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試し読み

【試し読み】あなたの家は大丈夫?――夢見里龍『奇妙な家についての注意喚起』第一の家・第二の家を全文公開(2/2)

2020年2月13日
 効果があった。
 あれからも物音はするが、リビングのドアを開ける事はできないようで、掃除機を掛けたり食事の支度をしたりといった生活音がするのみに留まっている。時々ドアを確かめるようにこつ、こつと叩いている。だが諦めたのか、その頻度も段々と減ってきた。
 良かった。きっと、これで大丈夫だ。

2020年3月1日
 あれきり妻はリビングでパソコンをするのが怖いらしく、二階の空き部屋にデスクをおいてパソコン作業をするようになった。
 でも、休日とかは全く部屋から出てこない。趣味に没頭しすぎじゃない?

2020年3月20日
 皆さんは肌着を洗濯する時、表に返して洗う派?
 それとも裏返しで洗濯する派?
 私は脱いだそのまま裏返しで洗濯するタイプ。だって肌に接触しているのは内側なんだから、そっちの方をきちんと洗うべきじゃないかというのが持論。妻は表に返すタイプらしい。「これまではちゃんとしてくれてたのに」なんて遠まわしにチクチク。妻だって結婚するまではそんな事、ごちゃごちゃ言わなかったのに。

2020年3月23日
 やっぱり、物音はする。でもリビングに留まっている。
 ドアを交換してもらおうかと業者のリストアップはしておいたけど、そこまではせずに済みそう。良かった。
 昨晩我慢できずトイレに行った。
 廊下を通った時、ドアのノブを外した穴から明かりが洩れだしていた。用を足した帰りには暗くなっていて「あれ?」と思った。夜明けを待たずにいなくなったのかなと思いかけたが、視線を感じた。刺すような視線。悪寒がして、慌てて寝室に戻った。妻のいるベッドに潜り込んでから気がついた。
 暗かったのは明かりを消したんじゃない。
 穴からアレが覗いていたんだ――――
 翌朝すぐにガムテープで穴をふさいだ。これで安心。

2020年4月16日
 コロナ感染が拡大を続けている。ついに日本でも緊急事態宣言が発令された。連日テレビをつけたらコロナのニュースばかりだ。
 観光業界はどうなるんだろう。海外観光客は春からピタリと途絶えた。夏のシーズンまで続いたらやばいと支配人がぼやいていた。
 妻はといえば、出版早々重版になったと騒いでいた。マンガの編集部からも大重版だと褒められたんだとか。でも、今は趣味の話につきあっている暇はない。いいよな、楽しい事をしているだけで、褒められて。

2020年4月28日
 ゴールデンウィークの予約がどんどんキャンセルされている。例年は空き室がない時もあるくらいなのに。
 こんな時こそ妻に支えてもらいたいのに、妻が冷たい。
 毎週休みの日は晩ご飯を終えたら、録画しておいたテレビドラマを観ると決めているのに、二階の部屋にこもってしまった。私が「観ないの?」と言ったら「ごめん、観てて」だって。
 食後の珈琲だけは淹れてくれたけど、私の好みに合わせてくれなくなった。仕方がないから角砂糖をぽんぽんと投げこむ。

2020年5月29日
 白馬の春の観光客は約90パーセント減だった。あくまでも私が聞いた情報であって正確なデータかどうかは分からない。どちらにしても酷い状態だ。コロナはいつ終わるんだろう。
 ただでもしんどいのに、この頃なんだか妻の料理がまずい。
「味つけ、変えた?」って聞いたら「え、いつもどおりだけど」と返された。明らかに違う。ハヤシライスだってこんなに酸っぱくなかったし。

2020年5月30日
「疲れてると味が分からなくなるよ。料理の味が変わったなと思ったら、要注意。大きな病気が隠れてるかも」とコメントくれた人、ありがとう。
 妻が疲れてるのはそのとおりだと思う。なんか、マンガにのめり込んでる。睡眠時間とか、かなり削ってるっぽい。眠る時間になってもパソコンにむかってたから「たかが趣味で身体壊したらどうするの」ってたしなめたら「もう仕事だから」って。なんだよそれ。
 
2020年7月12日
 支配人から「夏までにコロナが終わらなかったら、これまでのような給料を払えないかもしれない」と言われた。最悪だ。
 まだまだ家のローンがある。妻を働かせるわけにはいかない。

