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試し読み

【試し読み】あなたの家は大丈夫?――夢見里龍『奇妙な家についての注意喚起』第一の家・第二の家を全文公開(1/2)



 秋になって、家はすっかりと落ちついていました。
 前より拓海は家族のことを考えてくれるようになって、家族でハイキングにいって駿するわん越しにさんを眺めたり動物公園で猿に餌をあげたりしました。デッキではバーベキューもしましたね。碧依は花火のほうが楽しかったみたいですが。
 私はすっかり排水口のことは忘れていたんです。姉がその後どうなったのかも知りません。姉の旦那はこまめに連絡するひとではなかったし、姉から連絡もなかったので。
 十月のある土曜日のことです。私は碧依と一緒に入浴をしていました。碧依は三歳児にしては珍しくお風呂が好きで、恐竜の玩具を浴槽に潜水させて遊んでいました。
 実をいうと、私は碧依が恐竜や列車の玩具で遊ぶのがあまり好きではありませんでした。遊びかたが乱暴になるからです。だからといって取りあげたりはしませんが。
 私はそのあいだに髪を洗っていました。恥ずかしい話なのですが、私は頭をあげて洗髪する事ができませんでした。バスチェアに腰かけ、前かがみに頭をさげて洗うのです。
「さんぽでねぇ、ぴちぴち、きてね」
「うんうん」
 ぴちぴちというのは雀のことです。最初は魚かと思っていました。子どもらしい他愛のない会話に相づちを打ちながら、充分に泡だったシャンプーを洗い流します。
「でねー、ぽっぽ、ね……」
 シャワーのノイズのむこうで楽しそうに喋っていた碧依の声がとつぜん途切れました。
「ポッポがどうしたの?」
 尋ねかえしましたが、不自然な沈黙だけが続きます。
「ねえ、なに」
 ふざけているのかなと思いました。
 このごろ、碧依は私をわざと心配させるという大変に迷惑な遊びを覚えました。先週スーパーに出掛けた時もそうでした。セール品を積んだワゴンの後ろに身をかがめて隠れ、どれだけ呼んでも出てきてくれないのです。迷子になった? 連れ去られた? なんて考えて頭が真っ白になりました。アナウンスを頼むため、サービスカウンターにいこうとしたところで、後ろから碧依が跳びかかってきたのです。びっくりする私をみて、けらけら笑うんだから、ほんとうにもう。
 ですが、母親の勘というのでしょうか。これはいたずらではないと直感しました。
 私はシャワーをとめ、洗いかけの泡が垂れてくるのも構わずに視線をあげます。碧依がいません。身を乗りだして覗きこむと浴槽のなかでうつぶせになっていました。
 溺れている。
「碧依!」
 慌てて碧依を助けだそうとしました。
 ですが、できませんでした。
 いつもだったら、かんたんに抱きかかえられる碧依が異常なほどに重いのです。水を吸った綿みたいに。なんで――パニックになった頭のなかで姉の声が繰りかえされました。栓が抜けて。引っ張られて――姉が、笑いました。ざまあみろ。
 私は絶叫しました。浴槽の外からでは力が入らないため、なかに踏み込んで身を屈め、力のかぎりに碧依の身体を引っ張ります。
 その時、バスタブの底でナニカが動きました。細長いもの。栓の抜けた排水口から伸びたそれは、ユラユラと不安定に水のなかを泳いでいます。蛇かと一瞬、思いました。でも、違いました。その先端にあるのは蛇の頭ではありませんでした。碧依の腕をつかんでいるのは鳥の嘴だったのです。
 嘴が、碧依をつかんで、排水口に引っ張りこもうとしているのです。
 え、嘴はつかまない?
 いいえ、だって碧依の腕に絡みついていたのは指。指、指。人間の指だったんです。鳥の嘴からはおびただしい指の群が這いだし、わらわらとうごめいていました。イソギンチャクっているじゃないですか。海にいる触手を持ったせきつい動物。まさにあんなかんじです。
「あげない!」
 私は泣きながら叫びました。
「あげるものかっ」
 抵抗を続けていると諦めたように嘴が緩み、指がひとつ、またひとつと剥がれていきました。私は碧依を抱きかかえて、後ろにしりもちをつきました。
 みるみる浴槽の水かさが減っていき、大量の水が排水管を流れていく震動がどうんどうんと響きました。
 どれくらい経ったでしょうか。湯はすでに半分ほどまで抜けていました。
 私は我にかえって、碧依の呼吸を確かめます。息がない。
「拓さんっ、拓さんっ……碧依、碧依が……!」
 私は裸のままで拓海の寝室に駆けていきました。
 あれだけ騒いでいたのに、拓海がドアをあけたのは私がドアノブに手をかける直前でした。拓海は錯乱した私と抱きかかえられてぐったりとしている碧依をみて、さっと青ざめました。「きゅ、救急車……」とだけつぶやき、慌ててスマホを取りに寝室のなかに戻っていきます。意識のない碧依を抱き締めながら、私は「ごめんね」と喉を震わせました。ごめんね、ごめん。私のせいだ。私が姉の不幸を願ったから。
 碧依の笑顔が、泣き顔が、頭をかすめては遠ざかりました。
 鮮烈に思いだしたことがあります。碧依が二歳のころです。家事で疲れていたせいで、ちょっとしたいたずらを酷く𠮟ってしまったことがありました。しばらく経って、あんなに𠮟ることはなかったなと自己嫌悪で落ち込んでいたら、碧依がおずおずと近寄ってきました。小さな手で私の服の裾を引っ張って、泣きながら訴えるのです。「まま、しゅき」「まま、しゅき」って。それは「わがままばかりでごめんなさい」も「料理、作ってくれてありがとう。お疲れさま」もまだ言葉にできない幼い我が子の何より雄弁な愛でした。
 可愛い碧依。たいせつな、私のたからもの。
 どうか、許してください。碧依を連れていかないで。いやだ、いやだ、いやだ――



