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試し読み

【試し読み】あなたの家は大丈夫?――夢見里龍『奇妙な家についての注意喚起』第一の家・第二の家を全文公開(1/2)



 姉が遊びにきてくれたのは桜がすっかり散った、大型連休前のことでした。
 姉夫婦の家は同じ県内にありますが、電車で二時間とそれなりに遠いです。
 姉はヘアサロンに通っているのか、可愛らしいピンクブラウンの髪をして、甘い花の香りの香水をまとっていました。ああ、姉は母親じゃなくてまだ妻なのだとあらためて思いました。うらやましいとは思いません。むしろ、可哀想だなと思ったくらいです。「連休前でよかったあ」と姉は笑い「これ、お祝い。夢、かなったんだね、おめでとう」と大きな紙袋を差しだしてきました。タオルや菓子折。三歳児むけの玩具まであって、家族といっても有難いやら申し訳ないやらで私は終始苦笑いでした。
「ほんとにごめんね、こんなにいろいろ」
 特に玩具のなかにはかなり値の張るものもありました。
 碧依は遠慮なくバリバリとラッピングの紙を破いています。箱まで破りそうないきおいだったので、私が横から「ほら、あけてあげる」と手を伸ばしました。それがいやだったのか、碧依がぐずりはじめます。低い鼻をもぞもぞとうごかして、いっきに老いるみたいにしわを寄せ、真っ赤になる――あ、イヤだなと思いました。
 碧依のことは愛しています。でも、思い通りにならないとすぐに感情をきだしにするところはキライでした。
 わかっています。子どもは感情を制御できません。でも、大人になっても変わらなかったら? そう考えると、うすら寒いものが背を這うのです。
 だって私は知っています。大人になっても、感情を抑制できないひとがいることを。そう、父親です。碧依がぐずりだすたび、私はせかいで最も愛しているいきものが、最も憎悪するいきものにへんぼうするのを感じます。ちぎれないように抱き締めていた花束が、一瞬のうちにムカデや蜂やヒルの絡まりあったどす黒い塊に変わるような恐怖。ひゅっと鳴った私の悲鳴じみた呼吸は、幸い誰にも聞きとがめられることはありませんでした。
「ほらほら、だいじょうぶだよ、おばちゃんと一緒にやろうか」
 姉が碧依に声をかけました。膝に乗せてあやしながら箱を開けてあげます。中身は新しい列車セットでした。
「あ、ごめん」
「いいの、私、子ども好きだから」
 姉は屈託なく笑いました。
 なぜだか、胸がざわつきました。
 そういえば産後、赤ん坊だった碧依を拓海の親戚たちが順番に抱きあげていた時にも似たような不快感を抱いたことを思いだします。子を奪われまいとする母親の本能なのだとか。出産した直後は特に敏感になるのだそうです。でも、碧依はもうすぐ三歳。産後すぐでもないのに。
 引っ越しの疲れがまだ、残っているかもしれません。よく考えたらこのごろは、来年から通わせる幼稚園を探したり旦那の実家の両親がきてくれたりと慌ただしい日が続いていました。一方、拓海も前より職場が遠くなったせいで疲れていて、姉が来ていても午後になるまで起きてきませんでした。
「おさん、きてたんだ」
 ひげらずに寝室から出てきた拓海はおどろいたように声をあげました。
「お邪魔してます」
 姉はニッコリと笑って会釈しました。
「どうぞどうぞ……え、水希は知ってたの?」
「もうっ、昨日の晩、話したじゃない。引っ越しをお祝いしにきてくれるって」
「そうだったっけ」
 姉が碧依を連れてデッキに行ってしまってから、旦那がぽそりとつぶやきました。
「お義姉さん、穏やかでいい人だよな。碧依もなついてたし。ゆるふわっていうのかな」
「そう?」
 割と気の強い、はっきりとした人なんだけどな。
「いつもにこやかで、可愛い系っていうか。ロングのスカートとか穿いててさ」
 彼の視線が一瞬だけ、私のレッグパンツにむけられたのを見逃がしませんでした。碧依を産んでから、すっかりとパンツルックばかりになっていました。
「私は子育てしてるお母さんだから、姉さんとは違うの」
 フワフワしたスカートなんて砂遊びなんかしたらすぐによごれますし、子どもが突然動きだした時に追いかけようとしてすそを踏んだらと考えると、とても身につけようとは思えません。髪の毛はひっつめて、化粧をする暇なんてないのですっぴん。それは素敵なことです。誇らしいことなんです。
