「――うわぁ……、痛そう」
ワイは軽快な腹太鼓を叩きつつ、兜の中で眉を顰めた。
男は訳の分からないことを呟きながら、出鱈目にラブホテルの立て看板を殴り続ける。
その両拳は既に血まみれで、大事な血管が裂けたものか、自分のシャツといわず路面といわず、辺り一面をどんどん血の海に変えてゆく。
「正直、少し、引くわ……」
「丹吉が化かしてるんじゃないですか。何をしてるんです、早くあの術を解いてください」
「ワイは、正当防衛をしただけです。じきにあのラブホから怖いお兄さんたちが出てくるから、アイツは大丈夫だと思います」
「大丈夫とは? 何が?」
蛇が唖然と顎を落とす中、ワイは呆然と立ち尽くすとち子の手を引き、その場を立ち去った。
*
街の外れのコンビニエンスストアで、とち子におかかのおにぎりと温かいお茶を買ってもらった。とち子は梅酒のソーダ的なものを買ったらしく、ワイの隣に座り、ぐびぐび呷っている。
コンビニの駐車場の片隅。車は一台も停まっておらず、白々とした店内照明が儚い文明を誇示するばかりで、人の気配はない。
ワイは両手でおにぎりを持ち、もぐもぐ食べた。おいしかった。
「……じゃあ、あなたはホントに狸なんですか?」
「もぐもぐ……、んん? そうじゃよ。ワイは正真正銘江戸時代生まれの化け狸。今日、長きにわたった封印が漸く解かれて現世に再臨した」
「へぇ~、ウッフフ」
フフフフフフ、と笑うとち子。何が可笑しいんじゃ。
「じゃあ、そういうことにしておこうか」
「そういうことって何じゃい――お前、信じてないな。ワイちゃんはな、こう見えて江戸末期の阿波狸番付においてはイケるところまでイッた大狸、泣く子も笑ってお手を振る、その名も高き丹吉狸。英語で言うたらタンキチ・ザ・ラクーンドッグ!」
「タンキチ・ザ・ラクーンドッグ! フフフッ、カッコいいね。強そうだね」
「強そうじゃなくて、強いんだよ。ワイの雄姿を見てなかったんか。ちぇっ」
「見てたみてた。うんうん。ウフフフッ」
――そこでハッ、ととち子が何かを思い出した顔をし、突然ワイの頭をポカンと殴る。
なんだ、いきなり。
「ちょっと! 狸さん、さっき私のことをイカズゴケとか言ったでしょ! 謝って!!」
「……あっ」
「あっ、じゃない! 女性に面と向かってそんなこと言って、只で済むと思ってんの!? 誰も彼も結婚をゴールにしてると思ったら大間違いなんだよ、ばか!」
「いてて、わかったわかった叩くな。すまんすまん。なにぶん付け焼刃なもんで、頭ではわかっていても、つい咄嗟に……。しかしお前の価値観を理解しようと、これでも努力はしておるんだ。許してくれ」
「……もう!」
気が済んだのか、とち子はむくれっ面でソッポを向く。
ほおーっ、と吐いたその息が白い。冷え込んで来ている。
ワイは少し頭を掻いてから、首元の殿中だった襤褸を、彼女の肩にかけた。
「……あ、すみません。ありがとうございます……」
「あんまり遅うなったら、親御さんが心配するから。ここにまたタクシー呼んで、家まで送ってもらったらええわ」
「……でも、狸さんはどうするん」
「えっ。ワイは、なんかまあ、適当に帰りますので……」
「家とかあるん?」
「それはまあ、あるような無いような……」
「……もしアレだったら、うちで飼ってあげようか?」
言ってから、とち子はブッハハと笑い出した。だから何が可笑しい。
「ごめんごめん、ごめんなさい。ホントに狸扱いしちゃった」
「いや、狸だからね。そのご提案は、そうだな、非常に魅力的な気もするけんど……」
と、その時。ワイの首元でワイにだけ聞こえるくらいの、小さな囁き声がした。
「――丹吉。お話し中申し訳ないが、丹吉に関するとち子の記憶は明朝には消えていますから、そのつもりで」
「は……? なんだそれ、ワイらは〈MIB〉じゃあねえんだぞ」