2020年8月2日
 喧しい。リビングの物音が神経に障る。
 妻とは寝室で一緒に眠る事も少なくなってきた。小部屋で眠っているのか、私がいない時間帯に昼寝しているのか、よく分からない。
 包丁の音が絶えまなく続いている。「うるさいっ」と怒鳴りつけて、床をった。音が止んだ。

2020年8月20日
 減給が決まった。家のローンだってあるのに。どうしよう。
 情けないけど妻に報告した。しばらく節約する事になる。最悪パートをしてもらわないと駄目かもと遠まわしに話したら、妻が「大丈夫だよ」と通帳を持ってきた。
「どうしたの、これ。もしかして結婚前の貯金?」
「ううん、マンガで稼いだの。二巻も大重版で、一気に十五万部突破してて、今は新しい企画も進めてるから忙しいけど、もう一つの方も秋には単行本になる。そしたらもっともっと稼げるから」
「え、だって、マンガって遊びじゃん」
「仕事だよ。天職だと思う。眠る暇もなくて大変だなって思う事もあるけど、それでもやっぱり楽しいし」
「あのさ、それ、変だってば。仕事って楽しくないものだよ? 楽しい段階でそれは遊びであって」
「変じゃないよ。……ホテルマン、楽しくないの?」
 確か、妻とそんな会話をしたはず。
 仕事って、楽しかったっけ? 語学が得意で、地元でその得意分野を活かせるのはホテルかなって就職しただけで、やりがいとか特に考えた事はなかった。
「とにかく今後コロナがどうなるかは分からないけど、私、頑張って家計を支えていくから。ご飯はスーパーのおそうざいとか冷凍食品とかが増えるかもだけど、ごめんね」
 妻はそんな事を言って、ちょっとだけ嬉しそうにはにかんでいた。
 違うだろ、妻がだんを支えるっていうのはこういうのじゃなくてさ。妻は家の内側にいるもので、外側に――なんだか、頭がぐちゃぐちゃになってしまって黙りこむと、妻に「疲れてるんだよ」と気遣われた。
 ブログ。すっかり日記帳がわりになってきたな。というか、愚痴帳。ま、訪問者も大していないから、いっか。

2020年9月9日
 家のローンは妻の口座から引き落とす事になった。情けない。
「ほんとにごめん」と謝ったら「だって、ふたりの家だからね」と笑いかけられた。

2020年9月26日
 一緒にカフェで珈琲を飲んだ時の話。
 彼女はどうせ紅茶だろうと思って、かわりにオーダーしようとしたら「珈琲、ブラックで」と横から割り込まれた。「いつも紅茶じゃん」と言ったら「うん、ほんとはずっと珈琲派だったんだ」と言われた。
「可愛くないから隠してた」
 嘘だ。そんなの、妻らしくない。

2020年10月4日
 妻は変わった。いつだって朗らかで、私を頼ってくれていたのに、そんな彼女を愛していたのに、なんだかこの頃はきびきびしてて近寄りにくい。
 絵を描いている時なんかは「しやべりかけるな」っていうオーラが背から漂っているし、編集者? と喋っている時は声からして違う。
 今度の土曜日から月曜日まで東京に行くと言って朝から荷造りをしていた。
「こんな時期に東京とか、やめてくれよ。コロナ持って帰ってきたらどうするの。どんだけみんな神経を尖らせてるか、知ってるだろ」
「うん、でも一度だけ顔あわせしておこうって」
「その編集者、非常識だよ。ロクなやつじゃない。こんな時期に無神経すぎるって」「……」 そんな会話をしてから彼女が喋らなくなった。
 これって私の方が非常識なのか?

2020年10月11日
 午前二時。眠れない。
 妻がいない家に、食事の支度をする音ばかりが反響している。食器の鳴る音。包丁とまな板の音。なべが煮たつ音。フライパンで食材を炒める音。腹が減った。コンビニ食が胃にもたれている。
 ホテルの経営、かなりやばいそうだ。冬もコロナは続くだろう。せき一つしただけでコロナに感染してるんじゃないかって疑心暗鬼に陥っている。ギスギスしていて、職場にいるだけでも疲れる。
 思いかえせば、この家を購入したばかりの時は幸せだったな。妻とも毎晩一緒に寝て、談笑しながら食卓を囲んで――軽快に料理をつくる一階の物音すらうらやましく感じる。
 何年振りかに泣いた。
 妻のハヤシライスが食べたい。
 
