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レビュー

幕末の江戸を舞台に、市井の人々の機微を描ききった渾身の歴史時代小説!――『夕映え 新装版』宇江佐真理 文庫巻末解説【解説:清原康正】

幕末の世、市井に生きる人情と人生を描いた長編時代小説が新装版にて登場!
『夕映え 新装版』宇江佐真理

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

夕映え 新装版』著者:宇江佐真理



『夕映え 新装版』文庫巻末解説

解説
清原康正(文芸評論家)

 疾風とうと表現される激動の幕末期に、さまざまな武装集団が佐幕派と倒幕派の両陣営で組織された。本書『夕映え』は、佐幕派の彰義隊の一員となった息子を持つ両親の視点から、明治期にかけての時代潮流、江戸の市井に生きる人々の心の機微を描き出した長編。歴史の矛盾と非情とを見出すことができる彰義隊そのものや隊士たちの運命を描いた作品は数多くあるが、彰義隊に関わった若者たちの運命をその家族の側から見つめた作品は珍しい。
 物語は、慶応三年(一八六七)二月から始まる。舞台は、江戸・本所石原町にある「福助」というなわ暖簾のれんの小さな居酒屋。今年三十八になる女将おかみのおあきは、蝦夷松前藩の武士だった岡っ引きの亭主・弘蔵、十七になる息子・良助と十六の娘・おてい、そして常連客たちに囲まれて、つつましいが幸せな暮らしを送っていた。
 おあきと弘蔵が結ばれたいきさつにも触れられているのだが、そうした男女のかいこうと結びつきの微妙な機微に関しては、おあきの二人の子供たちの場合にもあてはまるものがある。親子二代にわたる男女の愛情模様の展開も、本書の読み所の一つとなっている。
 そんな夫婦の悩みの種といえば、良助が十三歳で商家へ奉公に出て以来、転々と商売を変えて一年と続いたためしがなく落ち着かないことだった。
 長州、さつを中心として起きたそんのうじよう運動は倒幕運動へと形を変えつつあった。大工の浜次、亀の湯の主人・磯兵衛、青物屋の政五郎など「福助」にやって来る飲み客たちの世間話や噂話で、世の中の移り変わりが描写されていく。
 諸物価が高騰し、江戸の庶民は暮らし難い世の中をぼやく。火事は江戸市中のどこかで毎日のように起きており、治安も悪化していた。庶民の目にも、幕府の権力の失墜は明らかだったが、おおかたの庶民は二百六十余年も続いている徳川幕府がよもや倒れるとは、つゆ思いもしていなかった。
 おあきもめまぐるしく変わる世の中の流れを横目に見ながら、「何があっても自分はこうして毎日毎日、商売の仕込みをして、時分になれば暖簾を出して見世を開けるだろう。子供のため、亭主のために飯の支度をし、洗濯や掃除をするだろう。その他に自分ができることはない。世の中の流れに身を置くしかないのだ」と変わらず見世を続けていた。しかし、そんなおあきの目からも世の中が大きく変化していることは感じられた。「結局、世の中が変わると、まともにその波を被るのがあたし等ですものね」というおあきのセリフが、物語の展開を暗示している。こうしたさり気ないセリフが随所に見受けられ、周到な計算ぶりがうかがえる。
 おあきは「落ち着いたいい世の中にしてほしいと誰に訴えたらよいのだろう」「明日あした何が起きるかわからない世の中なんてまっぴら」とも思う。町家で暮らす庶民の切ない願いを、宇江佐真理は生活感覚を軸に映し出していく。日々の生活と家族のことを何よりも先に考えるおあきの心情が細やかに描き出されていく。このおあきの心情は、二十世紀末からのこんとんと不安を抱えて生きている現代社会にも通じる普遍的なものであろう。
 慶応四年(一八六八)正月三日、鳥羽伏見の戦いが起こったとき、江戸の庶民たちは例年通りに雑煮を祝い、二日の初夢のための宝船を買うなど、のんびりと正月気分に浸っていた。はるかに離れたきようらくの地で戦闘が起こったことは、江戸にはまだ伝わっていなかった。将軍お抱えの蘭方医・桂川甫周の娘・みねは当時の江戸の状況を「江戸は泰平に酔っていました」と回想している。また、明治期の小説家で鉄砲同心の家に生まれ育った塚原渋柿園も、慶応四年の江戸ののんびりした正月気分を書き残している。おあきの家でも、こたつの上におあき手作りのおせち料理が重箱に入れられて並んでいた。本書で描かれているおあき一家の正月のありようからも、江戸庶民たちが置かれていた状況がよく理解できるものとなっている。
 この鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が大敗を喫したことで、官軍を称した東征軍が東への進軍を続け、江戸城総攻撃をめざす。薩摩藩邸での勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城総攻撃中止と無血開城が決まったものの、江戸市中に進軍してきた東征軍に抵抗したのが上野こうずけの山にもった彰義隊であった。
 その彰義隊に腰が定まらなかった良助が志願したことで、おあき一家は時代の潮流に否応なしに巻き込まれていく。「まともにその波を被る」というおあきのセリフがここで効いてくることとなるのだ。上野戦争の敗走を経て、えのもと軍の軍艦で蝦夷えぞ地での戦いに参加した良助の身を案じるおあきの不安は消えることなく続いていく。良助が彰義隊に入ったころ、おあきに「子供はいつまで経っても心配なものですよ」と言わせているのだが、子を思う親心は変わることがなく、読む者の胸に迫るものがある。
 箱館りようかくの戦いのあと、弘蔵はおあきを伴って松前へ帰郷する。おあきと弘蔵が見る松前の海岸の夕映えの描写が秀逸だ。茜色に染まる夕映えを見ながら、「これから、この国はどうなるの」「いい時代になるのかしら」と聞くおあきに、弘蔵は「いつの時代も生きて行くのは切ねェものよ」と言う。こうしたセリフからも、ぎりぎりのところで生きている庶民に寄り添う宇江佐真理の目線が感じられる。
 明治四年(一八七一)に明治政府が新設した邏卒(後に巡査と改称)に採用された弘蔵は、身体の具合を悪くしたことで退職して見世を手伝うようになり、「福助」の客たちと変わり行く世相に一喜一憂しながら酒を酌み交わす。「かくして、江戸時代は、少しずつ遠退いて行く」という一文で、幕末期から明治初期の激動の時代を生きた弘蔵・おあき夫婦の物語は閉じられている。
 こうした時代状況が弘蔵・おあき夫婦や常連客たちの暮らしのありようをからめつつ描き出されていき、歴史年表をたどるだけでは得られない庶民の生の息づかいと感覚が浮かび上がってくる。おあきが客たちに供する酒のさかなに季節の変化を感じ取る楽しみもある。こうした生活感覚の細やかな描写にも、宇江佐真理の真骨頂が表れている。
 そして、もっと重要なことは、子を思い、案じる親の心情と悲しみの深さを、宇江佐真理は自らの母親としての情を傾けて描き切っていることである。息子を案じるおあきだけでなく、宇江佐真理は「福助」を手伝う老婆おすさに「そんな親の気持ちが手前ェ達にはわからないのか。手前ェ達にも親はいるだろう」とたんを切らせている。彰義隊の残党狩りに見世に踏み込んで来た官軍兵士たちに対する裂帛の啖呵である。これは戦いがなくならない限り、これからも続いて起こり得る母親の悲しみと嘆きでもある。
 最後に触れておきたいのは、宇江佐真理の『憂き世店 松前藩士物語』『蝦夷拾遺 たば風』など松前もの作品である。『憂き世店 松前藩士物語』は、松前藩の天領化により移封・降格でリストラの憂き目を見た元松前藩士が妻子とともに江戸の裏店(長屋)で健気に生き抜くさまが描かれている。作品集『蝦夷拾遺 たば風』には、本書でも描かれている松前藩主の後継問題をめぐる内紛や榎本武揚らの旧幕府軍と松前藩との戦いを背景とする短編も収録されている。こうした松前もの、蝦夷ものは、北海道・函館に生まれ育ち、この地以外には住んだことがないという宇江佐真理の独自の鉱脈ともいえるものであり、本書ではそれを取り込む形で江戸市井もののジャンルの幅を拡張したといっても過言ではないことを付け加えておきたい。

