11/10(土)より配信の「文芸カドカワ」2018年12月号では、須賀しのぶさんの新連載「荒城に白百合ありて」がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開いたします。
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黒船来航以後、世界への扉は開きはじめた。
会津藩江戸定詰武士の家に育った青垣鏡子は、屋敷の外の世界へと踏み出そうとするが――。
半鐘が鳴ったのは、朝六ツ半時だった。
朝霧を切り裂く不吉な音に、幸子は箸を置いた。思いがけず高い音が響き、向かい側に座っていた母がわずかに眉を顰める。が、口に出して咎めることはせず、ぼんやりと明るい障子のむこうを見つめるように目を細めた。
「昨日の戸ノ口は勝ち戦と聞いたけれど」
母は平坦な声で言った。
薩長軍が会津藩境の母成峠を突破したとの知らせがもたらされたのは二日前、慶応四年(一八六八)八月二十一日のことである。昨夜はいよいよ、割り場の半鐘が鳴らされたら着のみ着のままで良いからただちに城に入るべしと通告が来た。祖母は、万全の備えをせよと家じゅうに命じ、幸子もいつでも城に走れるよう準備をしていた。
けたたましい鐘の音に、幸子はすでに腰を浮かしていたが、母の横顔は常と変わらず人形のように美しい。幸子は、この母が慌てたところを一度も見たことがなかった。それでも耳障りな半鐘の中、母が再び箸を手にとった時にはさすがに目を疑い、食事中は許しなく話してはならないという禁を破ってしまった。
「母上、早くあいばんしょ」
今朝もいつも通り、自分の朝餉の前に、病に伏せている祖母の食事の給仕をした。ほとんど手足の動かぬ祖母の世話は、八歳の子供には厳しく、母は何度も女中にやらせるから良いと言ってはくれたが、せめて食事だけはと幸子が頼みこんだ結果だった。目上のものを敬いなさい。藩の大事な教えである。自分より二歳下の弟も、あぶなっかしい手つきで父と母の給仕をしていた。弟がいなくなった今、自分が忠孝の勤めを受け継がなくてはならないという、強い意志があった。
しかし今朝の祖母は手強かった。いつもは、口許に運べばおとなしく食べてくれるのに、今日は何を察していたのか頑として口を開かなかった。孫の粘りにうんざりしたのか、最後はどうにか口を開いてくれたが、それでもいつもの半分も食べなかった。
へとへとになり、いつもよりずっと遅い時間に母とともに朝餉をとることになったが、母は文句は言わなかった。祖母のもとに運んだ時にはふっくらとして美味しかったであろうかぼちゃ飯も、そのころにはすっかり冷えてべちゃべちゃになってはいたものの、感謝して口にした。正直、一昨日から緊張のし通しで眠れなかったせいで腹も空かず、味もろくにわからなかったが、いつも通り淡々と朝餉をとる母に倣い、必死の思いで胃の腑に詰め込んだのだった。
半鐘が鳴った以上、この味気ない食事も終わりだ。早く、早くお城へ。森名家は三の丸に近い場所にあり、今すぐ向かえば難なく入れることだろう。早くしなければ、鬼のような薩長が城下に雪崩れこんでくる。
が、急く娘を凪いだ目で見やり、母は言った。
「さすけね」
父や祖母が頻繁に使う口癖だった。さすけね。心配ない。五月、白河口に出陣した父は、不安げに見送る幸子や、涙をこらえる弟・宗佑の頭を順に撫でて、さすけねぇと笑って出て行った。その数日後、首だけ戻ってきた。持ち帰ってくれた者の話によれば、隊を率いて勇猛果敢に戦うも銃の前になすすべなく、足と肩を撃たれていよいよ動けなくなり、足手まといになってはならぬと草陰で腹を切ったという。
そして一昨日、母成峠が破られたという知らせの後、若党に連れられ家を出る弟に、父そっくりの顔をした祖母が「さすけね」と力強く頷いた。六歳となったばかりの幼い弟は、母方の遠縁の家を頼ることになり、門を出ても何度も何度も振り返りながら去って行った。
当主を失い、戦うにはまだあまりに幼い唯一の男子を若松の外へ避難させた今、森名家に残っているのは病がちの祖母、母と幸子、あとは老僕や女中ばかりである。
「けんど……」
「森名家の者が慌てて駆けつけては笑われますよ」
母の声は決して高くはなかったが、逆らうを許さぬ響きがあった。
「立派におつとめを果たした父上の顔に泥を塗るようなことはあってはなりません」
