『長く高い壁 The Great Wall』はミステリ小説や戦争小説に位置づけられる作品であろう。しかし、私にとってはそうした「ジャンル」の域を超えた「小説」である。
当然のことながら小説を完成させるのは容易ではない。あの戦争を題材にした小説となればいっそう容易ではない。視点が戦争中に固定されていればさらに容易ではない。はなはだ不遜ながら私も戦地を舞台にした小説を書くのでその点は承知している。言い方は悪いがあらゆる面で厄介なのである。差別語や歴史解釈に関わる問題の多さは他の時代とは比較にならない。戦争体験者同士が論争してきた事実を思うほどに筆が重くなる。私が「あの戦争」なる言葉を使うのもクレーム回避のためと見なしてもらって差し支えない。
この極めてむずかしい題材に浅田次郎氏は早くから挑んできた。その理由はインタビュー記事などに譲るとして、小説を書くひとりとしては氏のメンタルの強さにおののかざるを得ない。『長く高い壁』にいたっては執筆の苦労を想像するだに気が遠くなる。恐るべきことに昭和十三年の中国における日本軍を題材にしているのだった。
事変や戦争において法律や制度は頻繁に変わった。何がどう変わったのか具体的に把握するのは雲を掴むような作業である。法律等の変更が人間の行動を即座に変えるわけでもない。ようするに、昭和二十年からあの戦争を学ばざるを得ない戦後生まれが昭和十三年に生きる人間の視点で小説を書ききるのは至難である。現代人の多くが日本陸軍に連想する戦陣訓はまだ存在しない。兵長の階級も存在しない。こうした手のかかる舞台に十名の兵隊が殺害される事件が持ち込まれ、その真相を探る物語が紡ぎ上げられている。
複雑な時代の複雑な軍隊組織に複雑な人間関係が置かれているわけだが、この難条件で読者を引き込むにはむろん筆力を要する。
振り返れば、惨劇の起こった廠子の屋根は奈落の底にあった。
万里の長城へ向かう登場人物が見た光景である。ここで重要なのは光景そのものではない。視点人物の目にどう映ったかである。このふたつは似ているようでまったく異なる。「奈落の底」で読者は筋肉の強ばりを覚えつつ読み進めることになる。
こうした明快かつ効果的な表現がちりばめられると、複雑な時代における馴染じみ薄い舞台もありありと立ち上がる。小説ならではの臨場感に読者はページをめくり続ける。昭和十三年の中国を舞台にした意義のひとつがやがて見いだされもする。事実、浅田次郎氏は明らかにその点を意識している。
山稜を渡る長城に立てば、視界のすべてが俯角だった。この巨大な壁が七千キロも一万キロも続くのだと考えただけで、もしや日本は無謀な戦をしているのではないかと川津は思った。
あの戦争の結末を知らない現代人はいない。終わりの見えない戦いを終わらせようと昭和十三年の日本軍は次の都市を指向している。「無謀な戦をしているのではないか」と思う軍人が覚えた怖気は、読者により大きな怖気を覚えさせる。
いつ始まったのか。
あの戦争をめぐる論争は実にこんな根本的なところから始まる。新聞などは昭和六年の満州事変とする傾向があり、終戦までの十四年間をなぜか十五年戦争と呼び慣わす。一方、その手の出版物で必ず取り上げられる二・二六事件や国家総動員法の制定などは戦前として語られる傾向がある。言うまでもなく前者は昭和十一年、後者は昭和十三年である。
臨場感と自由な解釈が読者の心に何かを残す。それが小説の強みならば、やはり分類などは関係なかろう。昭和十三年の中国を舞台にした『長く高い壁』はまさに小説である。
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