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レビュー

線路に並べられた五つの死体は、すべて歯を抜かれ、顔を剥がされていた――『血の葬送曲』【文庫巻末解説】

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

線路に並べられた五つの死体は、すべて歯を抜かれ、顔を剥がされていた――『血の葬送曲』【文庫巻末解説】

解説
すぎ まつこい

 これは三つの恐怖との闘いを描いた物語だ。
 第一に、身体に迫る危害、暴力によって引き起こされる恐怖である。
 第二のそれは、存在の不安と言い換えてもいい。自分の暮らす社会が安全なものではなく、いつ足元に穴が開いてみ込まれてしまうかわからない。未来に希望が見えないものは、生きること自体を恐れることになるだろう。
 第三は壁である。その壁の向こうには荒涼とした光景が広がる。異常な論理が支配し、身に備わった倫理はことごとく否定される。ひずみ、ゆがみ、何もかもが理解を阻む。通常は接触することすら考えられない、人智を超えたものが物語の最後には姿を現すのだ。
血の葬送曲』、原題 City of Ghosts は2020年に発表されたベン・クリードのデビュー作である。
 恐怖と闘う主人公の名はレヴォル・ロッセルという。彼はレニングラード人民警察第十七署に属し、階級は警部補である。レニングラードは現在のサンクトペテルブルク、革命によって1917年に崩壊したロシア帝国の首都であった。十八世紀に建設されたこの都市が、レニングラードを名乗っていたのは1924年から1991年まで。その間、さまざまな歴史的事件の舞台となった。その中でも最も有名な、レニングラード包囲戦については後述する。
 小説内では、時計の針は1951年10月13日の土曜日から始まる。当時の国名はソヴィエト社会主義共和国連邦、ヨシフ・スターリンが同国第二代最高指導者の地位に在った。一口で言えば、恐怖の時代である。
 通報を受け、ロッセルたち第十七署の警察官は市街地から50キロも離れた郊外へと出動した。二本の線路が並行する荒野のただなかである。そこに、五人の死体が置かれていた。ただ放置されていたのではない。10月としては異例の大雪が降ったあとの、線路の上に整然とがいは並べられていた。五つのどれをとってもまともな死にざまではない。臓器をえぐり出されるなど、死体の損壊はひどく、何を意味するのか、のどぶえにガラスの管を突き立てられていた者もあった。顔の皮膚がぎ取られて、歯が抜かれているのは、犠牲者の素性をいんぺいするためか。
 うんざりしながら現場検証を行うロッセルたちは、五つ目の死体を見て凍りつく。頭部を覆う、赤いバンドと黒いひさしの付いた青い帽子は、国家保安省(MGB)のものだった。スターリンは「ソヴィエト連邦と人民の敵」を一人残らず排除する、大粛清を行う恐怖政治を行っていた。MGBは、そのそうというべき政治警察チエツカーなのだ。もし犠牲者の中にMGB職員が含まれるとしたら、捜査に圧力が加えられることは間違いない。
 目次をご覧いただければわかるが、本書の構成は歌劇になぞらえられており、第一幕はこのように不穏な始まり方をする。最初から雲行きは怪しいが、すぐに嵐が吹き荒れることになり、ロッセルたち第十七署の面々はほんろうされていくのである。『血の葬送曲』は進行するにつれて見え方が変わる小説であり、場面転換が行われるたびに舞台装置が換えられるように、物語の性質も推移していく。「第一幕 F」と題された第一章のそれは、一般的な警察捜査小説に近い。第十七署の面々にはそれぞれ愛称がつけられているという説明がある。軍隊の古参兵を思わせる巡査部長、定年まで秒読みに入った事なかれ主義の老警官、新人ながら熱心に捜査に参加したがる女性の巡査と、個性的な顔ぶれが揃っている。ロッセルの愛称はヴァイオリン弾きを意味するフィドラーだ。着任早々、人物調書から彼がレニングラード音楽院の卒業生であることが露見したからである。
 ロッセルには考え事をするときの癖がある。左手の親指を、薬指と小指にこつこつと打ち合わせるのだ。ただし、その二本の指先はもう存在しない。かつて、人民の敵として密告され、自白を強制する拷問を受けたとき、尋問者によって切り落とされたからである。それによって音楽家としての命脈は絶たれた。だからロッセルは人民警察に入ったのだ。