 最近はお母さんでも女でいたいなんて聞きますが、私には理解できません。自分を可愛がって小奇麗にしている女より、子ども優先で家庭のために頑張る母親のほうがはるかに素敵だからです。
「そういうもの?」
 拓海は途端にどうでもよさそうな声を出しました。表情は変わりませんが、分かります。つきあい始めた頃は感情の起伏のない男だと思っていたのですが、夫婦として四年も一緒にいれば些細な機微も感じ取れるようになるものです、イヤでも。
 姉がきたということもあって、昼ご飯は張り切ってクレープを焼きました。ホイップクリームとバナナを巻いたり、ツナとレタスにコーンをまぜて巻いたり、碧依はもちろん姉も大変喜んでくれました。
「水希、昔はあんなに料理が苦手だったのにね。姉さん、ビックリしちゃった」
「家族ができたからね」
 ほんとうは今だって料理は好きではありません。独身のころからこまめに料理をつくっていた姉とは違います。でも私には理想があるのです。家族が穏やかに食事を囲んでいる食卓。それが私にとっての『良い家』です。そのためだったら、努力は惜しみません。料理本も読んだし、お買い得な物を探してスーパーをはしごすることもあります。
 同じようにあの家で育ってきた姉にも理想の家があるのでしょう。姉がこれだけ熱心に不妊治療を頑張るのも、姑にせっつかれているから、というだけではなく、姉自身の理想の家の風景に健やかな子どもの姿があるからなのだろうと私は感じていました。
 私にはその全てがそろっています。
 日が落ちて、私は姉を最寄りの駅まで送りました。「またね、姉さん」「うん、今度は碧依ちゃんの誕生日にでも」なんて別れて帰宅すると、拓海はリビングでだらけてテレビを観ていました。連日残業を抱えて働いてくれているんだから――分かってはいても、家事を手伝う気はこれっぽっちもないのかと非難めいた目でみてしまいます。
「晩ご飯、まだ?」
「これから作るから」
 あきれながらキッチンにむかいかけた私は、碧依のことを思いだしました。
 拓海と一緒にテレビでも観ているのかと思ったのですが、リビングのソファに碧依の姿はありませんでした。そもそも拓海が観ているのは残酷な邦画で、人がどんどん射殺されています。とてもではありませんが、碧依が観るようなものではありません。
「碧依はどこ?」
「さっきまでそのへんにいたよ」
「みててくれなかったの?」
「寝室だろ、たぶん」
 先程は飲みくだしたため息がれました。晩ご飯の支度の前に寝室へと碧依を捜しにいきます。
「碧依? いるの?」
 寝室は明かりがついていませんでした。
 玄関廊下には小さなスポットライトしかないため、部屋の明かりがついていないと非常に暗いのです。
 私はうす暗がりのなか、手さぐりで壁のスイッチを探しました。
 約一ヵ月が経ち、新しい家にんだつもりでいましたが、指はなかなかスイッチに触れません。高さが違うのかと指を伸ばしても、ドア寄りだったかと手を引っこめても、木の質感をなぞるばかりで私は段々といらだってきました。
 不意に知らない家の臭いが鼻先をかすめました。
 姉がきていたせいでしょうか。私の、私たちの家ではないような疎外感をきたてられて、背がゾクリと寒くなりました。
 眠り慣れた寝室の暗さが、底知れぬ闇として私の眼前に広がっています。寝室のなかからは湿り気を帯びた空気が不規則に押し寄せてきました。何かが荒い呼吸をしている? 大きな蛇のこうこうを覗き込んでいるような、そんな生々しい想像が頭のなかで膨らんでいました。
 幸いにもその時、指がスイッチをとらえました。
 パチン
 明かりがついて、あの奇妙な妄想は散り散りになりました。
 みれば、七畳の寝室の真ん中に碧依がいます。
「碧依! いたんだったら、ちゃんと返事をしてよ、こんな真っ暗な中で……碧依?」
 𠮟りかけて、私は碧依の様子が変なことに気づきました。
 碧依は奇妙な姿勢でフローリングにうずくまっていました。小さな背をまるめて床に張りつくように耳を押しあてています。瞬きもせず、眼を見開いたまま放心したようにかたまっていました。
「な、何してるの」
 碧依は起きあがることなく、緩慢な動きで短い首だけをこちらにまわしました。びついたバルブを無理に回転させるような挙動。床に張りついたままの不自然な体勢で、碧依はこちらを見上げてきます。黒目がちなひとみがぬらりと光りました。
「まま、なんか、いる」
 舌足らずの、たどたどしい喋りかたで碧依はつぶやきました。