 以上は平成二十六年(二〇一四)三月刊行の角川文庫に付した解説稿である。だが、この翌年の平成二十七年(二〇一五)十一月七日に、宇江佐真理は乳癌で函館市内の病院で亡くなった。六十六歳であった。
 平成七年(一九九五)に「幻の声」でオール読物新人賞を受賞してデビューし、平成十二年(二〇〇〇)に『深川恋物語』で吉川英治文学新人賞を、平成十三年(二〇〇一)に『余寒の雪』で中山義秀文学賞を受賞した。直木賞には平成九年(一九九七)の第百十七回から平成十五年(二〇〇三)の第百二十九回まで計六回ノミネートされた。解説文の最後に記した「江戸市井もののジャンルの幅を拡張」を期待するところ大であっただけに、その逝去が惜しまれてならない。

※本解説は、二〇一四年三月に小社より刊行した文庫『夕映え』に収録された解説をもとに加筆したものです。

作品紹介・あらすじ



夕映え 新装版
著 者: 宇江佐真理
発売日:2023年11月24日

幕末の江戸を舞台に、市井の人々の機微を描ききった渾身の歴史時代小説!
江戸の本所で「福助」という縄暖簾の見世を営む女将のおあきと弘蔵夫婦。心配の種は、武士に憧れ、職の落ち着かない息子、良助のことだった…。ついに、良助は上野の彰義隊の一員として上野の戦に加わるという。無事を祈るおあきたちだったが……。幕末の世、市井に生きる人情と人生を描いた長編時代小説が新装版にて登場!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322307000513/
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