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試し読み

純粋さの塊のような生き方と、ありあまる将棋への情熱――【大崎善生『聖の青春』試し読み】

 親族会議

 広島に帰り府中中学に通う聖の心に一つのばくぜんとした思いがつのり、それは日をおうごとに大きくなっていった。
「プロになりたい」
 口には出せないが、聖の気持ちは日ごとに大きく傾いていく。
 体調は悪くなかった。むやみに自分の体を動かしたり、無理をして疲れをめるようなことに聖はきよくたんしんちようになっていた。体調管理は徹底していた。ちょっとでも体がだるいときや、熱っぽいときは、ジーッと動かずにひたすら体を休めた。
 休息と決めたときには自分の近くに尿びんを用意してそこに用をたした。トイレに立つための体力すらも温存したかったからである。ネフローゼを完全にい慣らそうと聖は必死の努力を重ね、その努力は着実に実を結ぼうとしていた。それもこれも将棋のため。将棋を学び、強くなることと病気をふうじこめることは、聖の体の中で何の矛盾もなくいつした。
 広島将棋センターで聖は腕をめきめきと上げ、それに正比例するように体調もぐんぐんとよくなっていった。
 そしてついに「奨励会にいきたい」と聖は伸一の前で口にするようになる。一度、言ってしまえばそれはもう禁断の箱を開けたようなものだった。
「大阪にいって、奨励会に入りそしてプロになる」
 聖はうわ言のようにその言葉を繰りかえすようになった。
 伸一は困った。別にプロになることや、名人を目指すことに反対しているわけではない。
 聖の病気を宣告されたあの日から、伸一には一つの決心があった。それは「聖にはとにかく何でも好きにやらせてやろう、好きなように自由に生きさせてやろう」というものだった。
 聖の病気を甘くみて、こんな不自由な生活をいることになったのも、すべては自分の責任である。だから、自分が聖の生活や進路に対していったい何を強制することができるというのだろうか。
 ただ、伸一がなやんだことは二つ。まず第一はプロになるための仕組みや、そのための手続きがまるでわからないこと。もう一つは、プロを目指すために大阪に出ていけば、聖が体調を崩してもれんらくさえとれなくなってしまうのではないかという不安であった。
 そんなことを伸一は遠回しに言って聞かせようとするのだが、まるで効果がなかった。
 そこで、伸一は一計を案じた。
 親族会議を開き、そこで聖の奨励会入りに反対してもらおうというものである。幸い、自分の兄弟は皆学校の教師をしている。聖のこうとうけいな夢をきっと現実的な尺度でねのけてくれるだろう。
 親族会議は昭和57年9月10日、伸一の妹の家で行われた。義弟は中学校長、部屋には教師がずらりとそろっていた。その席でまず、伸一とトミコは奨励会入りに反対した。理由は体調管理のことであった。集まった親戚たちも、それに同調し伸一の読み筋通りに会議は終わるはずであった。
 と、そのとき。
「いかせてくれ」と聖が皆の前で頭を下げた。
「頼みます。僕を大阪にいかせてください」
 しかし、そう言ってもなあ、健康がいちばんだからなあ、というようなことを誰かが言った。
 そのとき、聖はひるむことなく教師をしている大人たちの前でこう言い放った。
「いかせてくれ」
 そしてつづけた。
「谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ」
 それは、たましいの根源からしぼり出されたような純粋な叫びだった。
 会議は水を打ったように静まりかえった。伸一もトミコもどぎまぎして何も言い出せなかった。
 聖はあせっていた。目標は谷川浩司ただ一人である。将来の名人を倒すには13歳の聖には一刻のゆうもないと思っていた。これから奨励会6級で入会して、5年で卒業できたとしてプロ入りが18歳。それから、名人に挑戦するまでは5つのリーグを勝ち進まなければならない。仮に毎年優勝し、昇段昇級したとしても名人に挑戦できるのは最短で5年、23歳になってしまうではないか。
 いまからでもおそすぎるくらいだと聖は思った。まるで一日一日名人位が自分から遠ざかっていくようなさつかくに陥り、いてもたってもいられなかった。
 学生服を着た聖はたたみに手をつき、頭を下げたままでもう一度振りしぼるように言った。
「谷川を倒すにはいまいくしかないんです。お願いです、僕を大阪にいかせてください」
 その純粋でしんな情熱を前に誰も口を開くことができなかった。
りつじゃないか」
 長いちんもくを破ったのは、中学校の校長をしている義弟のひとことだった。
「中学1年生が自分の意志で自分の将来の目標を決めるなんてなかなかできないことだ」
 広島市内のマンモス中学の校長をしている義弟は、当時急速に全国の学校に広がりつつあった校内暴力に頭を悩ませていた。それと同時に学校内にまんえんする生徒たちの無気力化。一部の不良たちはまるで暴力団の予備軍のように校内をかつし、それ以外の多くの生徒は自分たちが勉強し生活していくことの意味を見つけられないでいた。そんな生徒たちにたいしていた義弟にとって聖の言葉は、何ともしんせんでたくましいものに思えた。
「うちの学校によんで、皆の前で聞かせてやりたいぐらいじゃ。うちの学校にもこんな生徒がほしい」と、聖の強い意志と明確な目的意識に裏づけられた言葉に感服してしまったのだった。
 その義弟の言葉を境にすっかり親族会議の雰囲気が変わってしまった。一人、二人と聖がそこまで決心しているのなら親として最大の支援をするべきではないかと、逆に伸一が説教されるに陥ってしまった。
 会議という名目で聖の進路について話し合うために集まってもらった以上は、伸一としてもそこで提示された結論を無視するわけにはいかない。説得するために集まった大人たちが中学1年生の聖に逆に説得されたような形になってしまったのである。
〈谷川を倒すにはいまいくしかない〉。その言葉と強い信念をもって、聖は自らの力で自分の進むべき道のとびらをこじ開けてみせたのだった。
 そうと決まれば伸一も動かざるを得なかった。翌日にはさっそく、篠崎に連絡しプロを目指したいむねを伝えた。奨励会試験を受けるには、まずプロ棋士のにならなければならない。元奨励会員の篠崎ならばきっとしかるべき棋士をしようとして紹介してくれるだろうと考えたのだ。
 しかし予期せぬ言葉が篠崎の口からこぼれ落ちた。
「まだ早い」というのである。もうちょっと、地元広島で力をつけてからでも遅くはないというのが篠崎の意見であり結論であった。
 当然、聖は伸一に食い下がった。伸一も腹は決まっている。篠崎がだと言うのなら広島将棋センターの本多に相談してみようとそくだんし電話をかけた。
 本多は聖の奨励会入りに賛成してくれた。そして、本多が幹事を務める、広島将棋同好会支部のはんであるしもだいらゆき八段に相談をもちかけてくれることになった。
 本多から広島の有望な少年がプロ入りを希望しているとの連絡を受けた下平は、その旨を東京奨励会幹事のたきせいいちろう七段に伝えた。大阪の奨励会入りを志望しているということなので、滝はこの話を自分のおとうと弟子でしであり大阪在住のもりのぶ六段へと伝えたのだった。
「広島の村山という子なんだけど、どうだね森君、君も弟子の一人ぐらいとってみてもいいんじゃないの」と滝はざっくばらんに森にもちかけた。
「わかりました。とりあえず会ってみます」と森は答えた。森のその答えは滝、下平、本多と伝わったルートを逆流して伸一のもとへ届けられた。聖はトミコに連れられて大阪の森を訪ねる。
 昭和57年の初秋のことである。