「そういう決まりなんです。そうじゃなきゃお目付け役の俺が、あんなド派手な登場を許す訳ないでしょう。我々が干渉した過程は消え、結果だけが残る。この世はそうやって運行されることで秩序を保っている」
「ワイは納得できんぞ。記憶を消すってお前、そんな人権侵害が許されてええんか」
「丹吉が納得できようができまいが、もう、とち子には遅効性の忘術をかけてしまいました。諦めてね」
ふんぐぐぐぐ、とおにぎりを持つ手を憤懣に震わせていると、とち子が「どうしたの?」と訊く。思わず蛇を掴んで投げ捨てそうになったが――しかしこいつはこいつでワイに、それなりの譲歩をしてくれておるのかも知れんと考え直した。
たとえ夢と共に消え去ってしまうとしても、だ。
ワイととち子がここでこうしておしゃべりをしたという事実は、この世界のどこかに、きっと刻まれるだろう。
――そう。少なくとも、このワイ自身の心には。
万劫末代、石に戻されたワイが風蝕して、あの山の小石の欠片と成り果てても。
「……とち子。残念やけどワイはこれから先、今夜みたいにお前を助けてはやれんかも知れん。今までも――お前がどんなに助けを求めていても、駆け付けてはやれんかった」
また酒が回ってきたのだろうか。とち子は赤い襤褸に顔をうずめて、少し眠そうな顔でワイを見ている。
「けどな、ワイはずっとお前を見ておったぞ。お前のことを、お前が見ているものを、この目で一緒に見てきたんじゃ。だからお前はワイのためにも、もっと楽しいものを見て生きてくれ。もっともっと好きなものや気持ちのいいものをいっぱい見て、ワイを楽しませてくれ。お前が楽しいなぁって思いよる時、ワイもあの弁天山の上で一緒に、楽しいなぁ、嬉しいなぁって、思いよる」
あかん――そろそろ変化が解ける。
ワイはおにぎりの残りを口に放り込むと、ぴょんと立ち上がった。
「おい、わかったんか。聞いてるか? いっぱいいっぱい、好きなものを見るんじゃ。……それこそ何だ、あの象に乗った帝釈天でも、へちゃむくれの広目天でも……」
「……えっ? 騎象像?」
「チッ、帝釈天には反応するんかよ。まあええわ」
「帰るんですか? あっ、このストールは……?」
「それは、あー……。まあ、お前の好きなようにして。臭かったらごめんね、適当に捨てて。ほな……」
「ちょっと待って、ちょっと待って。えっ、もしかしてその恰好、神将なんですか? どこかのゆるキャラじゃなくて?」
「今気づいたんかい!! ゆるキャラとか言うのやめろ! もうええ、ほなな!」
びゅうっ、と一陣の風に乗ってワイは去る。
残されたとち子は髪を押さえ、夜空を見上げる――という具合に見せかけて、実際には彼女の後ろを四つ足でトコトコ草むらに入ってゆくことになる訳だが、致し方あるまい。気づかれなければ飛んで消えたのと同じことである。要は人間どもから、それっぽく見えていればよいのだ。
狸の世界というのはどこも大体、このくらいの適当さで運営されている。
とち子もそういう感じで――まあぼちぼちと、長いようで短い人生をやり過ごしてゆくのだぞ。
ええな。
*
翌朝。本殿から起きだしてきたプチ弁天に、蛇が昨晩の顛末を報告した。
「――ほな、狸はあたしの指示を聞かずに、勝手に偽者の神将に変化して酔っ払いの人間をこらしめて来たん?」
「まあ、そういう事になりますね……。丹吉自身に言わせれば、あれは正当防衛のつもりみたいですが」
ふーん、と言ってプチ弁天は少し黙り、どこか遠方を見通している様子。
「……これから、その男は……。職を失い、妻と娘にも距離を置かれることになる。どこかの神様が護ってくれてる訳でもないみたいやし、この先に待つものは羞恥と、自己憐憫。孤独。……狸、何か釈明したいことはある?」
ワイは祠の中に丸まって返事をせず、すぴすぴと鼻息を漏らす。
これぞ本家本元の、狸寝入りである。
この期に及んでは最早どうしようもない。自分がやったことをやってないとは言えない。
なので寝たフリをして、このまま沙汰を待つつもりだった。