 幸いなことに碧依は一命を取りとめました。
 
 ぺた、ぺた。ちぎっては、貼る。ちぎっては、貼る。
「いい加減にしろよ」
 拓海が私の腕をつかむ。持っていたガムテープが落ちて床を転がりました。リビングの床にはしつようにガムテープの貼られた一角があります。いくつも重ねて、重ねて。霊験あらたかな寺から頂いてきた御札も貼られています。
「だって、排水口をふさがないと」
「異常だよ、水希。台所も風呂場も洗面台も使えない。こんなんじゃ生活できない」
 こんな時でも拓海は落ちついた声を出していました。結婚した時はそんな彼に惹かれたのに、今は腹が立ってどうしようもありません。
 私は激高して拓海につかみかかりました。
「碧依が連れていかれたらどうするの!」
「排水口に? おまえ、変だよ。そもそも、碧依があんな細いところに吸い込まれるわけないだろ? 落ちついて考えろよ」
 碧依はシール遊びだと思ったのか、私たちが口論しているあいだにガムテープを剝がしはじめていました。私はカッとなって碧依の頭をはたきました。
「碧依、あなたのためなのよ、あなたのためにやってるのに! なんでわからないの!」
「おい、やめろよ。碧依が可哀想だろ」
 私の剣幕に泣きだした碧依を抱き寄せて、拓海は諭すような声になる。なんで、今さら父親みたいな振りをするの。
「風呂場の一件がショックだったのは分かるよ。でも、あれは事故だし、そもそも水希がちゃんと碧依をみててやらなかったのがよくないんだよ。正直、排水口がなんだかんだって非現実的な理由をつけて、責任転嫁してるようにしか見えない」
 ああ、やっぱり、この人は私の話なんか聞いてくれていない。碧依が溺死しかけた経緯は話したのに。何度も何度も何度も話したのに。「わかった」「怖かったな」と頷いてくれていたのに。どれだけ話してもダメなんだ。
 私はがっかりしていました。続けて怒りが湧いてきました。
「ねえ、拓さん」
 煮えたぎる激情とは裏腹に私の声は半笑いでした。声の端々がとがって震えています。
「姉さんと、したんでしょ」
 拓海が表情をこわらせました。
 寝起きのトカゲみたいな眼がひらいて、鼻がちょっとだけ膨らむ。あ、お父さんと一緒だ。私の父親もそう。怒りだす直前に鼻が横に拡がるのです。だから拓海を選んだのに。鼻が細いこの男と結婚したのに。
「なんだよそれ」
「姉さんの赤ん坊、あんたの子でしょ。私、知ってる。知ってたんだから」
「やめろよ、そういうの」
「流れてよかったね? あそこの旦那さん、たぶん、疑ってたよ」
 あの晩、姉の旦那は連絡してから二時間ほどで病院まで駆けつけた。ほんとうに遠方まで出張していたんだったらそんなに早く着くはずがない。何より碧依の誕生日は祝日で、出張があるのはちょっと変だった。
「あのさ、どうでもいいじゃん、いま、そんなこと」
「どうでもよくない」
 とまらない。あふれる。あふれる。あふれる。
 詰まった排水管がいっきに逆流するみたいにこれまで溜め込み続けてきたモノが噴きだしました。彼の不倫が発覚したあの晩、便器に吸い込まれていった嘔吐物。消化されかけた焼き魚。酸っぱくなった味噌汁。潰れたご飯。それらが狂暴な激流となって家を浸水させます。
 私の理想の家は穏やかで暖かな食卓の風景でした。でも、もうだめになっていました。
「おまえ、ほんと、おかしいよ。碧依のことだって」
「何がおかしいの」
「遊ばせてる玩具も、着せている服も、変だよ。髪もいいかげん切るころなのに、伸ばしてリボンをつけたりして」
「変じゃない。だって碧依は――」
「それだよ、それ! ……言っても聞かないからずっと我慢してたけどな、碧依の育てかた、間違ってるよ。うちの親も心配してた。碧依のこと、もっとちゃんと考えてやれよ」
