夫婦と子供から成る三人家族のうち夫が亡くなり、その葬儀に参列した夫の同僚に妻が一目惚れした。数日後、妻は自分の子供を殺してしまったが、その理由とは?
……という設問は、多くのひとがどこかで聞いたり見たりしたことがあるのではないだろうか。これは、サイコパスを見分ける診断用の設問として世間に流布しているものだ(サイコパスがどういう答え方をするとされているかは、有名なので記さずにおく。また、この設問にどの程度の信頼性があるのかは、ここでは問わない)。
言うまでもなく、サイコパスは反社会性人格の一種を示す心理学用語であり、良心や罪悪感の欠如、他者への共感の乏しさなどを特徴とするため、右の設問のように犯罪的イメージと結びつけられがちだが、勇気ある行動や大胆な決断ができるという面もあるため、その特徴を生かす方向で社会的に活躍することも多い。サイコパスについては、遺伝と後天的な影響とではどちらが大きいのか……といった問題も含め(後天的な人格をソシオパスという用語で表すこともある)、かなり慎重な扱いを要するものでもある。道尾秀介の新刊『スケルトン・キー』は、敢えてサイコパスを主人公に選んだ野心作だ。
児童養護施設「青光園」で二歳の頃から育った坂木錠也は、未成年ながら週刊誌記者・間戸村のスクープ獲得の手伝いをしている。彼がそのような危険な仕事をこなせるのは、恐怖という感情が欠落しているからだ。かつて、彼と青光園で一緒だったひかりは「——錠也くんみたいな人はね」「——サイコパスっていうのよ」と言った。
錠也の母親は、十九年前、田子庸平という男にショットガンで殺害された。その時胎内にいた錠也は、母親が絶命する寸前、帝王切開によってこの世に生を享けたのだ。そして今、同じ青光園出身の迫間順平の実父こそが田子だったと錠也は知る。彼は田子を恨んでいた——死んだ母親の仇としてではなく、あったかも知れない自分のもう一つの人生を奪った男として。
ここから先の展開は伏せておくが、著者の作品中でもかなりの異色の味わいを持つ物語であることは確かだ。物語を覆う雰囲気や結末の暗鬱さだけなら、本書を凌ぐ作品もあった。しかし、それらの小説に出てきた主人公が、程度の差はあっても読者にとって感情移入し得る人間として描かれていたのに対し、本書の場合、読者は幾ばくかの当惑を抱えつつ読み進めることになる筈だ。
本書の場合、主人公は「僕」という一人称で表現される。つまり、サイコパスである主人公の内面を通して、読者は作中の世界を眺めることになる。その内面は、ある意味で極端なほどのロジカルさで構築されている一方、別の面では相当に唐突で無鉄砲なところもあって、主人公の次の行動がなかなか予想できないという効果も上げている。
更に、サイコパスなのは主人公ばかりではないことが、話の行方をますます混沌たるものとしている。クライマックスでは「スーパーサイコパス大戦」とでも表現したくなるような一大バトルが繰り広げられるので、思わず茫然としてしまう。
後半に明かされるミステリとしての仕掛け(ある箇所まで読んだ時、必ず最初から読み返したくなる筈だ)、ラストまで読んでようやく腑に落ちるタイトルの意味——等々、道尾作品らしい要素は数々あるものの、人間の感情を描くことを重視してきた著者にとって、本書はかなりの実験作だった筈だ。登場人物の誰もが感情移入を拒むように造型されている中で、生まれついての本性に抵抗しようとする主人公の心理の揺れも描かれており、ラストには道尾作品らしい余韻が待ち受けている。感情を描く達人となった著者だからこそ、一度は挑んでおかなければならなかった境地なのかも知れない。
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