『政略結婚』は、三人の女性を主人公とした三つの物語が連なる書です。一人目の女性は、文化の世、加賀藩主の三女として生まれ、加賀藩の分家である大聖寺藩へと嫁いだ、勇姫。次々と不幸な出来事が起こるものの、勇姫は藩の存続のために尽力するのでした。
二人目は、明治時代に生まれた万里子。やはり加賀藩の分家である小松藩の子孫として生まれた彼女は、世が世なら姫だったわけですが、時は既に明治。父親が銀行に勤めて海外勤務が長かったせいで、彼女は今で言う帰国子女として、学習院に転入します。
そして三人目は、花音子。大正の末に伯爵家に生まれた彼女ですが、第一次世界大戦等の末、一家は財産を失います。学習院に通いながらも、花音子はふとしたことからレビューの舞台を踏むこととなり……。
異なる時代に生まれた三人の女性は皆、いわゆる名家に属しています。勇姫は、名家に生まれたからこそ、「家の存続」という役割に一生を捧げました。赤子の時から結婚相手が決まっていたことに疑問を抱くこともなく、嫁いでいったのです。
しかし今の天皇家を見てもわかるように、一つの家を存続させることは、そうたやすくありません。特に医学も発達していない江戸時代、人は簡単に死にました。勇姫は、次々に襲いかかる出来事に何とか対応し、途切れかねない家名をつなげていきます。
勇姫を見て思ったのは、「嫁」というものの強靭さです。結婚当初は、何もわからず右往左往していても、嫁ぎ先の家風に自分を合わせようとしているうちに、「嫁」はいつの間にか最もその家の人らしくなり、そして最も強くその家の存続を願うようになっていく。嫁とは家にいるから「嫁」なのではなく、家をつなげるからこその「嫁」なのではないかと思わせる、勇姫の姿。
しかしそのような嫁気質は、時代が下るうちに、薄れていきます。万里子の時代になると、まず「藩」がなくなっているため、「子孫を絶やしたら藩がおとりつぶしになってしまう」などと考える必要もないのです。
とはいえ名家の人々は、自分の家に誇りを持っています。かつての公家も武家も、はたまた新興のお金持ちも「華族」となった時代ですが、それぞれの家なりに、家名を保とうとしている。
外国育ちの万里子も、公家出身の華族との縁談がまとまるのでした。自由を愛する彼女も、女というものは「自由を得るためにはかならず、結婚しなくてはならない」……と、結婚を決意するのですが、その先には意外な展開が待ち受けている。
階級の崩壊は、さらに進みます。時流を読めずに財産を失った華族の家に生まれた花音子は、伯爵家に生まれた女性としては考えられない職業に就くことになるのですから。
花音子は、家名を継ぐなどということには全く重きを置きません。勇姫の時代から百年と少ししか経っていないというのに、女性の意識はどれほど大きく変化したことか。
勇姫の時代、嫁達が必死に存続させてきた「家」とは何だったのかと、私は本書を読んで考えずにはいられませんでした。それは建物でもなければ人でもない、目に見えない幻のようなもの。しかしその幻こそが最も大切なものと信じ続けるために政略結婚が繰り返され、女性達は自らの思考をも変化させていったのです。
家などというものは絶えてよいのだ、と花音子が思った時に、ただ一つ手元に残ったものは、一枚の皿でした。この皿こそが、三人の女性をつなぐ、ただ一つの証。しかしその皿であっても、地面に落とせば粉々に割れてしまうことを思えば、家というものの脆さを感じずにはいられません。「家」は「嫁」をいかに縛ったか。そしてその緊縛は、いかにして緩められたか。縄を解いていくお嬢様達の生き様は、自由にして痛快です。
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