デジタルリセット

夕暮れ時に見た夢は、絶望の色をしていた。『デジタルリセット』試し読み#5
第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作『デジタルリセット』
書店員さんたちの圧倒的な支持を受けて、第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉を受賞した『デジタルリセット』の冒頭を特別公開。理想の環境を求めて自らの基準にそぐわないものを殺しては次の人生を始める=「リセット」を繰り返す、新たなシリアルキラーの恐怖をご堪能ください!
『デジタルリセット』試し読み#5
──二〇一八年七月二〇日 午後六時五〇分
その日、孝之が事務所に戻って来たのは午後七時少し前だった。表の駐車場に営業車を停め、そのまま運転席でリクライニングを少し倒し、ヘッドレストに頭を預けて目を閉じ、疲れに身を任せた。全く経験がなかった営業もそろそろ板についてきたのか、疲れが心地良い。
自己陶酔の湖をしばらく泳いだ後、うっすら目を開けるとセピア色に染まった残照の中、前方の歩道を五歳くらいの男の子を真ん中に、親子三人が手を
男の子は「Y」の字に両手を広げ、両親がその手をしっかり握っている。男の子が地面を
孝之が
──たかが一センチじゃないか。
しかし、その一センチが孝之にとって幸福と絶望の境界であり、永遠に埋まらない空間であった。絶望的な思いになりながらも、
コンコン
少し間を置いて、
コンコン
その音は少し強くなった。
孝之は目の前の写真を手に入れれば幸せになると信じ込んで、必死で伸ばした手が空中を
ドンドンドン
振動を伴う音がした。その振動で瞼の裏の光景にヒビが入り、砕け落ちた。ハッと我に返り、運転席側の窓を見ると外に誰か立っている。窓から顔は見えないが、タイトな
誰? 孝之が顔を確認しようとした時、女性の方が
辺りはセピア色の残照から薄い闇になっていたが、駐車場は二基ある外灯で明るい。夜風が孝之の茶色っぽい真直ぐな髪の毛をサラサラと流し、うっすら汗の浮いた顔を
「お帰りなさい。随分とお疲れの様子ね」
由香がニコッと微笑んで首を横に傾けた。傾けた方向にボブカットの髪がフワリと揺れ、
「ウトウトしながら、夢の中で営業日報を書いていたよ」
寝起きで気の利いた返事ができない。
「ウトウト? 爆睡よ、爆睡。エンジン音がしたんで、タカさんが帰社したって分かってたんだけど、いつまで経っても降りて来ないんだから」
由香はエンジンを切った車内に長時間
孝之はスーツの上着を右肩に掛け、左手に営業カバンを提げて正面玄関に向かって歩いた。後からついてくる由香のパンプスの音がコツコツと聞こえる。
由香は広報担当で、亡くなった洋子の部下だった。元々は広告代理店のウェブデザイナーであったが、村岡の誘いで、孝之とほぼ同時期にグレース不動産へ転職して来た。今の所属は西宮営業所だが、会議で本社に来ることもよくある。
孝之が背後の由香に向かって顔だけ振り向いて聞いた。
「ところで、今日は本社に何の用件だったの?」
「広報企画会議よ。各営業所長さん達と打ち合わせ。新しい賃貸物件のサイト用データを
「ゴメン。見落とし」
背後から、ふふふ、と由香の笑い声が聞こえた。
勝気な性格の由香らしい、箇条書きの回答だ。広報企画会議は各営業所長や広報担当が本社に集まってネット広告に関する打ち合わせを行う。由香は全社のウェブ系広報の主担当のため毎回出席している。打ち合わせと言うと聞こえは良いが、要はネット上の限られたスペース、写真枚数などリソースの分捕り合戦である。それを仕切るのは由香だ。百戦錬磨の営業相手に、孝之より五歳ほど年下の由香は若過ぎるようだが、全く問題ない。村岡も孝之も適任だと思って任せ切っている。
転職した当時、孝之は由香から敬語で話し掛けられ、目上の者に対する儀礼的な気遣いを感じた。
「由香さんさぁ、転職同期なんだから、敬語じゃなくていいんじゃない?」
と言うと、あっさり、
「それもそうね」
と、友達言葉で答えた。孝之は今でもそのやり取りを思い出しては
孝之は表扉を開け、閉まらないように身体で押さえ、由香が入るのを待った。由香は孝之の厚意に
エアコンの効いた社内に入った孝之は自席に座り、すぐパソコンの電源を入れた。
