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試し読み

【試し読み①】人々が集う美味なビストロ。読書メーター読みたい本ランキング月間1位のグルメミステリー!

読書メーター読みたい本ランキング

日間、週間、月間1位!三冠達成!!

ゲストが求めるものを提供し、心も体も癒すオーダーメイドのレストラン。主人公で元役者のギャルソン・隆一の成長も描かれる、お仕事グルメミステリー!
シリーズ最新刊の刊行にあわせて『ビストロ三軒亭の美味なる秘密』の試し読みをいたします。



プロローグ


「桜の花が散るときは、レの音がするんだね」
 そんな風に、薄桃色の花びらが散る様を表現した女の子がいた。
 あれは三年ほど前だっただろうか。隆一りゅういちの自宅近くですれ違った愛らしい少女が、歌うような調子で言ったのだ。彼女の手を引く母親が「そう聞こえるのね」と、聖母のごとくやさしくほほ笑んでいたのを覚えている。
 共感覚、と呼ぶらしい。
『ひとつの刺激が本来の感覚以外の領域の感覚をも引き起こすこと』と、辞典に載っていた。たとえば、あの少女のように花が落ちる気配を音階として認知するとか、何かの音を聞くと色が見える、とか。
 その芸術的とも言える感覚に憧れた隆一は、桜の季節になるたびに、自分にも音が聞こえるのではないかと耳を澄ます。しかし、花びらが落ちるのをじっと待っていても、目の前に舞い降りてきても、音を感じたことは一度もない。
 ──今日だってそうだ。
 やっぱり僕って、平々凡々な人間なんだよな……。
 胸中で自嘲気味につぶやいてから、左袖の上に着地した花びらを右手でつまみ、それを捨てるべきか持ち帰るべきか逡巡する。
 花びらが着地した左腕は、焼きたてのバゲット入りの紙袋を抱えていた。腕から伝わる温もりと香ばしい香りが、ほのかな幸せを運んでくる。
 このバゲットは、世田谷区・三軒茶屋さんげんじゃやに隣接する街、三宿みしゅくにある超人気パン屋の名物だ。
 低温長時間発酵で小麦の香りを高く引き出した、中はもっちり、外はパリっとしたバゲット。隆一がギャルソンのアルバイトをしている『ビストロ三軒亭さんげんてい』で、今夜だけ特別に提供するのだ。いつもは別の店から焼きたてパンを届けてもらうのだが、予約客からリクエストがあったため、隆一が三宿まで買いに行ったのである。
 いつものパンも美味しいけど、ここのも最高なんだよなー。甲乙つけがたい。
 ……あ、そうだ。パンを入れる小皿に、桜の花びらを飾ったらどうかな。洗って清潔にした花びらを白い皿に敷き詰めて、その上にガラス皿を置いたりして。季節感があっていいんじゃないかなあ。シェフの伊勢いせさんに相談してみよう。
 桜とパンを巡った思考に終止符を打ち、花びらを薄地のコートのポケットに入れて歩き出す。
 三軒茶屋と下北沢しもきたざわを結ぶ〝茶沢ちゃざわ通り〟の裏路地に足を踏み入れると、目指していたビルの入り口に人影があった。女性が一人、佇んでいる。
 ──コトリ、と心臓の辺りで音が鳴った気がした。
 夕焼けの光が、彼女の長い黒髪を照らす。濃い緑色のロングカーディガンの裾が、春風でたなびいている。肩から下げた紺色のキャリーバッグから、小さな黒い頭が覗いている。犬。黒いパグだ。
 笑んでいるような口元から、ピンクの舌がペロリと出ている。ハート形のトルコ石がついた、茶革の首輪に見覚えがあった。名前は、〝エル〟ことエルキュール。アガサ・クリスティーが生んだ稀代の名探偵、エルキュール・ポアロから取った名前だ。
 エルのシワに覆われた顔先を、薄桃色の花びらが通過する。つぶらな瞳でそれを追い、ペチャンとした黒い鼻がクンクンと動く。抱えている女性は、ビルの五階の辺りをじっと見上げていた。
 そこには、『ビストロ三軒亭』が入っている。窓には夕日が反射しているため、中の様子を見ることはできないが、スタッフたちが開店の準備をしているはずだ。
 いかつい顔つきなのにオネエ言葉を話すソムリエの室田むろたしげるが、バーカウンターでグラスを磨いている。いや、室田はソムリエ以外の仕事もこなせるマルチプレイヤーなので、厨房の仕込みを手伝っているかもしれない。
 隆一の先輩ギャルソンで元医大生のメガネ男子・藤野ふじの正輝まさきは、テーブルセッティングが完璧になるように整えているだろう。同じく先輩の岩崎いわさき陽介ようすけは、サッカーで鍛えた肢体をフルに動かし、店内を駆けずり回っているはずだ。
 そして、三十三歳の若さで店を切り盛りするオーナーシェフの伊勢優也ゆうや
 厨房の真ん中で長めの髪を後ろで束ね、調理ナイフを手に侍のごとく高潔なオーラを放っているであろう彼は、名探偵ポアロのファンで……あの黒いパグ、エルの名付け親だ。昔、伊勢がまだシェフの修業中だった頃、同棲していた恋人と一緒に育てていたのがエルで──。
 隆一の記憶が蘇る。
 とても切なくて儚くて、胸の奥が締め付けられるようなラブストーリー。お互いを想い合いながらも、離れ離れになってしまった彼と彼女。
 その話は、まだ結末を迎えていない。

 神様、お願いします。どうかあのストーリーに、最高のハッピーエンドを……。

 強く乞いながら、隆一は相変わらずビルの前で動かない女性に近寄り、そっと声をかけた。


>>第2回へ

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書誌情報>>斎藤 千輪『ビストロ三軒亭の美味なる秘密』
わけありの人々が集う美味なビストロ。ギャルソンとシェフが心の謎を解く!


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