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試し読み

【試し読み】あなたの家は大丈夫?――夢見里龍『奇妙な家についての注意喚起』第一の家・第二の家を全文公開(1/2)

「誕生日、何が食べたい? って碧依に訊いたら、ドムドムハンバーガーだって」
 朝、家族の朝ご飯をつくりながら私がこぼすと、リビングの椅子にすわってスマホを眺めていた拓海が振りかえりました。
「え、マックじゃなくて?」
 カウンター式になったキッチンをはさんで、私は「ほら」と続けます。
「昨年横浜よこはままでいった時、食べたでしょ」
「うちの実家の帰りだっけ」
 拓海の実家は横浜にあります。私は母親と疎遠なため、年末年始は拓海の実家に里帰りするのが恒例となっていました。
「このへん、ドムドムハンバーガーないしなあ。どうしようかな」
「お義姉さんに頼んだら? 去年アピタの跡地に新しい施設が建って県初のドムドムができたって話してたし」
「え、……いつ、そんな話してたの」
「前にきた時、してたじゃん」
 拓海はスマホに視線を戻しました。
 表情は普段と変わりません。ですが、言葉にはよどみがありました。姉が遊びにきた時、拓海はまともに彼女と喋っていなかったはずです。昼ご飯は一緒に取りましたが、私はそんな話、聞いていません。
 なんで、嘘をつくんだろう――
 不信感が湧きましたが、オーブントースターがチンと鳴って、ちょうどパンが焼きあがりました。どこの家庭も朝は慌ただしいものです。朝ご飯の支度に追われて、それ以上問いつめることはできませんでした。
「今日残業は? 夕食、準備するから、先に教えておいてくれたら助かるんだけど」
「ないと、思う」
 拓海はネクタイを締めながら、煮えきらない様子で言葉を喉もとで転がし、一拍ほど遅れて続けます。
「新婚のころは俺がおそくなっても待っててくれたよな」
「だって、碧依の寝かしつけがあるから」
「……なんか、碧依ばっかりだな」
 耳を疑った。親だという意識がないんじゃないのか。
 私はお母さんになったのに、彼はいつまで経ってもお父さんになろうとはしません。
 さすがに言いかえそうかと思ったその時、碧依の泣き声がしました。私が振りかえったそのスキに拓海はそそくさと逃げるように出勤していきました。
 結局午後七時をまわって拓海からラインがありました。「残業になった、夕飯はいらない」とだけ書かれています。私は拓海の分も焼いてしまったスズキの切り身を見つめ、ため息をつきました。
「まんま、まんま! ぱぱ、はあ?」
「パパは今日も帰ってこないんだって。お仕事、大変だからね。ママと一緒にご飯食べようね」
 私は碧依を抱きあげ、テーブルにつきました。焼きたてのスズキを箸で崩しながら、私は家族のそろっていない食卓を眺めます。
 家族の茶碗はきちんとテーブルに置かれています。
 白地に桜が私の茶碗、ピンクの花にアクアブルーのクマさんが碧依の茶碗です。今晩は帰ってくると思っていたので、拓海の茶碗と箸も並べられていました。ひびはおろかかけすらありません。なのに、酷く殺風景でした。
 あれ、私が思い描いていたのはこんな家だったっけ――
「とっと、たべたあい」
 ああ、そうか。旦那はいなくとも、私にはこの子がいる。
「はいはい、待ってね、骨を取るからね」
 碧依のために身をほぐしてやります。小骨ひとつ残らないように。きれいに焼きあがったスズキはみるみるうちにバラバラに崩れていきました。