「したに、いる」
 私は総毛立ちました。
「変なこと、言わないの」
「ぐるぐるしてる」
「やめてってば」
 ふつうに「そうなんだ」とか「そうなの?」とか、笑ってかえせばいいだけのことです。幼い子どもが妄想にふけって現実と幻想を取り違えたり、さも現実であるかのように振る舞うのはよくあることで、それにつきあってあげるのも親の役目だと私は考えています。だというのに、取り繕えないほどの拒否感がこみあげてきました。
 やめさせないと。
 私はおおまたで碧依に近寄り、柔らかな二の腕をつかみました。床からひきがすように思いきり引っ張りあげます。
 強くつかんだせいで痛かったのかもしれません。碧依は大きな口をあけて泣きだしました。のどおくは暗く、短い舌がねばつくよだれを絡めて反りかえります。泣き声をあふれさせるその口は私に排水口を連想させました。ごぽごぽと感情という水を逆流させる排水口。どうしてか、私にはそれがとてつもなく、怖ろしいものに感じられてならなかったのです。
 そして思いました。
 先程この寝室の暗がりを覗いた時、蛇の口腔のようだったと表現しましたが、違ったのです。
 あれは排水口だったのだと。
「どうしたんだよ」
 泣きわめく声が聞こえたからか、拓海がうんざりした様子で覗きにきました。火がついたように泣き続ける碧依と、その腕をつかんで棒だちになっている私をみて、彼なりに異常を察したのでしょう。
 拓海はわずかに声をやわらげました。
「外食、いこうか」
 家から連れだし、落ちつかせたほうがいいと判断したのでしょう。彼なりの配慮です。
「前に水希が言ってた回転寿でもいいし、ファミレスでも。碧依はどっちがいい? 回転寿司なら、ほら、碧依の好きなクルマが走るところがあるよ。新幹線とかさ。好きなところに連れていくから」
 場を取りなそうと多弁になっている拓海の声を聞きながら、私は金縛りから解かれたように細く息をつきました。



 変な音がしました。
 その晩、寝室で眠っていた時のことです。こつ、こつ、かり、かりと硬いものがこすれあうような奇妙な音が聞こえて、私は眠りを破られました。騒音と表現するほどに大きな音ではありません。昼間動いていたら、あるいは熟睡していたら気づかないほどの音です。微々たる振動のようなものなのに、異常なほどに神経にさわりました。
 睡眠にかぎっていえば、私は眠りが深くて、どちらかというと拓海のほうが浅眠で小さな物音に神経質でした。拓海の寝室にある時計は昔から連続秒針という静音タイプでしたが、私はそんな時計があることも知らなかったくらいです。
 やはり私は疲れているのでしょうか。
 あの後、家族そろって、回転寿司にいきました。某有名チェーンです。このあたりは海が近いので良い寿司屋はたくさんあるのですが、そういうところにいくのは碧依がもうちょっと落ちついて食事ができるようになってからにしようと決めています。碧依はうれしそうにハンバーグの載ったお寿司を、手づかみで頬張っていました。
 碧依が帰りの車で眠りについたのを確かめてから、拓海が私に声を掛けてきました。
「慣れない環境って疲れるからさ。俺もだけど、水希も疲れてるんだよ。だからちょっとイライラしてるんだろ」
 そう、なんだろうか。そうかもしれない。
「晩ご飯もたまにはコンビニとかでもいいから」
「コンビニ、高いから」
「だったらスーパーの総菜とかさ、なんでもあるだろ」
 私の理想の食卓にそんなものは並んでいないのに。
 でも無理をしすぎていたのは一理あるかもしれません。そんなことを思いだしているあいだにも寝室の異音は続いていました。
 碧依は可愛い顔をして、隣に敷かれた小さな布団で眠っています。起きたらぐずりだすと分かっているので、私は碧依の安眠を妨げないよう、そろりそろりと身を起こして音の出処を探しました。
 途端に何も聞こえなくなりました。
 気のせいだったのかな――
 安心して横になるとまた、こつ、こつ、かり、かりと聞こえるのです。それを繰りかえしているうちに私はその奇妙な音が床から響いてきていることに気がつきました。起きあがると聞こえないのも納得です。
 床下に動物でもいるのでしょうか。集中して探ってみると、異音は緩やかに移動を続けていました。やはり生き物なのです。ですが、床下というよりは床のなか、フローリングのすぐ裏側を這っているように感じました。
 まさか、排水管のなかにいる?