 大阪の関西将棋会館道場で、聖と森ははじめて対面した。
 ネフローゼで青白い顔はむくんでいた。手も足もとうのように真っ白だった。はにかんでいつもうつむきかげんではあったが、真っ黒く意志的なひとみがキラキラと輝いていた。
「あのなあ」と森はやさしい声で言った。
くつしたかんとあかんぞ」
 それが森と聖のはじめての会話だった。
 ワイシャツのそでをまくり上げ、ズックの中は裸足はだしだった。
「はあ」と聖は頭をかいた。
「この子は冬でもこうなんです。なものを身に着けるのがうつとうしいらしくて」
 聖の代わりにトミコが答えた。しかし、師匠になろうかという人とはじめて面接するときに裸足で現れるものだろうか。一緒についている親は何で注意しないんだろう。
 そんな森の疑問をかすようにトミコは言った。
「この子、一度いやじゃといったら、私の言うことなんか聞くもんじゃなくて」
 そうほがらかに笑うのだった。
 森は不思議な感覚にとらわれていた。
 お母さんはせていて小さくて、そしてとてもやさしく上品な雰囲気である。品のいい洋服をつつましく着こなしている。ところがその横にいる子供は、ワイシャツをだらしなく着こみ、だぶだぶの学生ズボンに裸足で、愛想の一つも見せずに立ちつくしている。そのくせ、病気のせいで膨らんだほっぺたは愛嬌たっぷりだ。
 森はひとで聖を弟子にすることにした。はじめて聖を見てからその決断をするまでに5秒もかからなかった。くつさがないのがよかった。重い病気と闘ってきた強い意志を感じさせる目がよかった。まくり上げたワイシャツも裸足でいることさえも、森にとってはすがすがしいものに思えた。ようぼうも態度も何もかもなっていなかったが、それがかえって森の心を大きく動かした。
 将棋のテストは行わなかった。
 この子を弟子にする。森は会っただけで瞬間的にそう決めていたのだった。
 それは師と弟子の不思議な、そして運命的な出会いだった。
 11月に大阪で聖は森門下として念願の奨励会試験にいどんだ。5級で受け、5勝1敗という文句なしの好成績をあげた。
 この日、大阪では佐藤康光、東京では羽生善治、森内俊之、郷田真隆、丸山忠久ら後の将棋界をせつけんするしゆんえいたちがプロの門を叩いていたのである。
 奨励会試験を終えて広島に帰った聖は、以前にも増してもうれつに将棋の勉強に打ちこんだ。
「名人になるんだ」と叫びながら毎日毎日、並べに没頭した。将棋の駒はみるみるうちにすり減り、盤はあっという間にささくれだった。しかしそんなことがすべて自分の血となり肉となっていくことを聖は実感していた。
 明確な目標があり、そのための努力があった。そんな単純な図式が心地よく、聖の心はたされていた。今の自分の努力は、自分の夢に直結している、やればやるほど確実に名人に近づいていく、その現実が聖のやる気をますます募らせるのだった。
 しかし、突然聖の体を蝕んだネフローゼのように、思わぬ問題が湧き上がり聖のゆく手に立ちはだかろうとしていた。


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