謎と人情が溢れる絶品時代小説。
『湯どうふ牡丹雪 長兵衛天眼帳』山本一力
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
『湯どうふ牡丹雪 長兵衛天眼帳』文庫巻末解説
解説
温水ゆかり(ライター)
日は沈み、日はまた昇る。お天道さまの理だが、これを人為的に行わなければならないのが人の世。親から子へ、師から弟子へ。その代替わりである。
商家であればいつ嫡男に家督を譲るべきか、当主はひそかにタイミングを計っている。職人なら弟子の技術が一人前になるまで、師はやきもきし続ける。中には子にさとされても「いや、まだだ」と全力で踏ん張る〝老害〟があるかもしれない。
「次世代育て」と「引き際模索」はコインの裏表。日本橋の老舗眼鏡店「村田屋」の当主にして筆頭職人でもある村田長兵衛が、天の理を見晴るかす江戸ミステリーの第二作である本書は、私にとってコインの裏表を情でつなぐ短編集だった。
順に(勝手な見出しを付けて)ご紹介していこう。
「蒼い月代」──まるで落語
安政三(一八五六)年、五月。白扇屋「吉野屋」のひとり娘おそめに一目惚れし、先月たんまりの持参金(八百両!)を持って婿入りした米問屋の三男岡三郎。しかし、おそめには心に決めた店の一番弟子がおり、一家で婿をコケにしようと企んでいた。
名は体を表す。主の四五六は店の再起が叶うカネほしさに、四の五のこねくり回して六でもない案をひねり出す。「床入りは半年後」。それでも岡三郎は純情一途だった。岡三郎に対する同情の声が広まる。
新蔵からこの件を相談された長兵衛は、ある状況の変化をめざとく見抜き、四五六から高価な鼈甲縁眼鏡を注文されていたこともあってちょっとした芝居を打つ。この話はまるで落語。小狡さの中にも愛嬌ある改心があり、大団円に着地する。
「よりより」──生意気盛りの瑞々しさ
クロニクルの要素もあるシリーズだが、この篇では年が飛んで安政四(一八五七)年の八月十五夜。偏屈な銀ギセル職人政三郎を主賓に月見の宴が開かれる。長兵衛は政三郎に相談事があった。二年間の長崎遊学を終えて戻って来た惣領息子・敬次郎の修業先である。敬次郎の長崎かぶれは目に余るものがあった。一流の職人のもとで技だけでなく、その技を生みだす秀でた人となりも学ばせねば。
若さゆえの生意気盛りの一方で、敬次郎が長崎で年上の女性に抱いた淡い慕情、六分儀を使った帰路の航海術、戻った江戸で、長崎の女性の姪だと言う「あきな」との偶然の出会いなど、進取の精神や異性へのときめきなどが描かれる。未来の当主の新緑のような青春の燦めきが瑞々しい。
「秘伝」──守るべきもの
安政三(一八五六)年十月。この篇は交互に進む二つの話を通して、「引き際」と「代替わり」の瞬間をドラマチックに描く。
冬に向かって精をつけるためにうなぎを食べる玄猪の日。漁場からいつもの倍のうなぎを引き揚げようとした「初傳」の傳助はバランスを崩して猪牙舟から転落する。翌朝の漁場で、傳助は息子の太一郎に短く告げる。「今朝から仕掛け揚げは、おまえがやれ。猪牙舟はおれが操る」。三年前から傳助はこの日に向けて準備してきた。うなぎの裂き方、秘伝のタレ。仕掛け揚げを任せたことが総仕上げだった。
この天晴れな引き際の話と交互に、薬種問屋「柏屋」の八代目光右衛門の、往生際の悪いコミカルな話が進む。光右衛門は六十一歳。何度かの立ちくらみニモメゲズ、好物のシシ鍋でたるんだ腹ニモメゲズ、意気軒昂。光右衛門には野望があった。二代目が調合した乙丸、丙丸、丁丸。調合法は一子相伝の秘伝だ。が、なぜ甲から始めなかったのか。甲丸は「睾丸」に通ず。江戸のバイアグラができるまで取り置きされていた。光右衛門は大金をつぎ込み、この創薬に猪突する。
長兵衛は新規顧客の傳助の潔さに感服し、馴染みの顧客光右衛門には薬の本義に立ち戻れときつめにたしなめる。巧みな構成に惚れ惚れ。キレよく読ませる快作である。
「上は来ず」──粋の階段
安政三(一八五六)年十一月。「火の用心」の音を聞き、長兵衛は室町暖簾組合のご意見番・吉右衛門に同行し、万年橋の鳶宿・豊島亭の安次郎を訪ねて冬場の夜回りを依頼した十年前を回想する。長兵衛は安次郎が漂わせていた風格に感服する。
長兵衛には六年前から芸に惚れ込んだ浜町の芸者がいた。その純弥が文をもった使いをよこす。昨年の大地震で客は激減し、芸者の廃業や酌婦への転身が続いている。仲間のためにも手頃な金額で遊べるお茶屋を開こうと思う。ついてはお力添えを、と。
長兵衛は筆頭として六十両と記した奉加帳を回し、翌年純弥のお茶屋「権兵衛」では内祝いの宴が催されるが──。この篇はもうこれ以上書けない。野暮になるから。ヒントは純弥のお茶屋の名前。このある種のどんでん返し、お楽しみあれ。
「湯どうふ牡丹雪」──豆腐が見た夢
安政三(一八五六)年、十二月。四十肩のひどい新蔵に強く誘われ、眼精疲労の溜まった長兵衛も王子村の旅籠「鷹ノ湯」にやってくる。二日目、夕食は村自慢の絶品湯豆腐。食後に按摩を受けつつ、新蔵は自分達の素姓につながる室町という地名や村田屋という屋号を口にしてしまう。その夜更け、二人はあらぬ疑いで豆腐屋の豆助を連れた村の自身番に寝込みを襲われ……。