 印象的な場面がある。悪夢を見て寝台から跳ね起きたロッセルは、警察官となった今でも大切に持っているヴァイオリンを取り出し、かつてと同じように演奏の姿勢で構える。左手で楽器を、右手で弓を。「拷問者は右手の薬指と小指を折ったところで特別尋問を終えたので、しくも弓を握るのにちょうどよいあんばいに、どことなくかぎづめにも似た形に固まって」いるというのが残酷である。
ロッセルはそのままぴたりと固まり、静まり返った。いつものことだ──一音も弾けないのだから。
 それでも聴こえた。忘れはしない。
 読者はここで、主人公の中に今も音楽家の魂が眠っていることを悟る。三つ子の魂百までと言うとおり、習い性となったことを忘れるわけがないのだ。『血の葬送曲』は警察小説であると同時に、暗い過去を背負った主人公が、内奥に眠る本来の自分と向き合う物語でもあるのだ。物語の随所で音楽が聴こえてくる。それはロッセルのつらい記憶を呼び覚ますことになるのだが、同時に謎を解くための手がかりを教えてくれもする。主人公の設定や小道具がプロットと不可分に結びついていることに注目されたい。
 ロッセルたちの捜査は犠牲者の身元を調べるところから始まる。厳しい寒さのために何日経っても死体が凍り付いたままというのが地域の特質を表していて興味深い。無残な死に方をした犠牲者たちは何者だったのか、というのが最初に呈示される謎である。「亡霊たちの都市」という原題にはいくつかの意味が重ねられているのだが、最初のものがこれだろう。聞き込みが軌道に乗り始めるが、ほっとする暇もなく第一幕の終わりでは衝撃的な出来事が起き、一気に緊迫感が漂う展開となる。
 内容について明かしてもいいのはここまでである。中盤以降でロッセルがめることになる辛酸についてはそれぞれでご確認いただきたい。MGBについて書いたが、お察しのとおり、政治警察による干渉は大きく、第十七署の面々は危機にひんすることになる。そもそも、彼らが自分たち本来の管轄から五十キロも離れた場所で起きた事件を捜査することになったのも、その地の警察署員がほぼ全員人民の敵としてMGBに逮捕されてしまったからなのである。「麦畑を大鎌で刈るかのごとく」粛清の嵐が吹き荒れる中では、警察官といっても無事ではいられない。自身の安全さえ保証されない世界において、探偵は自らの任務を全うすることができるのか。そうした性格の、主人公が自己について言及する回数が多い物語に中盤以降の物語はへんぼうしていくだろう。これが警察小説としての『血の葬送曲』の第二の顔である。
 集団による警察捜査小説、内省的な主人公を配した自己言及性の高い犯罪小説、と変化してきて、中盤から終盤にかけてはいよいよ第三の顔が浮上してくる。冒頭に書いたように、本作の舞台はスターリンによる恐怖政治の末期にあたる1951年に設定されている。そして主人公がいる都市は、かつてレニングラード包囲戦という歴史上まれに見る悲惨な市街戦の舞台になった場所なのだ。1941年9月8日から1944年1月27日にかけて、レニングラードはナチス・ドイツによって封鎖された。都市の食糧は尽き、極限的な飢餓状況がしゆつたいした。口に入るものはすべて市民によって食われた。本の装丁に使われたのりなどもその対象となり、図書館キャンディと呼ばれたという逸話が本文中にも出てくる。人肉食も横行し、行方不明者が誰かの腹に収まるということが日常に起きた。
 小説の後半で名前の出てくる作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチは、包囲されたレニングラードの生き残りでもある。代表作である交響曲第七番は包囲戦の間に書かれ、ファシズムとの闘いと故郷の街に捧げられている。直接小説内に登場するわけではないが、ショスタコーヴィチが名声を得るに至った二十世紀前半のソヴィエト連邦音楽界が重要なピースとして物語に描き込まれることになるのである。史実を構成要素に含んだ歴史警察小説。それが『血の葬送曲』のもう一つの顔だ。「亡霊」とはレニングラード包囲戦で命をうしなった人々であり、そしてここではまだ書けない無数の犠牲者たちのことでもある。