「やっぱり狸に、お狐さまの真似をさせるのは無理なんかなぁ。あ~あ……」
「プチ弁天。俺はいつでも嚴島神社に修行に行くつもりではいますが――俺自身の目で見る限り、この狸は、特段無能という訳ではないようです。一時はどうなることかと思いましたが、それでも己がやろうと決めたことは一応完遂している。作戦遂行能力自体はある」
「能力があったって、言うこと聞かんのでは意味ないんじゃわ。あたしが欲しいのは世のため人のため、この阿波の国のために働いて、人々から愛される立派な神使で――」
とた。とた。とた。と、聞きなれた靴音が響いてくる。
ああ。駄目だ、岩に戻されるのが間に合わなかった。
正体を人目に晒すのは不本意だが、どうせとち子に昨晩の記憶はない。
近所に住んでいる狸が、偶々この祠を宿に借りたとでも解釈してくれるだろう。
どうでもいい。
ワイは薄目を開けたまま、狸寝入りを続けた。
「――まあ。君、ここに住むの……?」
驚いた声。
沈黙。
そしてやがて、ぱさり、と背中に温かい布がかかった。女の体温。
ここまで懐に入れて持ってきたのだろうか。
「だったら、丁度いいものがあるよ。これ、酔っぱらって持って帰って来ちゃったみたいなんだけど――どうしようかと思って、困ってたんだ」
赤い、燃え立つような緋のストール。
その布越しに数回、柔らかな手のひらがワイを撫でた。
「一応つくろってあるし、洗濯もしてあるから。折角だし、君の寝床にしてもらえたら嬉しいな」
……とち子。
そうか。ハハッ。
プチ弁天、これでワイにはもう、思い残すことはなくなったようじゃ。
さあ早く。
ワイを、石に――。
「ミッションコンプリートですね」
「ふ~む……。結果としては、そうなったようじゃな。……まぁよかろう。丹吉狸、おぬしを本日ただいまより、あたしの神使候補に任ずる。精々励むがよいぞ。嗚呼やれやれ、やれややれ、精進せえ――精進せえ――精進せえ――」
ウクレレめいた琵琶をベンベケベケベケかき鳴らし、ふよふよと山頂で舞いだす小さな弁才天。チロチロチロ、とワイの目の前で嬉しげに舌を出し入れする蛇。
五色の雲が燦々たる朝の陽ざしを呼んで、とち子は眩しげに空を見上げた。
ああ、そう……。
それはまた、大層勿体ない、有難いことではござりますけれども。
なんせ百数十年ぶりに変化した翌日だもんで――とりあえずはもう少し、とち子の手のひらの下で眠らせて頂きたいというのが、ワイちゃんの正直な望みでございます。
眠らせてもらってよろしいでしょうか。
……あ、聞いてないね、あの幼稚園生。
ベンベケうるせえなあ。ちぇっ。
もうええわ。好きにせえ。
(つづく)
作品紹介・あらすじ
丹吉
著者 松村 進吉
定価: 1,870円(本体1,700円+税)
発売日:2022年07月04日
現代に蘇った卑俗な化け狸が、この世の不平と悪を斬る!? 令和版狸合戦!
「語られなければ信じる者も減り、信じられていなければ存在もできない」
かつて赤殿中と呼ばれた化け狸・丹吉は、エッチな悪事によって徳島市方上町にある弁天山の卑猥な形の岩に封じられた。暇をもてあます丹吉は、弁天山に通い詰める松浦とち子を通じて現代社会の見地を得る。ある日、神々の会合で馬鹿にされたプチ弁天は、悔しさを晴らすために丹吉の肉体を復活させ、神使〈候補〉として妖怪退治を命じた。だがこの時代にアクティブな活動をする妖怪はいない……。ひとまず受肉時に破けてしまった殿中を縫ってもらうため、とち子のもとに向かった丹吉とお目付け役の蛇はSOS を察知。セクハラ男からとち子を救うべく田舎道を疾走する。丹吉は無事に神使になれるのか、はたまた岩に逆戻りか――。怪談実話のトップランナーが満を持して放つ、冒険活劇!
人間とは、神とは、妖怪とは、信仰とは――。
真心と下心が錯綜する性悪狸の愉悦と煩悩!
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