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レビュー

内田康夫自ら太鼓判!物語の読みどころから幻の制作秘話まで、トコトン語ります。『鯨の哭く海』

自作解説


 妙な話だが、本書『鯨の()く海』の圧巻は、第一章の冒頭に出てくる浅見(あさみ)家の食卓風景の中で「鯨を食べるべきか否か」について語られる、雪江(ゆきえ)と孫の雅人(まさと)の会話である。戦前派の雪江は、かつて鯨を常食にし、旨いと思った時代を生きてきた。対する雅人は、現代っ子で、鯨を食べた経験はもちろん、食べたいと思う欲求も持たない。その中間のような時代に育った浅見光彦(みつひこ)は、両方を等距離で見ることができるし、それぞれの意見にそれなりの共感を抱ける――という立場だ。この三者三様に対立した構図が、作品の全編に流れているのだが、捕鯨問題がミステリーのモチーフになるなどとは、あまり考えつくものではないと思う。
 一九八二年、国際捕鯨委員会が商業捕鯨の一時禁止を決議し、八八年に実施されてから現在に至るまで、捕鯨は「一時禁止」状態のまま推移している。わが国では「調査捕鯨」に名を借りて、限られた頭数のミンククジラを捕獲、その肉が市場に流通しているが、建前としては商業捕鯨は行なわれていないし、今後いつ再開されるかもメドが立っていない。なぜなら、捕鯨国はごく少数派であって、アメリカ、オーストラリア、イギリスなど、ほとんどの国が頑に捕鯨禁止を主張し続けているからだ。
 こういう状況を背景にして、物語は展開する。舞台は「捕鯨のふるさと」ともいうべき和歌山県太地(たいじ)である。ところが、プロローグは埼玉県秩父、海なし県の山間(やまあい)の町からスタートする。まるで対照的な二つの土地が、やがて一本の糸で結ばれてゆく。この意外性に満ちた設定の面白さが「旅情ミステリー」の醍醐味かもしれない。『鯨の哭く海』は自分で言うとおこがましいが、掛け値なしに面白い。しかし、この作品が誕生するまでの経緯には、これまであまり語ることのなかった秘話(?)がある。
『鯨の哭く海』は六百枚を超える長編だが、じつはこれと同名の百枚の短編小説を十五年前に「別冊婦人公論」誌上に発表している。いまでこそ「短編書かない主義」を標榜(ひょうぼう)し、実行しているが、当時はそこそこ、短編小説にも手を染めてはいた。雑誌社からの要望もあったが、多少、露悪的に言えば、新聞紙面に雑誌の広告が出た時、著者名が麗々しく載るのが魅力という、ばかげた動機も手伝っていた。「別冊婦人公論」には一九九〇年春号から一九九一年春号にかけて「南紀ミステリー紀行」と銘打ち、『還らざる柩』『鯨の哭く海』『龍神の女』を書いたのだが、とどのつまり、これがきっかけとなって「短編書かない主義」に急速に傾いていったような気がする。理由は「面白くない」からである。作品自体が面白くないこともあるけれど、短編小説を書く作業がどうにも性に合わず、面白くなかった。
 機会あるごとに表明しているように、僕はあらかじめプロット・粗筋を用意しないで小説を書く。取材メモを取らないし、ましてストーリーを構築してノートに書き綴るようなことは一切しない。登場人物も事件も、思いつくままに書いてゆく。主義や目的があってそうだというのではなく、単にそういう作業が苦手――というのが本当の理由だ。
 モチーフやテーマを思い浮かべたら、それに必要な資料を集め、取材する。逆に取材先でモチーフに出会い、テーマを思いつくこともある。連載開始時期が迫っている場合にはすぐに執筆を開始するが、大抵は取材だけ済ませて、しばらく放置しておく。そのあいだに新たな情報が追加され、醸成もされる。いずれにしても、書き始める時はプロットを用意していない。書き下ろしの場合など、タイトルも決まっていないことさえ珍しくない。要するに五里霧中、手さぐり状態で書き進めてゆくのである。
 こういう創作法は長編小説の場合には具合がいいのだが、短編で枚数制限があると、なかなか難しい。ある程度、設計図ができていないと、どこまではみ出してしまうか、収拾がつかなくなりかねない。その典型的な例が『鯨の哭く海』の短編版だった。
 いやだいやだと思いながら、締切りに迫られ、心ならずも作品を発表してしまう。そんなことはそう何度もあるわけではないし、自分で思うほど、出来上がりが悪くないケースもあるのだが、『鯨の哭く海』に関しては自信を持って(?)不出来だと思った。許されるならボツにしてもらいたかったのだが、雑誌の紙面を白紙にするわけにもいかず、そのまま掲載された。ただし、本来なら「南紀ミステリー紀行」三部作を纏めて、単行本化する予定の出版計画は白紙にしてもらった。
