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レビュー

日本の礎は、この男によって築かれた。松平春嶽を描く、傑作歴史長編!──『天翔ける』葉室麟【文庫巻末解説】

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『天翔ける』文庫巻末解説

解説
朝井まかて

 淡々とした筆致で、〝歴史の証言〟を積み重ねた小説だ。
 主人公はえちぜんまつだいらしゆんがくしまなりあきらさつ)・やまうちようどう)・伊達だてむねなりじま)と共に「四賢侯」とうたわれ、「大政奉還」の実現に功多く、維新政府に参画した数少ない大名の一人でもある。にもかかわらず、歴史小説では主人公に据えられることの少ない人物だ。
 ではなぜ、むろりんは春嶽を書かねばならないと思ったのか。
 まず、幕末から明治にかけての歴史をかんするのに春嶽が最もかたよりのない人物であったことが挙げられるだろう。そしてもう一つ。春嶽は歴史の敗者とは位置づけられないけれども、開国論の先駆者として歩んだのはやはりいばらの道であった。
 せつの多い政治人生であったのだ。

 ここで松平春嶽の出自を辿たどっておきたい。いみなよしなが、春嶽は号である。ぶんせい十一年(一八二八)、江戸城内のやす邸で生まれた。言うまでもなく田安家はさんきよう(田安・ひとつばしみず)の一家であり、始祖むねたけは八代将軍よしむねの次男、家格は御三家(わり)に次ぐ。
 当然のこととくがわ一門との血縁関係は深く、まず春嶽の祖父が一橋家の二代だ。十一代将軍いえなりは春嶽の伯父、十二代将軍いえよしはいとこ、春嶽の長兄は尾張家を継いで十二代藩主、次兄は一橋家、弟は田安家を継ぎ、末弟も尾張家を継いで十三代藩主となる。
 そして春嶽は越前家の養嗣となり、越前十六代藩主となった。
 骨の髄まで徳川の家門大名である。だが先見の明に富んだ春嶽は諸大名に先駆けて「開国」を唱え、と同時に「そんのう」であった。
 ところが時のみかどこうめい天皇は徹底した鎖国じよう論であった。春嶽の政治活動の最盛期は十九歳から四十二歳とおぼしいが、これは孝明天皇の在位期間とほぼ一致する(『松平春嶽』かわばたへい・日本歴史学会編集・吉川弘文館)。ただし孝明天皇は戦を好まず、嫌幕派でもない。政権はこれまで通り、徳川幕府に委任しておくのを是としていた。
 日本は神と仏の両方を受けれ、同心円のように共存させてきた国柄だ。政治構造も特異で、帝と将軍、京の朝廷と江戸の幕府が同時に存在して泰平を守ってきた。世界に類を見ない構造であるが、あんせい三年(一八五六)からおよそ六年の間アメリカ総領事として在日したタウンゼント・ハリスは、日本政府=徳川幕府であり、主権者=タイクン(将軍)であると理解し、交渉に臨んでいた。
 春嶽は安政三年の時点で開国論を鮮明にしたが、先述の孝明天皇や朝廷と敵対したわけではない。徳川家や幕府を守るのにきゆうきゆうとしたわけでもなく、日本の国のありよう、国際社会での立国、将来性を本位として考えた。ゆえに幕政改革に尽くし、「公武合体」の可能性を模索する。それが行き詰まると「雄藩連合による公武合体」を推進、それもたんすると「大政奉還」へと大きくかじを切った。


天翔ける
著者 葉室 麟
定価: 748円(本体680円+税)


 大政奉還が成り、「王政復古」の大号令が発せられた。その後、有名な小御所会議が開かれた本作の場面は非常に印象深い。
 いわくらともと薩摩側はよしのぶの内大臣辞職、徳川家領の返納を求め、新政府から徳川家を排除しようとする。春嶽は山内容堂と共に冷徹に反論する。

いま、徳川が大政を奉還したのは、挙国一致で国難に対処するためである。きゆうえんを捨て〈公〉につかねばならない。徳川はそうしたのだ。薩摩もそうすべきではないか。

 会議を終えた春嶽が小御所を出ていこうとして、ふと目に留めた人物がある。薩摩の黒い軍服に身を包んだ西さいごうきちすけだ。
 かがりあかりの下、春嶽は問う。

「徳川がさほど憎いか」

 すると西郷は安政の大獄で刑死したはしもとないの名を挙げ、徳川家の処遇について己の考えを吐露する。

「この国に内乱の種をかれたのは慶喜公じゃとおいは思いもす。それゆえ、とがめだてをせねばなりもはん。さもなくば、この国は相変わらず、身分高きひとのための国になりもす。おいはさような国を守ろうとは思いもはん」

 痛烈な信念だ。対して春嶽は武家の世を、すなわち泰平の世を二百数十年も守ってきた徳川家を「この世の美しき流れ」と表現する。

「腐った枝葉は断ち切らねばなるまいが、それによって美しき流れを損なってはならぬ」
「そいはおいも同じことでございもす。それゆえ、腐った徳川の根を断たんと思っておるとでごわす」
「わたしはできれば守りたいと思っている」
「そいは徳川御一門様の定めでごわんそ」

 相容れない二人の問答は真率で、せいひつだ。薪のぜる音だけが聞こえてくる。
 ところが春嶽は次の言葉で、張りつめた夜闇に風を通す。

「左内のことをひさしぶりにひとの口から聞いた。うれしかったぞ」

 西郷も「おいも同じ思いにごわす」と答える。
 このやりとりは、本作の重要なテーマを浮き彫りにしている。
 ──ひとは思想、主義主張、出自、立場が異なっても互いに認め合い、心を通わせることができるか。
 共通点があれば、群れることは容易たやすい。しかしそれは付和雷同やそんたくにつながりやすく、幕末に起きた多くの非情、非道な戦、殺傷事件も「同じであること」に安住した思考停止によるものではないか。翻って、主義や生き方の違う相手と渡り合い、互いに認め合うことの困難さも本作は語っている。
 だからこそ、この問答は二人の将来まで示唆して秀逸、しんしんと切ないほどに美しい。

