文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『天翔ける』文庫巻末解説
解説
朝井まかて
淡々とした筆致で、〝歴史の証言〟を積み重ねた小説だ。
主人公は
ではなぜ、
まず、幕末から明治にかけての歴史を
ここで松平春嶽の出自を
当然のこと
そして春嶽は越前家の養嗣となり、越前十六代藩主となった。
骨の髄まで徳川の家門大名である。だが先見の明に富んだ春嶽は諸大名に先駆けて「開国」を唱え、と同時に「
ところが時の
日本は神と仏の両方を受け
春嶽は安政三年の時点で開国論を鮮明にしたが、先述の孝明天皇や朝廷と敵対したわけではない。徳川家や幕府を守るのに
大政奉還が成り、「王政復古」の大号令が発せられた。その後、有名な小御所会議が開かれた本作の場面は非常に印象深い。
いま、徳川が大政を奉還したのは、挙国一致で国難に対処するためである。旧 怨 を捨て〈公〉につかねばならない。徳川はそうしたのだ。薩摩もそうすべきではないか。
会議を終えた春嶽が小御所を出ていこうとして、ふと目に留めた人物がある。薩摩の黒い軍服に身を包んだ
「徳川がさほど憎いか」
すると西郷は安政の大獄で刑死した
「この国に内乱の種を播 かれたのは慶喜公じゃとおいは思いもす。それゆえ、とがめだてをせねばなりもはん。さもなくば、この国は相変わらず、身分高きひとのための国になりもす。おいはさような国を守ろうとは思いもはん」
痛烈な信念だ。対して春嶽は武家の世を、すなわち泰平の世を二百数十年も守ってきた徳川家を「この世の美しき流れ」と表現する。
「腐った枝葉は断ち切らねばなるまいが、それによって美しき流れを損なってはならぬ」
「そいはおいも同じことでございもす。それゆえ、腐った徳川の根を断たんと思っておるとでごわす」
「わたしはできれば守りたいと思っている」
「そいは徳川御一門様の定めでごわんそ」
相容れない二人の問答は真率で、
ところが春嶽は次の言葉で、張りつめた夜闇に風を通す。
「左内のことをひさしぶりにひとの口から聞いた。嬉 しかったぞ」
西郷も「おいも同じ思いにごわす」と答える。
このやりとりは、本作の重要なテーマを浮き彫りにしている。
──ひとは思想、主義主張、出自、立場が異なっても互いに認め合い、心を通わせることができるか。
共通点があれば、群れることは
だからこそ、この問答は二人の将来まで示唆して秀逸、しんしんと切ないほどに美しい。
本作に通底するテーマはもう一つある。
──使命を果たす者として〝私〟を捨てられるかどうか。
この問いかけだ。
幕末の政治は「尊王攘夷」と「佐幕開国」の二極で語られることが多いが、先述の通り、尊王、佐幕、攘夷、開国、公武合体、倒幕、それぞれ派生時期も企図するところも異とする別のものだ。しかしやがて
徳川幕府最後の将軍となった慶喜の描かれ方などは、じつに象徴的だ。英明で知られた慶喜が自身の面目、プライドに拘泥し、つまりは〝私〟を捨てられぬことで将たる道を誤る。
幕閣、諸藩諸侯の間の争いも
だが春嶽は〝中庸〟の道を模索し続けた。
旗色を鮮明にしつつも権謀術数を用いず、政治手法は調和型だ。
春嶽は譲る、辞退する、
激情猛進型の政治家からすればあまりに誠実に過ぎ、妥協的にも見えただろう。ゆえに幕府の重職を追われ、あるいは自ら退き、徹底した尊王であるにもかかわらず「朝敵」と非難されもした。
だが〝破私立公〟という点において、春嶽は現代に至ってもなお
〝私〟を捨て、民を本とする〝公〟を立て通した春嶽がいたからこそ明治維新はフランスやロシア、中国のごとき激烈な革命ではなく、大政奉還という「政権交代」に
葉室麟はこの政権交代を東洋哲学に基づく日本独特の「禅譲」と、インタビューで表現している。ゆえに春嶽の政治人生と歴史的意義を現代に伝えておかねばならないと決意して、『
終盤、西南戦争で自刃する西郷への思いを描いた
維新成った後、
義のため、真なる同志と共に闘う。
天を
葉室麟の歴史観は膨大な知に基づく冷静な分析によって透徹しているが、その根底には一人ひとりへの深い情が常に流れている。春嶽の『天翔ける』と『大獄 西郷青嵐賦』を併せ読めば、まるで漢詩の対句のように響き合う。
幕末から維新という歴史への、葉室麟の
この『天翔ける』の初版発行日は二〇一七年十二月二十六日。葉室さんが亡くなったのは、その三日前の十二月二十三日だ。見本が作者の
悲しさはもう乗り越えた。ただただ
生きておられたら、今の時勢を何とおっしゃるだろう。コロナ禍について、あの映画について、あの小説についても意見を聴きたいなあ。語り合いたい。
追慕の念はやむことがない。小説界における葉室麟の不在という空虚も、埋めようがない。
けれどもこうして、
私も執筆を終えたら、またページを繰るだろう。
あの
作品紹介
天翔ける
著者 葉室 麟
定価: 748円(本体680円+税)
日本の礎は、この男によって築かれた。松平春嶽を描く、傑作歴史長編!
幕末、福井藩は激動の時代のなか藩の舵取りを定めきれず大きく揺れていた。決断を迫られた藩主・松平春嶽の前に現れたのは坂本龍馬を名乗る一人の若者。明治維新の影の英雄、雄飛の物語がいまはじまる。
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