本社はシステム化の結果、要員が減り、座席が余っている。由香は本社に来た時に使っている、入り口から一番奥の大型の机に戻った。サイトデザインのラフスケッチから制作、各営業所へのレビューも含めて由香が一人で担当しているため、この時期は残業時間が
由香は机一杯に拡げた資料のうち、整理済み分を束ねながら、孝之を見た。孝之の席は前の列の窓際である。隣の椅子の背もたれに上着を掛け、広い背中が少し前屈みになっている。留守中に届いたメールをチェックしているようだ。
由香は残りの会議資料の整理を始めた。各営業所の要望事項をまとめていると、
「営業所からのデータの受け取りは終わったの?」
目を上げると、一段落着いたらしい孝之が椅子ごと身体を横に向けて由香を見ている。
「いいえ、まだよ。賃貸物件の画像データが大きいのよ」
由香は資料作成と並行して、別のPCを使って、データのコピーを行っている。
「そうかぁ、データの受け渡し方法も考え直さないとなぁ」
常に業務改善を考えている孝之らしいことを口にした後、ふと思い出したように言った。
「海岸通りと国道の
「知らないわ……でも……車じゃないと行くのに不便な場所ね」
由香は内心可笑しかった。
──ハッキリと誘えばいいじゃない。
今まで何度か孝之に誘われて二人で食事に行ったことがあるが、その都度「食事に行こうよ」のセリフまでのプロセスが同じなのだ。
孝之の言う
孝之がストレートに誘わないのは、孝之なりに気を使っているのだろうが、由香には何となくもどかしい。
「じゃあ今度、『飲めない君』誘って、帰りに本社に寄るわ」
由香の営業所にお酒の飲めない若手社員がいる。顧客との会食や飲み会の都度、運転手代わりに連れて行かれ、帰りは上司全員を自宅に送り届けた後やっと最後に自宅に戻ることができるのだが、毎回文句も言わずに任務のように同行している。言ってしまってから、由香は胸につかえていたものが流れた反面、由香だけを誘った孝之に対して意地悪な返事をしたことを後悔した。
チラッと孝之の顔を見たが、孝之は何食わぬ表情をしている。
「『飲めない君』って
孝之もメールをチェックしながら、事務的に答えた。
──大人なんだ。
「私からメールするわね。
「ん? どちらでもいいよ。ところで、今日はまだ仕事?」
孝之の素っ気ない返事で、由香の独り相撲は終わった。
「そうね、かなりかかりそう。
由香が営業車で帰った時には、九時を回っていた。一人残った孝之は、顧客からのメールへの返信や、各営業所の業績資料を作成した。近隣地域の不動産価格の調査を済ませると時刻は十一時前であった。
孝之は両手を頭上に突き上げると、椅子に座ったまま、
「うー」
声を出して上体を反らした。今日のノルマをやり終えた充実感に満ちている。軽く目を
孝之が廊下の硬い床を革靴で歩く音がカツカツと建屋に響く。突き当たりのドアを開けた。倉庫の中は真っ暗であるが、外部との出入り口近くにある冷凍室からはブーンと低い振動音が聞こえて来る。孝之はしばらく、暗闇に響く冷凍室の振動音を聞いていた。
その夜、人気のなくなった「グレース不動産」本社社屋の冷凍室からは何か異様な音がしていた。固い物同士が擦れ合うような音がシュッ、シュッ、と二~三秒間隔で、規則正しく、深夜まで続いていた。
(続きは本書でお楽しみください)
作品紹介・あらすじ
デジタルリセット
著者 秋津 朗
定価: 792円(本体720円+税)
発売日:2021年12月21日
第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作!
許すのは5回まで。次は即リセット――。理想の環境を求めるその男は、自らの基準にそぐわない人間や動物を殺しては、別の土地で新たな人生を始める「リセット」を繰り返していた。
一方、フリープログラマーの相川譲治は、シングルマザーの姉親子の失踪に気付く。姉と同居していたはずの男の行方を追うが……。
デジタル社会に警鐘を鳴らすシリアルキラーが誕生! 第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作。
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