黒澤明監督の薫陶を受けた小泉堯史(脚本)、木村大作(監督)によって今秋、『散り椿』が映画化される。不正を訴え藩を追われた瓜生新兵衛が帰郷し、その真相と亡き妻の真意を探る『散り椿』は、弓の名手の伊也が、樋口清四郎への想いに揺れながらも藩の非道に挑む『さわらびの譜』、忠臣蔵外伝の『はだれ雪』と同じ扇野藩を舞台にしている。残念ながら葉室麟さんの急逝で扇野藩シリーズの最後の作品になったのが、『青嵐の坂』である。
城下を焼いた「お狐火事」と凶作が重なり、扇野藩の財政は破綻の危機にあった。中老の檜弥八郎は、領民を圧迫する「黒縄地獄」と呼ばれる改革を進めるが、筆頭家老ら守旧派は、弥八郎が呉服商から賄賂を受け取ったとして切腹に追い込む。弥八郎は、自分の後継者は「あの者であろうか」との言葉を残すと自刃した。弥八郎とは不仲だった息子の慶之助は、江戸で暮らす藩主の世子・仲家のお気に入りでもあったことから咎めはなく、十三歳の娘・那美は、藩命で親戚の中でも最も貧しい遠縁の矢吹主馬に預けられる。
それから数年。新藩主になった仲家と帰郷した慶之助は、藩札による財政再建を考えていた。この計画には、藩札の発行を請け負わせる大坂の豪商・升屋喜右衛門を騙して多額の資金を得る裏の顔もあった。しかも藩札がいずれ行き詰まることを知る慶之助は、主馬を責任を取って腹を切る身代わりに仕立てようとしていたのだ。一方、慶之助の追い落としを目論む筆頭家老たちは、改革の対抗馬に主馬を選ぶ。主馬には、慶之助と酷似した藩札による財政再建案を、弥八郎に一蹴された過去があった事実も分かってくる。
慶之助と主馬は、共に藩札の大量発行で領民を豊かにし、藩の財政も建て直す構想を持っているが、弥八郎が「後継者」と目していたのはどちらなのか? 弥八郎の死後も、その命に従って昔、藩内で起きた〈白骨おろし〉といわれる飢饉を調べる主馬がたどり着いた、弥八郎の真意とは何か? これらの謎に加え、新藩主の信頼を得る慶之助と筆頭家老一派に担がれるも面従腹背を貫く主馬が藩内の派閥抗争の図式を複雑にし、藩札を引き請けることで扇野藩への経済的な支配を強め、実質的な藩の乗っ取りを狙う升屋も暗躍を始めるので、最後までどこに着地するのか分からない展開が続く。
これだけでもスリリングなのに、父親に冷遇されたにも拘わらず、息子として父の仇を討とうとする慶之助の複雑な感情、お互いに魅かれ合っているのに命の危険もある立場を考慮して一線を引こうとする主馬と那美のせつない恋、升屋が敵情を探るために送り込んだ妖艶な女・力と慶之助の危険な恋なども物語を牽引する。それだけに本書は、政治・経済から人情までを鳥瞰的に捉えた葉室さんのエッセンスが凝縮された作品といえるのである。
藩札の大量発行で景気回復と財政健全化をはかる慶之助の策は、二〇一三年から日本銀行が導入した市場への資金供給量を劇的に増やす「異次元緩和」を彷彿させる。「異次元緩和」は、円安株高を促進し景気を押し上げたとされるが、その恩恵は国の隅々まで行き渡らず格差は今も残っている。葉室さんは、藩札には領民に負担を強いる副作用もあるとして細心の注意を払う主馬と、規制緩和を利用してさらに富を得ようとする升屋の戦いを通して、読者に現代日本の縮図を突き付けたのではないだろうか。タイトルにある「坂」は、拝金主義を続けるか、改めるかの分かれ目の象徴になっているように思えるだけに、主馬の「武家は利では動かぬ。義で動くものだ」の一言が重く心に響いてくる。
父への憎悪、主馬への敵愾心、出世への野望などに囚われていた慶之助だが、主馬や那美、力と心を通わせることで次第に変わっていく。功利主義や拝金主義は、人間の欲望や弱さを糧に成長する。その愚かさに気付いた慶之助が最後に取った行動は、人は勇気を持って過ちと向き合えば、新たな地平に立てることを教えてくれるのである。
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