【連載小説】滔々と理想の未来の話をする翔太。それでいて、不都合なことは一切語らない彼に、夢は――。こざわたまこ「夢のいる場所」#5-4
こざわたまこ「夢のいる場所」
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※本記事は連載小説です。
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「たまにサボりにくるんだ、ここ。俺の担当エリアでさ。結構穴場」
そう言って、翔太は自販機で買ってきたらしいペットボトルを私に向かって差し出した。自分の分の缶コーヒーを片手に、同じベンチに腰かける。ありがと、とそれを受け取り、ぐるりと辺りを見回した。乱立するビルの隙間に急に現れた、エアポケットのような公園だった。すぐ近くでは、小学二、三年生くらいの子ども達が所狭しと走り回っている。
「ていうか夢、投げ銭とかするタイプだっけ。なんか意外」
え、と顔を上げると、翔太が、さっきの路上の、と言いながらプルタブを開けていた。
「やさしいんだな」
「別に、そんなんじゃ」
私が言い返すより少し早く、「俺はああいうの無理」と言いながら、缶コーヒーに口を付けた。こんなこと、前にもあったなと思い出す。いつのまにか、ホットドリンクよりも冷たい飲み物が似合う季節になっていた。
「俺、命かけてます系の音楽、聞けなくなっちゃったんだよな」
命かけてます系って、と聞いてみると、翔太は「ほらなんか、最近ああいう感じのミュージシャン増えたじゃん。俺のリアルを
「お前自身のリアルとか、誰も興味ねーよって思っちゃってさ」
そう言って、早くも飲み切ったらしいコーヒー缶をぐっと握り締める。翔太の横顔のこめかみの辺りに大きく、擦ったような傷が残っているのが見えた。生々しいその傷跡は多分、決起会の時にできたものだ。翔太はこれを、職場の人になんて説明したんだろうか。
「……わかるよ」
そう呟くと、翔太が驚いたような表情で私を見つめ返した。同意が返ってくるとは思っていなかったのかもしれない。
私も翔太と同じだ。ギターをかき鳴らす彼を見て、すごいな、とか、いい曲だな、とか思うよりもまず先に、またこのパターンか、なんて考えていた。自分の半径五十センチ内で起きた出来事にのみフォーカスした、自分だけのリアル。自分の醜さも惨めさもみっともなさも、すべてをぶつけた魂の歌。
彼は自分の曲の中で、本当のことしか歌いたくないんだ、というようなことを繰り返し口にしていた。私が今よりもう少しだけ若かったら、あの歌に心を動かされていたのかもしれない。でも、違った。そういうものを正面から直視して感動できるような感性は、随分昔に
今思うと、最後の千円はそんな私から彼への
『……えっと、今お聞きいただきましたのは、フラワーカンパニーズで、深夜高速でした。もはや親世代のバンドの曲なんですけど。えっと、次は僕が音楽を始めた時に、初めて練習した曲で──』
すぐに
「……それ、飲まねーの」
翔太に言われて、ああ、と気づいた。慌ててさっき貰った飲み物の蓋を開ける。ペットボトルに口を付けると、人工甘味料のねばっこい甘さが舌を流れて、市販のミルクティー独特の香りがふわりと鼻の奥に広がるのがわかった。
「最近、でかいオーディション受けたんだって?」
「え?」
「なんか、風の
すげーよな、と翔太が言うので、ああ、と頷く。
「あれね、落ちちゃった」
「え、マジか」
それを聞いた翔太が、しまった、と言うように口を噤む。
「ごめん」
謝らなくていいのに、と思った。
「諦めずに、また受けろよ。夢なら絶対いけると思うし。夢は俺の知り合いで唯一のゲイノウジンなんだからさ」
「……うん」
翔太の言う「ゲイノウジン」の肩書きも、今年いっぱいで捨てなければならない。今日は、オーディションの結果というよりも最後の話し合いのために事務所に呼ばれていた。小柳さんは、私に不合格の結果を伝えたのと同じ口で、今年いっぱいでの契約の終了を告げた。私の事務所への貢献度から考えれば、当然の結果だった。
私はどうしてか、翔太にその事実を伝えることができなかった。ふと顔を上げると、さっきまで目の前を走り回っていた子ども達は、いつのまにかごっこ遊びに夢中になっていた。子ども達の間には、「謎は解けた」とか、「親の
すると、その様子を見ていた翔太が突然、こんなことを言い出した。
「俺今、会社辞めようかと思ってるんだよね。……驚いただろ」