「やだあ、やああああぁ」
 その晩のことです。私は泣き喚く碧依の声に眠りを破られました。
「碧依?」
「やだあ、やだやだあ」
 碧依は二歳になってから時々、思いだしたように夜泣きをすることがありました。ですがこの晩は普段とは違った鬼気せまる声で、眠気が一瞬にして吹き飛びました。
「どうしたの!」
 私は跳びおき、ペンダントライトのひもを引っ張って明かりをつけました。うちは眠る時には豆電球をつけておく習慣があります。トイレに起きだした時に真っ暗では危ないからです。なのですぐに紐をつかむことができました。
 碧依は布団ではなくフローリングの床に寝転がって、しきりに足をばたつかせていました。短い手で頭を抱えています。まるで髪でも引っ張られているかのように、です。
「ひっぱらないでっ、やだあああ」
「だっ、大丈夫、誰も引っ張ったりしてないよ。へいきだから、ね」
 子どもが錯乱している時に親まで声を荒らげてはいけません。私は抱き寄せ、言い聞かせるように「大丈夫」を繰りかえしました。
 何があったのか。良くない夢でもみたのだろうか。
 碧依はしばらく泣き続けていましたが、次第に荒かった呼吸がすうすうと落ちついた寝息に変わっていきました。私はよかったと胸をなでおろし、碧依の涙を拭きました。その時、カチャンと金属が鳴りました。
 錠が落ちるような微かな音。夜気を震わせたそれは、木材のはじける家鳴りとは明らかに異なっていました。
 排水口の蓋だ、と思いました。
 なぜかは分かりません。ただ、私の頭のなかにはステンレス製の蓋がカチンと、鳥のくちばしのように重なる映像が浮かんで離れませんでした。
 碧依を私の布団に寝かせてから、私は寝室の端にある排水口に視線をむけました。
 引っ越してきた時から私はドア側、碧依は壁側に寝かせていました。例の排水口は壁から二十センチほど離れたところにあります。
 息を詰めて近寄り、蓋を確認しました。
 ステンレス製の蓋はペットボトルのキャップのような回転式になっています。
 しっかりとはまっている。なんだ。気のせいだったのかと思いかけたのが先か、あるものをみて、私は「ひっ」と掠れた悲鳴をあげました。
 蓋から髪の毛の束がはみだしていたのです。
 むしりとられた碧依の髪でした……


 あんなことがあって、どうして寝室で眠っていられるでしょうか。
 異常な量の排水口。床下に張りめぐらされた配管でナニカが息を潜めている。そしてそれは我が子を狙っているかもしれない――それがどれほどの恐怖か。私は眠り続けている碧依を連れて寝室から逃げだし、玄関の側で拓海を待ちました。玄関廊下にも排水口はあります。この家に排水口のない部屋はないのです。
 それでも寝室よりはマシでした。
 ちょっとでも早く拓海に会いたかった。うまくかみあわないことばかりでも、やっぱり不安な時に頼れるのは旦那でした。時計はすでに九時四十五分を指していました。残業は十時ごろには終わるでしょう。それから車を走らせても十一時には帰宅するはず。
 それなのに、いつまで経っても拓海は帰ってきませんでした。電話をかけてもマナーモードにしてあるのか「発信音の後にご用件を」というガイダンスが流れるだけ。
 拓海が帰ってきたのは午前四時をまわった頃でした。
 拓海はドアをあけるなり、度肝を抜かれたようでした。無理もありません。眠っているはずの妻が子どもを抱きかかえながら玄関廊下にすわり込んで、帰宅を待ち構えていたのですから。
 彼は素面しらふで酔っぱらっている様子もありませんでした。
「どうした? 何かあったのか」と尋ねてくれるものと思っていました。ですが、拓海の薄い唇から発せられた第一声は「なんだよ」でした。
「こんな時間まで待ってたのかよ。なあ、あてつけか?」
 違うの。怖かったの。私は素直に訴えようとしましたが、それより先に、胸の底からどぷりと逆流してきた言葉がありました。
「ねえ、残業って、三時まであるの? おかしいでしょう」
 自分のものとは思えない程に低い声が喉を震わせました。
 神経が酷く摩耗していました。午前一時を過ぎた段階で残業ではないことは明白です。二時を過ぎた頃には事故に遭ったのではないか、なんて心配もしていましたが、今となっては全く別の想像が、恐怖を餌にまるまると肥えていました。
「疲れたから会社で仮眠した」
「うそ」
 拓海は眠りに関しては神経質で、デスクとかベンチで眠れるひとじゃない。
「どうしてうそなんかつくの」
「別にいいだろ」
 私を押し退けて、拓海は寝室にむかいました。
「ちょっと待って、話したいことが」
 碧依を抱きかかえた私はリビングまで彼を追いかけましたが、拓海の寝室のドアがぴしゃりと鼻先で閉まりました。
 寝室にかぎはありません。でも、閉じられたドアをひらくことは、できませんでした。
 拓海のなかには「どうでもいい」という箱があります。都合の悪いものはいつだってそこに分類する。この時、明確に、私と碧依はその箱に分類されたのです。いえ、違いますね。ほんとうはもっと前からです。私たちは箱の端っこに引っ掛かって、ぎりぎり箱のなかに落ちずにぶらさがっていただけだったんだ――涙があふれてきました。
 たたずんでいると微かにぎなれた花の香りがしました。姉の好きな香水です。
 不倫だと予感しては、いました。ですが、まさか。
 頭のなかを掻きまわされたみたいに、ぐにゃりと眼の前がゆがみました。家の風景が渦を巻いて、姉のロングスカートがあざわらうように視界の端で揺れます。
 ふわふわのスカートがすとんと落ちる。細い素足があらわになる。私と違って、白い膝。レース飾りの施されたサテンの布地が、素足に絡む。薄い繁みのなか、細いカテーテルばかりを挿し込まれてきたひだが、ひらく。
 うっと酸っぱいものがこみあげてきた。
 私は慌てて碧依をリビングのソファに寝かせてから、トイレへとかけ込みました。便座にしがみついておうする。
 はらわたがひきつって、燃えた。
 時代劇とかでよく使われる「はらわたが煮えくりかえる」ってあんなかんじなんでしょうね。ぐちゃぐちゃのどろどろになった焼き魚が、ふりかけご飯が、汁のわかめが食道を逆流して、排水管へと吸い込まれていきました。


