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【解説】これまで誰も描き得なかった最後の名勝負が見えてくる――『さらば武蔵』稲葉稔【文庫巻末解説:秋山香乃】

稲葉 稔『さらば武蔵』(角川文庫)の巻末に収録された「解説」を特別公開!



稲葉 稔『さらば武蔵』文庫巻末解説

解説
あきやま (作家)  

 みやもと武蔵むさしといえば、四白眼の持ち主です。四白眼の人は珍しく、頭脳めいせきで傑出した才を持つものの、それだけに孤高を持する人が多いのだとか。まさに一般的な武蔵のイメージそのものです。
 六十余度の生死を懸けたけんげきにおいて、一度も負けたことがないというな剣豪が武蔵です。それだけに、剣に生き、道を究めるためにはどんな犠牲もいとわない、偏ったところのある鬼才。こういう印象が強く、これまでも多くの作家によってそんなふうにとらえられがちでした。
 ところが、本作で描かれた武蔵は、一味も二味も違います。
 武蔵は五十歳のとき、「兵法至極を得た」と信じ、『えんみよう三十五ヶ条』を記しました。最初の命のやり取りが十三歳のときですから、四十年弱の長きにわたり「血を見」続けて、到達した境地があったのでしょう。いったんは道を究めたと思ったようです。
 いな氏は、これに異を唱えたのです。
 物語は、この四年後。かんえい十五年、武蔵五十四歳のときから始まります。老境に差し掛かった剣聖が、しまばらの乱に参戦し、生き方を揺るがす衝撃的な光景を目の当たりにします。そして、初めて「負けたのではないか」と思うのです。
 武蔵の人生のクライマックスは、もっと前にあったと考える人が多いのではないでしょうか。吉岡一門との戦いやがんりゆうじまの決闘のような、歴史に残る名勝負は晩年の武蔵にはありません。このため、平凡な私などは、武蔵の老後は余生くらいにしか捉えていなかったのですから、目からうろこの書き出しです。
 しかし稲葉氏は、これ以降の死ぬまでの七年間にこそ、この男の人生の山場を見出し、連戦連勝の男が「負けた」と感じることによって、武蔵の新たなステージをスタートさせるのです。
 もちろん、物理的に負けたわけではありません。しかし、「喜んで殺され死んでいく」弱者であるはずの「百姓や女子供たち」の「心」に、敗北感を覚えます。
 それまでの武蔵は「稚拙」でした。なぜなら、武蔵が「至極を得た」のは「あくまでも剣の道における術理論」──形にすぎなかったからです。武蔵は、『円明三十五ヶ条』に足りなかったものを、島原の乱で「微笑さえ浮か」べて死んでいった弱者の中に見たのです。
 このときから武蔵は「心」というものを強く意識し始めます。そして、「おのれの生き方をあらためて考えるときが来たのではないか」と思うようになります。
「心」はこの物語のキーワードの一つです。最初に読むときは、エンターテインメントとしてのストーリーを楽しんでいただきたいのですが、ぜひとも再読して、二度目には「心」という文字が出てきた前後をじっくりと読み込んでみてください。武蔵が命を削って挑んだ、これまで誰も描き得なかった最後の名勝負が見えてくるはずです。
 挑んだものは人ではありません。それはやはり、「心」なのです。
 本書は武蔵が「後生に残るひつせいの書」である『五輪書』を生み出す物語です。『五輪書』は今なお日本で愛読者が多いだけでなく、世界中で読まれています。
 それはしくも作家の抱く最大級の夢でもあります。自分の著書が後世に残り、世界中の人々から読まれたら、これほどの幸せはありません。しかしまた、それがどれほど至難の業か、作家であればだれでも知っています。どれほど人気を博した著作でも、時の流れと共に消えていきます。それでも残るのは、ノーベル文学賞をとるより難しいのではないでしょうか。
 武蔵の『五輪書』は、今でもむさぼるように読む人がいます。なぜなら、どんな時代でも、どこの国の人にも、そしてどんな職業の人にも通じる普遍の教えが、武蔵「自身の言葉をもって」記されているからです。人はそこに前途への希望を見出すのです。
 稲葉氏はこの普遍とは如何いかんという問いに、真正面からまさに全身全霊、主人公の武蔵にひようする勢いで挑んだのだと思います。文章からおうのうと情熱が立ち上がってくるようです。
 物語の中で、武蔵も懊悩します。そして、しゆうえんの地となった熊本で「心の友」と「まことによき方」を得ます。一人は藩主で、一人はそうりよです。そこで各々との禅問答のような会話が繰り広げられます。それはまさに真剣勝負さながら。武蔵は「これまで生きてきた道のなかで学び、教わり、会得したすべてのことを」かけて、答え、問うのです。
 この問答が武蔵の懊悩を助け、また、さらに新たな懊悩を生みます。そうして武蔵の中に眠る考えが輪郭を持ち、この世の万物に通じる普遍性が「おのれで知るもの」となるのです。
 つまり、武蔵の最後の戦いは孤高なだけでは成し得ず、人との温かな縁の中、「鬼のような執念の作業」を行うことで実を結ぶのです。
 稲葉氏が探り出した、この晩年の知られざる新たな武蔵像でなければ結実しない、この男の真の偉業を見せられたとき、読者は大きな感動に胸を熱くすることでしょう。
 本書には、稲葉氏「自身の言葉をもって」次のように書かれています。
「人は百人百様。先達の教えがいかに正しかろうが、間違っていようが、そこに新しき工夫が必要になるのではないか」
 これもまた、すべてのことに通じる教えではないでしょうか。稲葉氏も本書に、武蔵の『五輪書』同様、普遍を打ち出しているのです。敬愛する作家の教えとして、私は自分の小説を生み出すときは、これからは「新しき工夫」を座右の銘として襟を正すつもりです。
 ところで、本書には私の大好きなきよという女中が出てきます。この清と「あわれみ深い」武蔵とのやりとりは、胸がじんとなります。何度も二人の会話に涙がにじみ、心がいやされました。とても重要なキャラで、「先生も弱い心をお持ちなのだ」と気付く清の目からでなければ描けぬ武蔵像が、物語に温かくも深い色を添えています。
 武蔵は清に語ります。
「人は後悔しながら生きるものだ」
 武蔵が言うからこそ深い意味を持つ、作中の大好きな言葉です。後悔してもよいのだと、何か救われた気がするのです。
 清との場面はどれも良いのですが、ことにラスト三行を読んだ後は、感動でしばらく本を閉じることができませんでした。
 読み終えるころには、稲葉氏の故郷でもある、本書で描かれた素朴で美しい熊本が好きになります。武蔵の命日に文庫を携え、ひとり熊本を歩いてみるつもりです。

作品紹介



書 名: さらば武蔵
著 者: 稲葉 稔
発売日:2024年09月24日

宮本武蔵を描いた決定版!
「この一冊に一気に引き込まれ時を忘れた・・・まさに渾身作」
俳優・武道家 藤岡弘、

泰平の世を迎えた江戸初期――戦国の動乱を生き抜いた宮本武蔵も老境に達していた。将軍家剣術指南役の柳生宗矩に嫉妬し、生半可な仕官の道を選ばなかった武蔵も、島原の乱で負傷したことで老いを自覚し終の棲家を求める。やがて熊本藩主・細川忠利に迎えられた武蔵は、自らが究めてきた兵法の極意を伝えるべく、岩戸霊巌洞に籠もり『五輪書』の執筆を始めた。最後に到った境地とは? 知られざる宮本武蔵像を描いた決定版!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322403000784/
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