2020年10月12日
 無理だ。思い出したくない。
 
2020年11月13日
 あの家には帰れない。
 
2020年12月3日
 行方不明者届を出した。でも本当は知ってる。妻は見つからない。
 
2020年12月5日
 10月12日の事を書いておく。どうせ読んだところで誰も信じない。私だって、いまだに信じられないのだから。
 
 ホテルから帰ると、玄関に妻の靴があった。
 早く妻の顔を見たかった。多分二階の部屋だろうと思ったけど、階段の明かりがついていなかった。だったらリビングかな。
 リビングから、ハヤシライスのルーを煮る旨そうなにおいがしてきた。
 ああ、妻だ。妻が帰宅して夕食の支度をしてくれているんだ。嬉しくなって、私はリビングに向かった。
 リビングのドアは大きくひらいていた。私を歓迎するみたいに。
 私は「おかえり」と妻に呼びかけながら、リビングに進んでいった。リビングは明かりがついているが、キッチンは暗かった。
 うす暗いキッチンで妻がこちらに背をむけて、たたずんでいた。その時になって「あれ?」と思った。キッチンは左側のはず――なのに、妻は右側にいる。窓は西側。ふたりの椅子は――冷たい汗が噴きだしてきた。
 思い出せ。さっき、ひらいてたのはドアのどっち側だった? ノブを取り外した蝶番側からじゃなかったか?
 そう考えたが先か、妻が振りむいた。
 赤かった。
 他に表現できない。
 真っ赤で、てらてらとれていて、内側にあるべきものがきだしになっていた。
 幼い頃にいたずらで蛙の皮を剥いた人はいるだろうか。あれを、人でやると、ああなる。もっと酷いか。だって腹の中に収まっているはずのものまでまたの間から垂れさがって、だらんだらんと揺れていたんだから。
 外側にぶらさがった舌が動いた。傷みたいな剥きだしの声帯がぱっくりとひらいて、言葉にならない声をあげる。
 妻じゃなかった――
 私は動けなかった。恐怖で身がすくむってあんなふうな事をいうんだな。
 赤い化け物はひざを後ろに曲げて、異様な動きでこちらに寄ってきた。
 逃げないと。動け、動け。真っ赤な腕が伸ばされ、私を捕まえようとしたその時、金縛りが解けた。
「くるなああぁ」
 私は腹の底から叫んで、化け物を突き飛ばした。
 化け物は後ろむきに倒れたが、しがみつくように私の足をつかんできた。爪のない指が絡みつく。蛞蝓なめくじにでも這いあがられているような不快感。蹴りつけ、踏んで、なんとかその手を振りほどいた。
 私はよろめきながら後ろに退さがり、逃げだす。
 だが、化け物は骨張った肩をいからせ、のようにわいきよくした腕をうごめかせて床を這いながら私を追いかけてきた。二十五畳ってこんなに広かったんだったか。走って、走って、やっとの事で廊下に出た。ドアを閉めたら追い掛けてこれないはず。後ろ手にドアを閉めようとした。
 あれ、閉まらない――
 焦りながら確かめたら、剥きだしのラッチが壊されていた。
 どうしよう。
 化け物はすぐそこまで迫ってきている。
 胸が潰れそうなほどに脈が速くなる。
 廊下を走り抜けて外に逃げるか。でも外まで追いかけてきたら? 周辺に助けをもとめられる民家やコンビニはなかった。街燈もない。暗い林道を逃げ続けるなんて絶対に無理だ。
 そこまで考えて私は一か八か、左側のノブを下げてドアをひらいた。
 明かりのついていない、がらんとしたリビングが視界に広がる。誰もいない。微かだが、ハヤシライスのにおいがした。
 助かった、のか?
 息を吐いて明かりをつけた。
 その時だ。後ろからドンッとドアを叩かれた。
 肩を跳ねあげ、振りむく。
 がりがりっと爪をたて、誰かがドアの表をきむしっている。「ぇてけあ」妻の声。「ぇてけあ、ぃぃいたりえかにちっそ」違う、妻じゃない。妻のはずがない。化け物が妻の振りをしているだけ。だって私の妻は可愛くて、朗らかで、私を頼ってくれて、料理がうまくて――だから、あれは違うんだ。
 しばらく経つと声は聞こえなくなった。
 それきり、妻はしつそうした。

2021年2月4日
 行方不明者届は提出したが、失踪した妻の手掛かりはない。警察には捜せないだろう。だって、妻はまだ、あの家にいる。
 でも、それはもう、妻であって、妻じゃない。

 家は、売却する事にした。


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