 朝になってから、私は碧依にあれこれと尋ねました。
「昨日は怖かったね」「何があったのか、ママに教えてくれる?」「何に引っ張られたの?」ですが、碧依は一様に頭をこてんと横に倒すばかりで答えてはくれませんでした。
 昨晩のできごとを、すっかり忘れてしまったようです。
 変なトラウマが残らなくてほんとうによかった――
 そうあんするかたわら、私だけが変な夢をみたのではないかとおぼつかない気持ちになりました。蓋に残っていたはずの髪の毛も、朝になって確かめるとなくなっていました。ただ、私は排水口のある壁側に碧依を寝かせるのが怖くなり、その晩から眠る場所を交換しました。
 なかったことになったのは夫婦間のいさかいも同様です。
 拓海は普段と変わらずに振る舞い、私からあの晩の話を持ちだすこともしませんでした。拓海が朝帰りしたことも、私が眠らずに玄関で待ち続けていたことも、なかったことになりました。
 喧嘩はしたくありません。彼が怒りだすことを想像するだけで怖かった。
 あの時、私を押し退けた彼の腕は、とても暴力的なものでした。私は絶対にこの家を、私の実家のようにはしたくありません。思いかえせば、我が家の喧嘩は父親か母親のどちらかがよけいな話を持ちだすところから始まりました。ぎゅっとバルブを締めておけば、何も洩れだすことはないのですから。