母はめったに会津の言葉を使わない。完璧な会津婦人との誉れ高い母の、唯一の欠点である。幸子は物心ついたころから、父や祖母と同じように会津の言葉を話していたから、ひとり江戸言葉を話す母のことが不思議ではあった。なにより、母にこのすっきりとした言葉で叱られると、ひときわ堪える。決して声を荒らげることはなかったが、厳格な祖母に雷を落とされるよりもよほど、言の刃はするどく胸に突き刺さるような気がした。
「はい、母上。申し訳ありません」
幸子は恥じ入って顔を伏せた。知らず、母の言葉使いがうつっている。母は満足げに微笑んだ。
「最後までしっかり嚙むのですよ」
その後は、静かに食事が続いた。
障子の外で荒々しく鐘が鳴り響いているというのに、ここだけはまるで違う世界のようだった。
母の言う通り、いつも以上によく嚙むことを心がけていると、ふしぎと心も凪いでくる。
そうだ、ここから長い籠城戦が始まるのだ。この家で食事をとれるのも、これが最後かもしれない。幸子は心して、しっかりと味わって食べた。親しい友人たちはもう城に入っただろうかと気にかかったが、口を開くことはしなかった。
食事が終わるころには、霧は冷たい雨に変わっていた。幸子は自室に戻り、念入りに身支度を調えた。いざという時は城にあがり、照姫様をお助けせよと、父は言った。八歳の身ではできることもかぎられているだろうが、かつてやさしい言葉をかけてくれた藩主の姉君に、誠心誠意お仕えするつもりだった。
「幸子」
音もなく、障子が開いた。雨と半鐘の音にまぎれて、足音が全く聞こえなかったので、幸子はぎょっとして振り向いた。そして、そこに立つ母の姿に声を失った。
「刻限です。こちらに着替えなさい」
母が差しだしたのは、自身が纏うものと同じ、白装束だった。
「……母上」
幸子は、震える声で母を呼ぶのが精一杯だった。白装束のせいか、母は生きた人間のように思えなかった。なにより、この香り。白檀にまじり、ほのかに血のにおいがする。
おばあさまは。とっさに尋ねたが、驚いたことに全く声が出なかった。茶はたっぷり飲んだはずなのに、口の中は干上がり、喉ははりついたように動かない。
「父上とよく話し合って決めたことです」
動けぬ娘を前にして、母は穏やかに言った。
「城には城下の者たちが殺到します。一人増えれば、そのぶん一人が飢えることとなりましょう。もし父上が戦えぬ状態ならば、足手まといになるよりは、会津武士の誇りを守り、この先祖伝来の土地を守って皆で自裁しようと決めておりました」
装束すら異様なれど、それをのぞけば母は全くいつも通りだった。口許に刷いた淡い笑みは、語る言葉とはあまりにそぐわず、幸子の混乱していた頭はかえってしんと冷えた。
私は、悪い夢を見ているのだ。そう思った。
「父上がいらっしゃらずとも、私たちも立派に戦えるのではないですか」
幸子は母を見据えて言った。
「母上は薙刀の名手でいらっしゃいます。私もいくらかの心得はございます。死ぬのはそれからでもよいのではないですか。幸子は武家の娘として、城を枕にみごと討ち死にしとうございます」
心臓が早鐘のようだった。母に口答えをするなど、いつぶりだろう。夢とはいえ、なかなかの勇気が要った。
だが、どうしても言いたかった。死は怖くない。死を恐れるなど、会津の武家の女としてありえぬことだ。すでに自害の作法も知っている。時を迎えた際にし損じることのないよう、幼いころから繰り返し動作はたたきこまれている。扇を懐剣に見立てて、母がまず胸を突き、返す刀で首をすぱんと斬る様は舞のように美しく、見とれたものだ。憧れて何度も練習し、母が満足げに頷いた時には嬉しかった。
今こそ、あの成果を。しかも母と共に散ることができるのだ。そう思えば心も浮き立つが、その前にせめて一矢報いたい。幸子とて、薩長には腹の底から怒りを感じているのだ。一人でも、黄泉路の道連れとしたい。彼らが地獄に落ちゆく様を、浄土へ行きながら笑ってやる。
「幸」
母は不思議なものを見るように幾度か瞬きをした。目許と口許から、漣のように微笑みがひろがる。
「言うようになったこと」
(このつづきは「文芸カドカワ」2018年12月号でお楽しみください)
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