豆助が語った村田屋製天眼鏡が絡む話は詐欺だったのか。死罪と死罪未満の境目を示す隠語「どうしてくりょう(九両)さんぶ(三分)にしゅ(二朱)」が興味深い。
自分の豆腐が江戸の名料理店「八百善」で供されることを夢見た豆助、いっときでも夫が夢見られたことを喜ぶ女房、謎の男が住んでいた長屋の差配、そして謎の男自身の顚末。どの心根にも打たれる。前の篇とあわせれば、希望を持って歩き出そうとした次世代達の起業物語かもしれない。明暗の対比が切ないけれど。
「突き止め」──新春宝くじ
年明けて安政四(一八五七)年一月、粉雪降る寒い朝。娘が「噓つき!」と母をなじる言葉で始まる。夫や息子と一夜干し屋を営む「えみ」は火事を恐れ、母おてるにも部屋の土間に裸火の七輪を持ち込まぬよう約束させていた。その舌の根も乾かぬうちに母は約束を破る。えみが母を追い詰める口調がきつい。おてるはうそぶく。「こんな家、あたしのほうから出ていくさ」。
とことん母を邪険にできない娘夫婦は結局むこう十年、医者代や飯代込みの四十両でおてるを向島の預かり所に預けることにする。辻駕籠を奮発して送っていくその日。日本橋室町の村田屋眼鏡店の前で、おてるがまた我が儘を言い出す。鏡開きで振る舞われる汁粉を日本橋の名残りに食べていく、ついでに富くじも買っておくれと。
「突き止め」とは当籤番号のこと。一等の当たり籤である。はてさて、おてるの富くじは? この篇は「禍福は糾える縄のごとし」の究極版。顚末は次篇で完結する。
「おてるの灯明台」──古くもあり新しくもあり
安政四(一八五八)年一月十九日。富くじの当籤金が手渡される日。当籤者は十五人、十四人が並んだ。当籤金は、札の真贋を確かめた上で手渡される。しかし当籤金二千両の突き止め札を持った者が現れない。
ここからの展開は地回り捜査。新蔵親分の雇い主で、シリーズ第一作でも重要な役割を演じた南町奉行所定町廻の同心・宮本宜明も登場する。その大岡裁きがこの篇の読み所だ。溺愛、嫁姑、カネの切れ目が縁の切れ目。この話は江戸に限らないと、さまざまな感慨が湧いてくる。
それぞれ味わいの違う計七篇を堪能する。が、やはり最後にどうしても書いておきたいことがある。この短篇集が、安政二(一八五五)年十月二日(新暦十一月十一日)に江戸を襲った直下型、いわゆる「安政の大地震」の記録文学の側面も持っていることだ。
「蒼い月代」で白扇屋がカネに苦慮しているのも地震の余波で商売が細ったからで、「よりより」では、大坂で大地震の報を受けて敬次郎の取った行動が、この青年の聡明さとして描かれる。「上は来ず」で庶民的なお茶屋に改修されたのは大地震にも負けなかった築七十年近い二階家。「突き止め」で一夜干し屋を営む夫婦が火の始末に神経を尖らせて暮らしているのも、火事の地獄が身にしみているからに違いない。
「湯どうふ牡丹雪」では、さらに記述が詳しい。新蔵が預かる小網町は大川の西側。新蔵は久しぶりに東側に出張って目をしばたたかせる。町の景観がまったく違って見えたからだ。表通りの商家の普請が進まないこともあって、裏店の長屋は妙に日当たりがいい。地震発生当日の出来事がこの表題作のヘソにもなっている。
紙と木がいかにコンクリートに替わろうとも、日本は自然災害と暮らしていかねばならない国。滑らかな筋運びの下にしっかりそれが刻印されていることは、著者の山本一力氏からのメッセージとして忘れてはならないと思う。
安政三年は幕末である。黒船来航から三年、大地震から一年。江戸城無血開城まであと十二年。その一八六八年が明治元年である。国家や国民という「大きな統合の物語」に向かって時代が歩を早めていた時期に、「小さな暮らしの物語」を懸命に紡いでいた人々。山本氏はなぜこの幕末を物語の時代背景に選んだのだろう。
極度の乱視で眼鏡が手放せず、眼鏡の歴史をちょっと調べたことがある私は、明治期の眼鏡職人のリストに村田長兵衛の名を発見して驚いたことがある。氏の書く村田長兵衛と同じ人なのだろうか!? 今後ますますシリーズから目が離せないのである。
作品紹介・あらすじ
湯どうふ牡丹雪 長兵衛天眼帳
著 者:山本一力
発売日:2024年01月23日
人情深い眼差しで、すべてを見通す!? 江戸人情ミステリ待望の第2弾
〈村田屋〉は、江戸で一番と名高い眼鏡屋。あるじの長兵衛の知恵は、困り事を抱える人から頼りにされている。懇意の十手持ちの新蔵に誘われ、長兵衛は王子村の旅籠を訪れた。夕餉の湯豆腐の美味しさに感激し、夢見心地でくつろいでいたところ、突如自身番に引き立てられてしまう。二人には、とある嫌疑がかけられているというが……。すぐれた頭脳と家宝の天眼鏡であらゆる事件を解決する。謎と人情が溢れる絶品時代小説。
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