのは、神業を通り越した綱渡りの作業だったはずだ。
このため、手塚は単行本の仕上がりには大いに不満を感じていて、初版後まもなく改訂に着手している。豪華版単行本と本文庫を比較してみると、2巻構成が3巻構成になった以外に、大きな相違をいくつも発見できる。とくに、未来のパートではそれが目立つ。
たとえば、下巻の光教団の施設でのスグルと光の戦士・ナゴミの決闘や、その後の囚人たちの反乱の場面だ。1ページ丸々描き直したり、描き加えたりした箇所もある。
文庫版は単行本の修正版をもとにしているので、どこに修正が加えられたのかを、単行本の初版と比べてもおもしろいだろう。
終わらぬ宗教戦争へのメッセージ
さて、本作のテーマになっているのは「宗教と権力」だ。過去のパートでは、大陸から伝来した仏教と朝廷が結びつきを強めることで、元々日本に存在した土着の神々が住む場所を失っていく様が描かれ、未来のパートでは、惑星探査機が捕獲した「火の鳥」を神と崇める教団「光」が地上を支配するディストピアが描かれる。未来の社会では、「光」に帰依しない者たちは地下に潜り「シャドー」としてレジスタンス活動を続けている。
「シャドー」のリーダーは教団の大本殿から「火の鳥」を盗み出し、教祖を失脚させるという計画を立てる……。
本来、宗教は救世、つまり人々を苦しみから救うために存在するもので、本作に出てくる日本の産土神は、そのような存在として祀られてきた。
しかし、権力と結びついた宗教は、人々を弾圧して、権力者にさらなる権力を集中させる武器となる。そして、権力を倒そうとする者たちは別の宗教を利用しようとして、そこから宗教戦争が生まれる。
手塚は、「火の鳥」の言葉としてこう書いている。
宗教とか人の信仰ってみんな人間がつくったもの そしてどれも正しいの ですから正しいものどうしのあらそいは とめようがないでしょ
作品が描かれた時代、80年には、中東でイラン・イラク戦争が勃発。82年にはイスラエルがレバノンに侵攻。その後も各地で内戦が続いた。原因はユダヤ教とイスラム教の対立であり、イスラム教内の宗派対立だ。中東だけではない。中世ヨーロッパでも、キリスト教の宗派間の対立が大きな戦争を産んできた。
手塚は、地上を救うという目的を忘れ、殺戮を続ける宗教への疑問を、本作を通して問いただそうと試みたのである。
>>手塚 治虫『火の鳥10 太陽編(上)』