角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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松岡圭祐『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 III クローズド・サークル』
松岡圭祐『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 III クローズド・サークル』文庫巻末解説
解説
末國 善己(文芸評論家)
本とミステリーは相性がよい。登場人物や探偵が本好き、書店、古書店、出版社が舞台、高価な
海外も同じで、アガサ・クリスティー『運命の裏木戸』、エラリー・クイーン『レーン最後の事件』、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』、ジョン・ダニング『死の蔵書』、ピーター・ラヴゼイ『猟犬クラブ』など文芸ミステリは枚挙に暇がない。
同じトリックを使うことができないミステリは、作家たちが先行する作品を越える仕掛けやアイディアを生み出すことで発展してきた。そのためには膨大な作品を読み込み、仕掛けを分析する必要がある。必然的にマニアでなければミステリ作家になるのが難しいため、文芸ミステリが連綿と書き継がれているのかもしれない。
ミステリの人気シリーズを幾つも手掛ける松岡圭祐が、激戦区の文芸ミステリに参入したのが、二〇二一年十月に刊行された『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論』である。著者は既にコナン・ドイル〈シャーロック・ホームズ〉シリーズにオマージュを
探偵役の
李奈が講談社の雑誌「小説現代」で対談した大学講師で初の小説『黎明に至りし暁暗』が
シリーズ第二弾『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅱ』は、コピーライターから作家に転身するやベストセラーを連発するも、SNSでの政治問題への言及や差別的な発言で何度も炎上騒ぎを起こしている
〈écriture〉シリーズを読んで驚かされたのは、KADOKAWA、講談社、集英社、新潮社、文藝春秋、小学館などの出版社が実名で登場し、作家と編集者の打ち合わせ、文学賞の受賞パーティーや日本推理作家協会の懇親会などが徹底したディテールで活写されていることである。売れっ子作家と売れない作家で露骨に変わる編集者の態度、大手出版社と中小出版社と編集プロダクションの歴然とした力関係など出版界の裏側を露悪的なまでに掘り下げたところは特に生々しく感じられた。
李奈はカクヨム出身のラノベ作家だから自分は業界でのヒエラルキーが低いと考えているが、新人賞を受賞した作家と編集者が発掘した作家、持ち込み原稿が切っ掛けでデビューした作家では待遇の違いを感じることはなくもない。純文学が上でエンターテインメントが下だった一九七〇年代頃まで、ハードカバーを出す作家が上で文庫書き下ろしの作家が下だった一九九〇年代末頃までと、いつの時代も作家のヒエラルキーは存在している。ただ二十一世紀に入って
著者の手腕が卓越しているのは、読書が好きなら思わず引き込まれる業界の内幕を、事件解決にも利用する
ただ作中の出版界の描写には、意図的に改変されたところも少なくない。読者の興を削ぐことになるので詳細な説明は避けるが、第一弾の冒頭で李奈が参加する江戸川乱歩賞の贈呈式の会場は、講談社ではなく別のホテルである(著者は乱歩賞を主催する日本推理作家協会の会員なので、間違うはずがない)。似顔絵は写実的に描くよりもデフォルメした方が対象を的確に
シリーズ第三弾の本書『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅲ クローズド・サークル』は、サブタイトルの「クローズド・サークル」そのままに、孤島に集められた李奈ら九人の作家が、殺人犯と
乱歩賞に応募することになった李奈は、講談社の編集者・
さらにいえば、櫻木沙友理が出版のトレンドを塗り替えたように、一つのヒット作が生まれると多くの出版社が似た傾向の作品を求める状況は、現実の出版界でも起きている。料理もの、
櫻木沙友理は、平凡な家族の生活が核攻撃で一変する『最期のとき』、女子中学生ふたりがそれぞれに恋人を作る青春小説が、不良グループに暴行される悲劇で終わる『葵とひかるの物語』でセンセーションを巻き起こしていた。李奈は、前半と後半で転調があるがどちらも事実から目を逸らさず描写していく櫻木沙友理の才能を認めつつも、自分には同じタイプの作品は書けないと考えていた。『最期のとき』の前半は長崎に原爆が投下される前日のある家族の日常を追った
櫻木沙友理を発掘し敏腕編集者として脚光を浴びた
そんな中、爽籟社が第二の櫻木沙友理を発掘する新人募集を始めた。それは榎嶋が応募作を読み、応募者と面接して審査する異例の新人募集だった。合格を勝ち取った李奈と友人でやはり売れない新人作家の
本書は業界暴露話も読みどころだった前二作とは作風が一変、李奈による名作文学の引用も極限まで減らされ、力と知恵を総動員しての殺人犯との戦いや、極限状態における作家同士の
著者はアガサ・クリスティーの代表作『そして誰もいなくなった』風に始めた物語を、クリスティーの別の代表作を想起させるトリックに
李奈の推理は、クリスティー論としても、探偵の謎解きは絶対に間違っていないのか、探偵に犯人を裁く権利があるのか、探偵の介入で事態が悪化したら責任が取れるのかといった現代ミステリにおける重要なテーマを論じたミステリ論としても秀逸である(夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』は作中のミステリ論と深く結びついていて、この二作を読んでいる方は著者が冒頭に書名を出した理由がよく分かるはずだ)。北村薫の小説『ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件』が、第六回本格ミステリ大賞の評論・研究部門を受賞したように、優れたミステリは優れたミステリ論にもなっているが、本書もその一つなのである。
第一弾で盗作問題、第二弾でモデル問題というアウトとセーフの境界が微妙なだけに作家も出版社も扱いが難しいテーマを取り上げた著者が、本書で
「écriture」は「書くこと」を意味するフランス語で、文字と読者を仲介するメディアという批評用語でもある。探偵役として孤島での難事件に直面した李奈が、自分はなぜ小説を書くのか、読者に何を伝えるべきかに向き合う本書は、タイトルとリンクしているところも含め、シリーズのポイントになるといっても過言ではあるまい。
李奈の苦悩は作家の特殊事情に思えるかもしれないが、櫻木沙友理は太刀打ちできないほど実力差があるライバル、編集者のアドバイスは上司からのダメ出し、書きたい小説を書くか売れ線を狙うかは、好きな仕事を選ぶのか仕事は金を稼ぐ手段と割り切って嫌いな仕事でもするのか、売れるまで作家を続けるのか生活を安定させるため別の道に進むのかは、今の会社にいるか転職するかに重なる。その意味で本書は普遍的なお仕事小説になっており、働いている人は李奈たち売れない作家への共感も大きいだろう。
汐先島の事件で自分が書かなければならない小説を再確認した李奈は、一回り大きくなった。成長を続ける李奈が、これからどんな事件に挑み、どんな作家になっていくのか、続刊を楽しみに待ちたい。
作品紹介・あらすじ
ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 III クローズド・サークル
著者 松岡 圭祐
定価: 836円(本体760円+税)
発売日:2022年02月22日
無人島に9人の小説家――
彗星のごとく出現した作家、櫻木沙友理。刊行された小説2作は、いずれも100万部を突破、日本じゅうがブームに沸いた。彼女を発掘した出版社が新人作家の募集を始めることを知ったラノベ作家の杉浦李奈は、親しい同業者の那覇優佳とともに選考に参加。晴れて合格となった2人は、祝賀会を兼ねた説明会のために瀬戸内海にある離島に招かれるが……。そこはかの有名な海外推理小説の舞台のような、“絶海の孤島”だった。
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