 ねずみにしては動きが鈍い。爪で排水管を引っ掻くような硬い音にまざって、重いものを引きずるような振動が、ずず、ずずと鼓膜を震わせます。
「――――したに、いる」
 舌足らずな声が思いだされました。
 例の排水口は姉に指摘されてすぐステンレス製の蓋を取りつけたので、ねずみや蛇、ムカデなどの虫であれば、部屋に侵入してくるはずはありません。
 でも、そうしたものでなかったら?
 一瞬、血の気が引きました。頭のなかで膨らみかけた怖ろしい想像に、私は慌てて蓋をしました。その晩は音が聞こえなくなる朝まで、一睡もすることはできませんでした。


 翌晩碧依を寝かしつけて、明かりを落とした後、しばらくは緊張して耳に神経を集中させていましたが、あの奇妙な異音は聞こえませんでした。拓海の言うとおり、疲れていたせいで幻聴に見舞われていたのでしょう。調べてみたら家鳴りというものがあるそうです。木造の家は建ててから時が経つと木材が収縮と膨張を繰りかえすため、音が発生するのだとか。昔はようかいのしわざだと語られていたそうで、検索すると時代の浮世絵師であるとりやませきえんの絵がずらりと出てきました。なんだ、昔も今も考えることは変わらないのね、なんて思いながら、私は気持ちを落ち着かせていきました。
 それきり変わったことはなく、約二ヵ月が経ちました。
 引っ越してきた頃はかわ桜の見物にでもいこうかなんて話していたこともありましたが、慌ただしくしているうちに大型連休も過ぎて、夏の気候に変わっていました。このあたりは夏でも涼やかな風が通ります。私たちの家は海までは十キロほどあるので潮風は吹きませんが、山から風が吹きおろすと暑さがやわらぎ、六月下旬になっても窓をあけておけば寝苦しいということはありませんでした。姉夫婦の家がある某市は年々暑さがひどくなっているらしく「そのうち日本一暑くなるんじゃないの」と電話越しにうんざりしていたので、私はひそかな優越感を抱いていました。
 晴れ晴れとした青空とは裏腹に、私の心は曇っていました。拓海のせいです。梅雨明け後、碧依を連れて海にでも出掛けようかと計画を練っていたのですが、拓海が毎度「今週は疲れているから」といって延期続きとなっていました。碧依は碧依で、拓海と遊びたいとせがみ、私を困らせました。私は折り紙やお絵描きなどをさせたいのですが、碧依は拾った棒でチャンバラや縄跳びをやりたがります。そんなやんちゃな遊びをして、怪我でもしたらどうするのでしょうか。きわめつけには「まま、すぐにおこるんだもん」です。拓海はその時こそ「そうだよなあ」と碧依を抱きあげ、ちょっとかまってやったりはするのですが、後から私に「碧依がうるさくて眠っていられない」と愚痴を言うので、休日のたびに朝から私が碧依を連れださなければなりませんでした。そのくせ午後からは「息抜き」といってバイクに乗って峠を走りにいくのですから納得いきません。
 もちろん、家事はやりません。そのくせ文句だけはつけるのです。
 碧依を連れて温泉リゾートに出掛けてきた帰りです。その日は雨が降っていて、拓海もツーリングは諦めたようで家にいました。帰ってくるなり、拓海は「おかえり」とのひと声もかけずに言いました。
「家の掃除くらい、ちゃんとやってくれよ」
 指を差されたのは玄関をあがったところの廊下でした。靴箱のすぐ側に水たまりができています。「どうせ水きしてて拭き忘れたんだろ」と彼はため息をつきました。モップでの水拭きでこんなにらすことはありません。
「困るよ、家のことはまかせてるんだから」
 床が濡れていたことより、私たちが帰ってくるまでそれを放っておいた拓海の神経が、私には信じられませんでした。だってそうでしょう? この家は家族の家。私の家でもあり、彼の家でもあるんです。
 それなのに、なんでこの人は拭いておいてくれないんだろう?
 日が経つごとに不満はひとつ、またひとつとまっていきました。
 ささやかな不満ばかりです。けんするほどのことではありません。排水管の微かな亀裂から小さな水滴がほつと噴きだして、管をつうと濡らす程度の。それでもそのしずくが家を腐らせ、傾けていくのではないか――そんな不穏な想像が頭をぎり、私はとつにその思いを振り払いました。
 結婚して四年も経てば、不満が募るのはどこの夫婦だって一緒です。現に、姉のところだってそうではありませんか。電話をすると旦那の愚痴ばかり。これは家鳴りみたいなもの。私はそう考えるようにしました。


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