佐藤さとう亜紀あきさんの新作は、スウィング・ボーイズが題材らしい。そう聞いた時、私はそれはもう興奮した。以前から、佐藤さんが第三帝国時代を書いてくださったらなあ……とひそかに(熱烈に)願っていたし、しかもスウィング・ボーイズである。さすが! と声が出た。これはもう傑作まちがいなし、と発売を心待ちにしていた。
 実際はもう傑作どころの話ではなく、しばらくの間、会う人ごとに勧めていた。今も、この文庫を手にした方ひとりひとりに、おめでとうございますと言いたいぐらいだ。
 私が佐藤作品に出会ったのは、デビュー作『バルタザールの遍歴』が発売された時だった。書店でただならぬオーラを放っていた本を購入し、夢中になり、幻惑され、最後に茫然ぼうぜんとした。そして思わず著者が日本名であることを確認してしまった。なにしろ、滅び行く西欧の貴族社会を、「外」から書いている気配が全くなかったのだ。私たちには様々なフィルターを通してしか見られない異文化は、当たり前だが主人公にとっては生まれ落ちた瞬間から空気のように存在するものである。だがそれを本当に、空気のように自然に描写できるってどういうことだろう? 衝撃だった。まず「説明」がないのが、佐藤作品の特徴だ。にもかかわらず、その世界が浮かび上がる。いや浮かび上がるのではない、気がつけば自分がそこに放りこまれている。
 どうやったらこんな離れ業ができるのか。圧倒的な知識と筆力、そしてイロニーが必要なのは察する……が、察するだけだ。どれも不足している人間には、悲しいかな、理解はできない。恥ずかしながら私も二十世紀初頭の欧州を舞台に書くことがあるのだけれど、どうしても説明が入ってしまうし、版元からは「読者には馴染みのない時代と社会だから、共感しやすいように主人公は日本人にしてほしい」とよく言われる。全く違う価値観の世界を書くのに、わざわざおらが村の常識におしこめる必要性がよくわからないところはあるが、「わかりやすく、共感しやすく」と言い聞かせながら書いてしまう。そして長くなる。
 佐藤さんの著作は、二十年以上前のデビュー作から今に至るまで、いっさいの無駄がない。たとえばWWⅠのウィーンを舞台にした『天使』は〝感覚〟と呼ばれる異能をもつ諜報員が主人公であり、また二〇〇八年に吉川英治文学新人賞を受賞した『ミノタウロス』もほぼ同じ年代のウクライナを舞台にしたピカレスクロマンで、主人公たちと読者の間には共感どころか、深い溝がある。とくに後者など、主人公は屑と呼ばれるだけあって、やることなすことえげつない。だというのに、「わかる」のだ。彼らの歓喜が、怒りが、孤独が嵐のように襲いかかり、むきだしの魂に触れたような感動を覚える。どうしようもなく心惹かれる。それは、佐藤さんが描いていらっしゃるのが共感という生やさしい言葉で表現できるものではないからだ。時代や文化という檻を取り外し、押しつけられていた価値観を破壊してようやく現れる普遍的な人間の姿。醜さの中にひそむ渇望。数多の人々がそれゆえに生き、それゆえに命を落としてきたもの。たぶん、自由と呼ばれるものではないかと思う。
 今作『スウィングしなけりゃ意味がない』では、それがとびきりいきいきと浮かび上がる。
 舞台はナチス体制のハンブルク。大衆をよく知り、人間を短期間で家畜にする手段を心得ているナチスに抵抗した者たちは決して少なくはない。青少年のグループも複数存在し、中でも最も有名なのはショル兄妹を中心とするミュンヘン大学の学生たちで構成された『白バラ』だ。反戦・反全体主義のビラを数度にわたって配り、最後はギロチンで処刑されるという悲劇性も人々の心を惹きつけ、今なお世界中で語り継がれている。もうひとつ有名なのが、エーデルヴァイス海賊団。白バラが大学生と教授という知識階級による道義的な抵抗運動であるなら、こちらは労働者階級出身の青少年を中心とした抵抗──というよりヒトラー・ユーゲントとの激しい対立である。いずれも青少年の抵抗運動としてわかりやすい。人間の良心と、若者らしい独立心。それらは国や時代が違えども、共感を得やすいだろう。