 本作に通底するテーマはもう一つある。
 ──使命を果たす者として〝私〟を捨てられるかどうか。
 この問いかけだ。
 幕末の政治は「尊王攘夷」と「佐幕開国」の二極で語られることが多いが、先述の通り、尊王、佐幕、攘夷、開国、公武合体、倒幕、それぞれ派生時期も企図するところも異とする別のものだ。しかしやがてきよくせつ、複雑怪奇の様相を帯びるのは、そこに〝私〟の野心、しん、遺恨が絡みつくためだ。高々と掲げられたスローガンは、保身や権勢欲、立身欲のかくみのになった。おのが信念をいつしか四捨五入し、私利私欲に走った者のいかに多かったことか。
 徳川幕府最後の将軍となった慶喜の描かれ方などは、じつに象徴的だ。英明で知られた慶喜が自身の面目、プライドに拘泥し、つまりは〝私〟を捨てられぬことで将たる道を誤る。さかもとりよう暗殺事件の真相として描かれる場面など、権力者の感情のざんを間近で見たような気がして心胆を寒からしめる。貴公子はあまりにも小心であった。
 幕閣、諸藩諸侯の間の争いもすさまじい。国の存亡がかかった難局においても、そくな妬心やえんこんの腐臭が漂い続ける。
 だが春嶽は〝中庸〟の道を模索し続けた。
 旗色を鮮明にしつつも権謀術数を用いず、政治手法は調和型だ。ごうほうらいらくさいかんぱつの派手さがなく、他を出し抜こう、裏をこうというかんめぐらせない。歴史小説の主人公になりにくいわけだ。
 春嶽は譲る、辞退する、はばかる。
 激情猛進型の政治家からすればあまりに誠実に過ぎ、妥協的にも見えただろう。ゆえに幕府の重職を追われ、あるいは自ら退き、徹底した尊王であるにもかかわらず「朝敵」と非難されもした。
 だが〝破私立公〟という点において、春嶽は現代に至ってもなおな為政者なのである。
〝私〟を捨て、民を本とする〝公〟を立て通した春嶽がいたからこそ明治維新はフランスやロシア、中国のごとき激烈な革命ではなく、大政奉還という「政権交代」にとどまったのだ。しんせんそう西せいなん戦争は起きたけれども、長い歴史を見渡せば緩やかな回天を成し遂げたといえよう。
 葉室麟はこの政権交代を東洋哲学に基づく日本独特の「禅譲」と、インタビューで表現している。ゆえに春嶽の政治人生と歴史的意義を現代に伝えておかねばならないと決意して、『あまける』を起稿したのではないだろうか。

 終盤、西南戦争で自刃する西郷への思いを描いたくだりも胸に迫って余りある。
 維新成った後、さつちようの軽格武士たちが維新回天の功績は己らにありと大きな顔をしてのさばっている明治政府を、春嶽は「笑止」と思う。そして「志士」と呼べるのはただ一人、西郷だけだと内心が明かされる。春嶽は西郷の姿に、最後の武士もののふを見たのだろう。
 義のため、真なる同志と共に闘う。
 天をけるような志を捨てぬまま世を去ったと、春嶽は西郷の最期を思い落涙する。そしてこの涙は苦難の道を歩いた自身への哀惜かと、両義をもたせた文章が続く。これはまさしく、春嶽のかんなんしんの人生に寄せる著者の哀惜であるだろう。
 葉室麟の歴史観は膨大な知に基づく冷静な分析によって透徹しているが、その根底には一人ひとりへの深い情が常に流れている。春嶽の『天翔ける』と『大獄 西郷青嵐賦』を併せ読めば、まるで漢詩の対句のように響き合う。
 幕末から維新という歴史への、葉室麟のばんだ。

 この『天翔ける』の初版発行日は二〇一七年十二月二十六日。葉室さんが亡くなったのは、その三日前の十二月二十三日だ。見本が作者のもとに届くのは発行日の数週間前がおおむねであるから、本作は生前の葉室さんの許に届いた最後の作品ということになる。
 しくも、あと数日で葉室さんのお命日という日に私はこの解説を書いている。
 悲しさはもう乗り越えた。ただたださびしいだけだ。
 生きておられたら、今の時勢を何とおっしゃるだろう。コロナ禍について、あの映画について、あの小説についても意見を聴きたいなあ。語り合いたい。
 追慕の念はやむことがない。小説界における葉室麟の不在という空虚も、埋めようがない。
 けれどもこうして、数多あまたの優れた歴史小説、時代小説をのこしてくれた。葉室さんの作品は読者の人生と共に生き、道を照らし続ける。
 私も執筆を終えたら、またページを繰るだろう。
 あの微笑ほほえむ温顔を思いながら、励まされよう。

作品紹介



天翔ける
著者 葉室 麟
定価: 748円(本体680円+税)

日本の礎は、この男によって築かれた。松平春嶽を描く、傑作歴史長編!
幕末、福井藩は激動の時代のなか藩の舵取りを定めきれず大きく揺れていた。決断を迫られた藩主・松平春嶽の前に現れたのは坂本龍馬を名乗る一人の若者。明治維新の影の英雄、雄飛の物語がいまはじまる。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322008000170/
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