 頭が破裂するかと思いました。それから先、何を喋ったのかは覚えていません。私は息もつかずに怒鳴って、彼も怒りだして家を飛びだしていって――気づいたら誰もいないリビングですわり込んでいました。
 ガムテープだらけの床に茶碗が落ちています。夫婦茶碗のひとつ。白地に桜という文様が素敵だねと新婚の時に選んだものです。茶碗はふたつに割れていました。私は笑いがとまらなくなりました。割ったのが私だったのか、拓海だったのか。思いだせません。ただ、壊れていることだけが現実でした。
 茶碗の割れない家に、したかった。
 私は声をあげ、泣きました。
 どれくらい時間が過ぎたのでしょう。日は落ちていましたが、そもそも喧嘩を始めた時に昼だったのか、夜だったのか、不確かでした。碧依のことは拓海が連れていったのかな。そう思っていたら、隣の部屋から碧依の泣き声が聞こえました。
 こんな時でも碧依のこと、どうでもいいんだ。そういえば姉さんとの赤ん坊だって彼は悲しんでなかった。自分が父親だって自覚がないんだ。産んでないから。
 そう考えるとまた、笑えてきました。情緒が崩壊してて、悲しいんだか、おかしいんだか、訳が分かりません。
 これだから男はキライです。碧依を、拓海のように育てるわけにはいきません。
 私の育てかたは間違ってない。何より、碧依のためなのですから。
 碧依の泣き声は酷くなっていました。私は母親です。家庭が壊れても母親なのです。ふらつきながら、碧依のもとにむかいました。
 声は拓海の寝室から聞こえています。そういえば、引っ越してきてから一度も入ったことがなかったなと考えつつ、拓海の寝室に足を踏みいれました。明かりはついていませんでしたが、リビングから四角く切り取られた光が部屋のなかを照らします。
 うす明かりのなかに碧依がいました。
「……え」
 碧依の首が、排水口から突きだしていました。
 その顔は恐怖と痛みで、かたまっています。歯茎が剥きだしになるほどに口をひらいて、まぶためくれあがり、がんからだまがごとんと落ちそうなほどでした。ですが、その眼はもう、生気というものを持ってはいません。
 泣き声はいつのまにか途絶えていました。
 生々しいしやく音ばかりが排水口から響いてきます。料理のあと、野菜くずやご飯つぶ、ひきにくの残りとかさばいた魚のアラでいっぱいになったシンクの排水ネットを、思いきり手で握り締めて水をしぼり取るような。聞いているだけで臭気を感じる音。柔らかいでもなく硬いでもなく。たまにボキリと細いものが折れる音が混ざります。それが何なのか。私は考えたくはありませんでした。
 何も考えたくはありませんでした。
 恐怖って不思議ですよね。警告の段階では別の感情で麻痺するのに、危険が身近に迫った時は愛とか悲しみとかをりようして、針金で縛られたみたいに動けなくなるんですから。
 排水口のすきまから細い嘴がねじ込まれるように這いだしてきました。
 黒い嘴です。嘴のきわには濡れた羽毛がびっしりとついていました。嘴がゆっくりとひらきます。口腔に並んだらんぐいの指が碧依の頭を無造作につかみました。ぐずり。熟れて腐り始めた柿の実を握りつぶすみたいにして、うごめく指が頬にめり込んでいきます。
 なんで――なんでこんなことになったんだろう。何を間違ったんだろう。この家に引っ越したこと? それとも、……ああ、そうか。
「碧依……」
 間違えたのだとしたら、ひとつだけだ。
「ちゃんと女の子に産んであげられなくてごめんね」
 しぼられた肉が弾けた。
 頬骨を砕き。脂肪をね、がいをまるめて。
 家が、碧依をべた。


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