 しかし佐藤さんは彼らではなく、スウィング・ボーイズを選ばれた。さすが! と膝を打った。彼らのメンタリティは前述のグループとは全く違う。彼らはビラ配りもユーゲントとの対立もしない。その名の通り、ナチスに頽廃たいはい音楽の烙印を押されたジャズに熱狂しているだけだ。理由はただ「格好いい」から。主人公のエディがナチスを忌み嫌うのはやることなすこと全てダサいからで、俺たちは俺たちで好きにやるからクソダサい美意識を押しつけんな、というスタンスだ。ハンブルクの富を支えるブルジョワの子弟であり、幼少期からジャズをはじめアメリカ的なものに親しんでいるボーイズは、お互い「エディ」や「デューク」と英語の愛称で呼び合っている。クラブで踊り狂うのも、酒を浴びるように飲むのも、自由恋愛に励むのも、単にそれがイケてるし、そうしたいからだ。親の地位と金で自由気ままに振る舞いながら、そのくせ夜遊び中にゲシュタポに連行された息子を迎えにきた父親の上着に党員バッジを見ると腹をたてる。この若い理不尽さがリアルだ。
 つまり彼らは政治的な信条は何もない、鼻持ちならないスノッブな連中なのだ。映画などで描かれるレジスタンス像とはほど遠く、ややもすると共感より反感を呼び起こしかねない。実際、佐藤さんも「跛行はこうの帝国」で「彼らは実に嫌な同級生だった」という同時代の証言をとりあげられている。ピカレスクロマンの主人公をはれるようなあくどさもない。一見、古今東西どこにでもいる、甘やかされた子どもたちである。
 だからこそ、とびっきり魅力的なのだ。気ままで頭の回転の速いエディ、天才的なピアノの腕をもつマックス、ダンスがうまくて苛烈なデューク、ユーゲントのスパイだがスウィングが好きでたまらないクー、大学教授の娘ながらぶっとんだアディ、美しく色っぽいエヴァ──彼らが織りなす青春は、あの灰色の時代にあって極彩色に彩られている。彼らとともにある音楽の描写が、読んでいる私たちまで踊り出したくなるほど鮮やかなことも大きい。彼らのエネルギーと傍若無人ぶりに圧倒され、次は何をしてくれるんだとワクワクしながら頁を捲ってしまう。
 端からどう見えようが、エディたちを突き動かしているのは自由への渇望だ。大衆に堕することを拒み、自分に忠実でありたい。国家やら民族やら穴だらけのイデオロギーには決して従わない。だからこそ、同じくジャズを愛し、理解する者ならば、ユダヤ人もユーゲントのスパイもあっさりと迎えいれ、友となる。そうなれば、決して裏切らない。

 スウィング・ボーイズは政治に無関心だったと言われるが、それこそが彼らの最大の強みである。いよいよアメリカとの戦争が始まり、ジャズが禁じられると、エディたちは海賊版レコードの販売を思いつく。ナチを出し抜き、ユダヤ人の仲間をまきこんで売り出せば、一見おとなしく国に従っている国民は次々とびついた。このあたりは本当に痛快だ。出口が見えない暗い世相の中、すでにエディや仲間たちも多くのものを失っている。たとえば、ある日突然、存在そのものを否定されてしまったユダヤ人の祖母だったり、友達だったり、恋人だったり。それでも彼らはスウィングをやめない。むしろどんどん拡げていく。同じ時期、仲間が反ナチのチラシを配ろうとするのを止めようとして、エディはこう言っている。
これさ、ユーゲントとどこが違うんだ。なんで一々青年が先頭に立って旗を掲げなきゃならないんだ。ドイツよ目覚めよ、かい? いっぺん目覚めた挙句こうなってるんだろ?

書籍

『スウィングしなけりゃ意味がない』

佐藤 亜紀

定価 864円(本体800円+税)

発売日:2019年05月24日

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