 この「悲劇」には後日談があって、『還らざる柩』と『龍神の女』の二作を合体させて『熊野古道殺人事件』という長編小説に仕立てた。一九九一年秋のことである。
 雑誌に書きっぱなしで単行本にしないというのでは、出版社は困る。その事情はよく承知しているから、何とかしてその要望に応えるのが作家業者の務めだと思っていた。「南紀ミステリー紀行」の連載が終わった直後には、すでにその作業にかかっている。この短編二作はまずまずの出来だったのだが、単行本にするには枚数が不足していたために、窮余の一策として長編化したという裏事情もある。それはそれとして『熊野――』は面白い作品になった。その詳しい経緯については、中公文庫版の『熊野古道殺人事件』に自作解説を載せているので、機会があればお読みいただきたい。
 さて、継子(ままこ)扱いされた『鯨の哭く海』はその後も長いこと陽の当たらぬままだった。ただし、小説としては気に入らなかったとはいっても、鯨をモチーフにしたアイデアそのものは悪くなかったのだ。ことに捕鯨禁止問題は、僕の得意な分野である社会派ミステリーのテーマとして捨て難いものがあった。ちょうどその頃、祥伝社で長編ミステリーを書き下ろす時期にあったことから、担当編集者の辻浩明氏にその話をしたのがきっかけで、短編『鯨の哭く海』の長編化を進めることが決定した。
 とは言っても、短編の『鯨の哭く海』は、長編『鯨の哭く海』ではほんの一部、太地町で起きた事件のエピソードとして使われているにすぎない。作品のほとんどは新たな発想と取材によって創作された。ことに秩父で発生した殺人事件が太地の事件と結びついてゆく展開の意外性には、書いている本人が引き込まれた。こんな風に、この先はどうなるのだろう――と思いながら書き進めるのが、長編小説を書く者にとって至福の時なのであって、プロットを用意してしまっては、それを自ら放棄するようなものだと僕は思う。
 狂言回し役を務める浅見光彦の行動も、僕の創作法同様、先が見えない状態で進んでゆく。だからこそ、浅見の眼前に現れる状況は驚きと発見に溢れている。これが面白くないはずはない。しかも、浅見は現に見えているものばかりでなく、その背後に隠されたものまで視野に入れ、推理し、やがては奇想天外な事実を明らかにしてくれる。単なる謎解きで終わるわけではないのもいい。とりわけ、第二章のラストで国民宿舎やかんぽの宿等、官主導の施設が官吏の天下り先であったり、民間企業を圧迫し、国庫の赤字体質を生み出していることに言及するなど、社会派探偵の面目躍如たるものがある。
 かくて『鯨の哭く海』は壮大な物語として完結した。
 ――と紹介すると、いかにも天才作家のごとく思えるけれど、じつはそんなに鮮やかなものではなかった。脱稿した後、数度の著者校正が行なわれるのだが、そのつど、矛盾点が続出して、大幅な改稿を余儀なくされた。意外性に富んでいるだけに、矛盾点も複雑で、しかも連鎖的だから、一箇所を修正すると、また別の箇所で辻褄が合わなくなってくる。おそらく改稿は二百枚分にも及んだのではないかと思う。刊行予定日が迫る中、連日の徹夜作業で完璧な作品に仕上がったのを確かめた時は、辻氏と僕の助手の大林由梨と三人で歓声をあげたものである。
『鯨の哭く海』は二〇〇一年四月に刊行された。短編『鯨の哭く海』を発表してから十年以上を経過していた。長編化する過程で、当然のことながら、短編の原型は僅かに形骸(けいがい)を残すのみになったものの、思想の底流に鯨への愛着と、捕鯨国ニッポンとの狭間(はざま)で揺れる思いがあることは、長短二つの作品に共通している。事件の背後にある複雑な人間関係として描いた男と女、親と子の悲しい物語でもあった。
 過去には「別册文藝春秋」誌上で百七十枚の中編として発表した『細い糸』という作品を、その後、光文社文庫で三百五十枚の長編『多摩湖畔殺人事件』として刊行した(一九八四年)ことはある。しかし、「南紀ミステリー紀行」の三つの短編から『熊野古道殺人事件』と本書『鯨の哭く海』を生み出したことは、それとは異なる貴重な体験になった。作業を通じて、創作は力業でもあることを学んだ。苦難もあったが、得るものも大きく、何よりも終始楽しく仕事ができたことで、満足感も格別のものがあった。この経験が、僕の「長編至上主義」を決定的なものにしたと思っている。

  二〇〇五年八月
内田 康夫


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