 碧依の誕生日、姉は幸せそうにお腹をさすりながらやってきました。
「子どもができたの。妊娠三ヵ月だって」
 まだそれほど膨らんでもいない腹を、いとしげになでる手つきからは新たな命を宿した母親の幸福があふれていました。姉の旦那は出張とのことです。
「ほんとうに嬉しい。ずっとずっと待ってたの。やっと私のところにもきてくれた」
 おめでとう。そう声をかけてあげないと。持ち家を購入した時、姉が喜んでくれたみたいにお祝いしてあげないと。
 私は姉に笑いかけ「よかったね、頑張ってたもんね」と抱き締めました。表情がひきつれていても、抱き締めていたら気づかれません。姉は感極まって私の腕のなかではなをすすりました。
 喉に蓋をしないと。腹の底からこみあげてきた言葉があふれだしそうで――それで、その赤ちゃんって、誰との子なの?
 にぎやかに飾りつけたリビングにはすでにテーブルが埋まるくらいのごそうが並べてあります。ポテトサラダにグラタン、ちょっと奮発したとりももの照り焼きはまだオーブンのなかです。姉に続けて拓海が帰ってきて拓海の実家の親がそろい、碧依の誕生日会が始まりました。
 夢にまでみた持ち家。三歳を迎えた我が子。普段どおりの拓海。孫の成長を喜び、はるばる横浜から腕一杯のプレゼントを抱えてきてくれた義親。新しく母親になる姉の幸せそうな声を聞きながら、私は幸せから最も遠いところにいました。
「どうした、なんか疲れてるみたいだけど」
「そんなこと、ないよ」
「張り切ってご馳走なんかつくったからじゃないのか」
 ご馳走なんか、か。そういえば拓海は私の料理を褒めてくれたことがありません。いつだって、もそもそと表情を変えずにたいらげるだけ。
 碧依は姉の持ってきてくれたハンバーガーを頬張って、「きゃっきゃっ」と弾けるような歓声をあげていました。私の手料理なんかには眼もくれず、ケチャップで手やら口のまわりやらをベタベタにしています。
 姉はそんな碧依を微笑ましげに眺めながら、これみよがしに腹をなでています。結婚から七年経っても妊娠できなかった姉。そのうちの二年は不妊治療を続けていましたが、成果はありませんでした。
 医師から旦那側の検査を促される前から、姉は疑っていたはずです。
 不妊の原因は旦那のほうにあるのではないかと。
 だとしたら、なぜ、姉はいきなり妊娠できたのか。
 妊娠三ヵ月だと姉は嬉しそうに語っていました。三ヵ月前というと拓海が朝帰りしたあの晩と重なります。妹の旦那を盗っておいて、どうしてこんなに嬉しそうに報告できるのでしょうか――
 いったい、いつから不倫していたの? この家にきてから? それとも引っ越す前から? だから拓海は私のことがどうでもよくなったの? 女のほうが可愛くて、子どものことが可愛くなくなったの?
 姉は私が拓海の愚痴をこぼしていた時、どんな思いで聞いていたのでしょうか? 嘲笑ってた? 哀れんでいた? それでも妊娠できなかったら、今の旦那と離婚して拓海と再婚でもするつもりだった? 碧依の親権を奪えば姉さんの理想の家になるものね。だから、碧依をなつかせたの?
 はらわたどころか、頭のなかまで煮えています。暗くてねばりけのあるねつでいの塊がふつふつと沸き、大きなあぶくになって膨れあがる。熱い。熱い泥。それなのに、泥の底は凍えるように冷たい。
「まま」
 はたと視線を落とすと碧依がいました。かみつぶされて一緒くたの塊になったパンとチーズとハンバーグを、ぐっちゃぐっちゃと覗かせながら碧依は口をあけて笑います。
「まま、きょうりゅうさん」
 姉からもらった恐竜の玩具だとすぐに分かりました。食事の前から、私があげたお喋りするクマのぬいぐるみなんてそっちのけで、恐竜でばかり遊んでいました。
「食べてからにしなさい」
 私は𠮟りつけ、碧依の手を払いのけました。
「やだ、いま、遊ぶ」
 碧依は低い鼻にしわを寄せます。泣いてもいいの? とばかりに。そうすれば、なんでも思い通りになるとでも思っているのでしょうか。
「やめてよ、きたない!」
 私の声は家族の食卓に水を浴びせかけるように響きました。碧依が泣きだし、姑や姉が「あらあら」となだめるように寄ってきます。「手、拭いてあげましょうね」姉が碧依の手を濡れたタオルでぬぐってやりました。
 ですが鼻水と涙、涎と一緒に口からこぼれた食べ物のかすを小さな手で拭おうとするのでキリがありません。こんな時にでもハンバーガーは離さないのですから、あきれたものです。鼻水だか、涎だか、分からないものがハンバーガーに垂れて、ねちゃりと腐ったように糸をひきました。ピンクの可愛い服がしみだらけになっていきます。服とお揃いのリボンもほどけかけていて。……せっかくきれいに結んだのに。
 姑は碧依をなだめるため、玩具を渡そうとしました。
「すみません、うちでは食事をしている時には遊ばないように教えているので」
 なんとか冷静さを取り繕って私がそう断ると、姑は「こんな時くらい、いいじゃない。ね?」と碧依の頭をなでました。
 恐竜を渡された途端、碧依は嘘のように笑いだしました。それと引き換えに恐竜はベタベタになっていきます。
 ハンバーガーを食べ終わるなり、手も拭かずに今度はクマのぬいぐるみをつかんで、恐竜と喧嘩させはじめました。このごろ、碧依がはまっている遊びです。私は髪のリボンだけ結びなおして、見るに堪えない遊びから目をらしました。
「子育てっていうのはね、まあいっか、って気持ちでやらないと」
 姑の説教が始まります。
 拓海は我関せずで、食卓の隅で缶ビールを飲んでいました。ああ、この家に私の味方はいないんだな――絶望する私を取り残して、誕生日会は楽しく続いていきます。
 終わりのない姑の説教を聞きながら、私はずっとかけひとつない茶碗ばかりを眺めていました。
 