血の葬送曲
著者 ベン クリード
訳 村山 美雪
定価: 1,100円(本体1,000円+税)


 ここまで概略を紹介してきたが、懐の深い作品であるだけに、まだまだ語り尽くせていない部分も多い。たとえば警察小説として見た場合、いわゆる相棒もの的な展開が後半に準備されている。その相手が意外すぎるので、読者は驚かされることになるのだ。演劇で言えば、前の幕でちらっと顔を出しただけの俳優を後半でもう一度登場させ、別の大事な役回りを担わせるようなやり方である。登場人物の出し入れを大胆に行う書き手なので、中には使い捨てが残念だなと思うような例もあるのだが、物語の意外性を常に担保しておきたいという意欲の表れ、と好意的に受け止めておきたい。先行作の研究も十分にしている形跡があり、伸びしろは十分にありそうだ。
 作者のベン・クリードは一人ではなく、クリス・リッカビーとバーニー・トンプソンの合作名である。リッカビーは広告代理店出身、トンプソンはサンクトペテルブルク音楽院で、伝説的な指揮者イリヤ・ムーシンに指導を受けて音楽家を目指していた時期があるという。これがデビュー作であるため二人についての情報は少ないが、ネット上にインタビューも掲載されているので関心ある方はご参考にされたい(https://www.writers-online.co.uk/how-to-write/how-to-co-write-a-thriller-with-ben-creed/)。それによると本作の出発点は2008年に発表されて話題となった警察小説、トム・ロブ・スミス『チャイルド44』(新潮文庫)と、とある有名映画の二つを掛け合わせたことだという。映画の題名を伏せるのは、勘のいい読者だとネタばらしになりかねないからである。
『チャイルド44』はやはりスターリン体制下のソ連を舞台にした警察小説で、主人公のレオ・デミドフは捜査を行うことで反逆者の汚名を着せられる危険を冒しながら、自らの正義を貫こうとする。イギリス冒険小説の源流であるアンソニー・ホープ『ゼンダ城の虜』(1894年。創元推理文庫ほか)は、イギリス人の快男児が独裁国家に乗り込んで活躍するという内容だった。そうした古典的な物語形式が「鉄のカーテンの向こう側」への潜入を伴う作品として冷戦期には英語圏で多数書かれたのである。1981年にアメリカのマーティン・クルーズ・スミスが発表した『ゴーリキー・パーク』(ハヤカワ文庫NV)もそうした「向こう側」への関心抜きには語れない作品で、当時の首都モスクワで発生した殺人事件をソ連人の捜査官アルカージ・レンコが解決するという内容になっている。
「向こう側」の対象をさらに広げれば、ナチス・ドイツ時代のベルリンを舞台にした私立探偵小説であるフィリップ・カー『偽りの街』(1989年。新潮文庫)なども同工と見ることができる。クリードの出身地であるイギリスは歴史ミステリーが盛んな国柄で、英国推理作家協会(CWA)にもそれ専門のヒストリカル・ダガーという文学賞があるのだが、2016年にはやはり「向こう側」を描いたデイヴィッド・ヤング『影の子』(ハヤカワ・ミステリ)という作品が受賞を果たしている。これはドイツが東西に分割されていた時代のベルリンを舞台にした警察小説だ。ドナルド・ジェイムズ『モスクワ、2015年』(扶桑社ミステリー)は1997年の作品だから、過去ではなく近未来を舞台にした作品だが、やはり異郷としてのモスクワを舞台に用いることが作品の中では大きな意味を持っている。
『血の葬送曲』は、こうした「向こう側」を描いた歴史ミステリーの最新版なのである。本作のおもしろい点は、警察小説であると同時に主人公が自らの過去と向き合うことで地獄巡りを余儀なくされるという一人称犯罪小説の要素も取り入れていることだ。今秋には A Traitor's Heart という続篇が刊行される予定になっている。本作から一年後の1952年に起きた事件が描かれるようだが、ロッセルという男の過去ももう少し明らかにされる可能性がある。おそらく作者は、スターリン体制下のソ連を舞台とすることにより、非人間的な暴力に対して闘いを挑む主人公を描こうとしている。ロッセルは果たして勝利をつかめるのか。それとも無情に敗れ去るのか。彼のために泣き、彼と共に笑いたい。
(書評家・ライター)

作品紹介



血の葬送曲
著者 ベン クリード
訳 村山 美雪
定価: 1,100円(本体1,000円+税)

線路に並べられた五つの死体は、すべて歯を抜かれ、顔を剥がされていた──
スターリン体制下のレニングラード。人民警察の警部補ロッセルは、捜査を進めるうちに、連続殺人犯の正体を突き止められるのは自分しかいないと気づく。元ヴァイオリニストの自分しか。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322002000189/
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