 
 拓海の実家の親たちは終電で帰宅しましたが、姉は一晩泊まることになりました。
 こういう時のために我が家には客室があります。
「お、借りるね」
 姉が風呂場にむかって、十五分くらい経った時でしょうか。
 風呂場から姉の悲鳴が聞こえてきました。私と拓海はリビングでまだ後片づけをしていました。遊び疲れた碧依はソファに寝かせています。私たちは顔を見あわせました。「水希、聞こえた?」「聞こえた。ちょっと様子、みてくるね」私は姉のいる風呂場へとかけつけました。
「やだ、やだやだやだああ」
 浴室からは姉の錯乱した声と、おぼれているかのように水を激しく跳ねあげる音が続いていました。尋常な様子ではありません。
「姉さん、どうしたの」
「やだああ」
 声を掛けましたが、らちが明きません。幸いなことに浴室の鍵はかかっていませんでした。ためらいながら浴室を覗いた私は「ひっ」と悲鳴を洩らしました。
 湯船が、真っ赤だったのです。
 透きとおった赤ではなく、どろりとした赤でした。月経を知る女の身だから、すぐに分かりました。あれは血です。血に染まった赤い湯が波打っては砕けました。
 姉は振りかえりもせず、青白い背をかがめて、みるみる減っていく赤い湯を懸命に掻きわけていました。持ちあげた白い手指の間から赤がこぼれていきます。あるいは掻き集めていたのかもしれません。だって――
「やだやだあ、やだよおお、私の赤ちゃん、かえして! 持っていかないで……!」
 流産。
 救急車を、と懸命に思考をまわしながら、私は無意識に洗面台の鏡を見ました。そこにはこらえきれない笑いを浮かべて顔をゆがませた私自身が、映っていました――
 
 
 姉は救急車で搬送され、早期流産と診断されました。
 妊娠三ヵ月の段階では母体の行動によって流産するということは考えにくいらしく、片道二時間電車に乗って遊びにきたことは原因ではないとのことです。胎児の受精卵の染色体異常ではないかという医師の診断に対し、姉は「違う、そんなのじゃない」と金切り声をあげました。
「栓が抜けてたの」
 姉は涙で掠れた声で訴えました。
「おなかの赤ちゃんが排水口に引っ張られて。へその緒が突っ張って、痛い! と思ったら、ぶちんって。切られたの。ちぎられたの。ちゃんと感じたんだから。引っ張られた赤ちゃんが叫んだの。『まま』って。『助けて』って。吸い込まれちゃった、連れていかれちゃった、かえして、かえしてよ、かえしっ、かえして」
 姉は段々と語調が激しくなり、最後は過呼吸になってひゅうひゅうと喉を震わせながらも喚き続けました。医師や看護師が落ちつかせようと試みますが、ダメでした。「ご家族は退室を」と促され、私はうす暗い病院の廊下へと連れだされました。
 少し経ってから、急きょ出張先から帰ってきた姉の旦那が慌ただしく廊下を通りすぎていきました。病室から洩れてくる姉の泣き声を聞きながら、私は長椅子に腰かけ、小刻みに背を震わせていました。
 もちろん、恐怖ではありません。
 歓喜です。
 だって、そうではありませんか? 姉の赤ちゃんは産まれてくるべきではないでしょう? 私から奪ったものなんですから。盗んだもので幸せになるなんて、理想の家をつくるなんて、絶対に許さない――
 
 姉は三日後に退院しました。通常の流産では考えられない量の血を流したせいか、貧血等の諸症状はあったそうですが、重篤な後遺症はありませんでした。
 でも、精神のバランスを崩してしまった。
 流産から約二週間経ってから姉の旦那に聞きました。
 風呂を極度に怖がって過呼吸になるので、入浴どころか洗髪すらできないそうです。洗髪は美容室に連れていくこともできますが、暑い日が続くなかで入浴できない彼女の体臭は酷く――実際にはどうか分かりませんが、姉自身が神経質になっているらしく、家にこもり続けているのだとか。
 ところで、風呂の浴槽の栓を抜くと、何があると思いますか?
 そう、排水口です。我が家では数少ないまともなところについた排水口なんです。
 私たちの家には異常な数の排水口があり、床を剥がせば入り組んだ排水管が絡みあい、交尾する蛇のようにもつれあっているはずです。
 そこにはナニカがいます。
 それはどうやら、私の味方らしい……私の願いをかなえてくれたのですから。
 ええ、そうですよ。願いました。妊娠した姉を「よかったね」と抱き締めながら、心のなかでは「流れちゃえ」って。
 でも、違った。間違っていた。
 味方なんて。いなかった。私は間違えた。きちんと怖がるべきだったんです。
 ふしぎですよね。こうふんしている時って、何があっても怖くないんですよ。怒っている時とか悲しんでいる時とか。恐怖という感情がしてしまうんです。
 変だと思いませんか? 恐怖がいちばん本能と密接した、命をまもるための感情であるはずなのにね。
 私があの家に住み続けられたのも、そういうわけなんです。
 今、こうして書き続けられているのもたぶん。


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