私の沈黙をどう受け取ったのか、翔太はそれから、いくつかの「未来への展望」を語り出した。アキ兎を解散して、新しく劇団を立ち上げようと思っていること。今考えている劇団の名前や、新しい舞台の構想。サークルの後輩達の中に、次の舞台にぴったりな役者がいること。それらは今の翔太が思い描く、翔太がこうであって欲しかったと願う、翔太のための物語だった。
反対に、翔太の口からは絶対に語られない物語もあった。あの日、決起会の会場で起こったこと。演劇祭のことや、本番のこと。あれからずっと、稽古が滞っていること。萌々ちゃんの他にも、降板を希望する役者が出てきていること。平日の昼間に、翔太がこうして何時間も仕事をサボっていること。さっきから何度も、翔太のポケットがスマホの着信で震えていること。
ふと自分の足元に視線を落とすと、薄汚れたスニーカーが目に入った。有名なキャンバススニーカーにデザインを寄せた、量産型の安物だ。これが何年前に買ったものなのかも思い出せない。買った時には、お気に入りだった気がする。キャンバス生地は色あせ、ソールについた傷や汚れは何度丁寧に洗ったところで取れそうにない。
どうでもいい日の外出は、大抵この靴を履く。宅配便を受け取る時や、近所のコンビニに出かける時。いつだって取り替えがきくはずのこの靴は、決定打がないからやっぱりなかなか捨てられない。
そのスニーカーが、翔太の語るハリボテの未来と重なって見えた。
「ていうかさ、舞台でいいなって思った役者、全員映画とかドラマで見ると大したことなくね? あれって、なんなんだろうな」
「俺さ、それ小劇場マジックって呼んでんの。残酷だよな。みんなそのマジックに乗せられて、自分だけは特別かも、とか思っちゃうんだろ? ほんっと馬鹿。冷静に考えてわかるだろ。小劇場なんて、所詮そのレベルだって」
「あいつらって、二十年後、三十年後どうするつもりなんだろう。四十、五十にもなってフリーターで夢追ってるとか、正直痛くね? 病気とか借金とか親の介護とか、絶対出てくるわけじゃん。その時にちょっと演技ができますとか、ちょっと脚本が書けますなんて、何の役にも立たないのにな」
翔太の夢物語であったはずのそれは、いつしか翔太自身の物語ではなくなっていった。翔太が思い描く、翔太がこうであって欲しいと願う、あるいはこうでなければいけないんだと望む、翔太ではない誰かの物語へとすり替わっていった。
「それわかってて今の生活続けてんのかな。だとしたら、超浅はかじゃねえ?」
翔太は喋り続けた。
「あんな奴らより、俺の方が百倍面白い劇作れんのにさあ。なんで俺、サラリーマンなんかになっちゃったんだろ。もったいないと思わねえ?」
いつまでも、喋り続けた。多分、見たくないものを見ないようにするために。そして、聞きたくないことを聞かないようにするために。
「ていうかまた、ビューティフル・ドリーマーの時みたいにやりたいよな。夢なんか追わずに、ちゃんと現実見たまま、作る劇の面白さだけであいつらの夢──」
「翔太、なんでハスミレンタロウのこと殴ったの?」
一瞬、この世界が静止してしまったのかと思った。翔太の動きが止まる。どこからか消防車のサイレンが聞こえて、またどこかへと遠ざかっていった。いつのまにか、辺りが随分暗くなっている。
「ずっと、知りたかったの。なんで、翔太があんなことをしたのか」
重い雨雲に覆われた空は今にも泣き出しそうな顔で、でも必死でそれを堪えているように見えた。
「サラリーマンなんか、できない」
翔太の唇が
「言ったんだ、あの人。僕には絶対、サラリーマンなんかできないって」
「……それが、殴った理由?」
そう呟くと、翔太は「馬鹿みたいだよな」と自嘲的な笑みを浮かべた。
「今日子からハスミさんが来てるって教えられて、俺興奮しちゃって。会う人会う人にファンだって言いまくってたら、周りが気ぃ遣ってくれてさ。実行委員の人が俺のこと、紹介してくれたんだ。最初は嬉しかったよ。あの作品よかったですとか、学生の時から通ってましたとか、何言おうって。でも席に着いて、すぐわかった。ああ、この人、俺がいちばん苦手なタイプだって。自分がいかに傷つきやすくて繊細で、社会性がなくてコミュニケーションが不得意で、アルバイトも続かなくて。けど演劇にだけは救われたとか、演劇があったからここまでやってこられたとか、そういうくだらない思い出を才能の一部だと思ってる、そういう奴らの一人なんだって」
話しながら、翔太の目が少しずつ濁っていくのがわかった。
「俺、あの人に聞かれたんだ。普段は何やってるんだって。だから俺、言ってやった。毎日毎日同じ時間に起きて、朝から満員電車に揺られて、ジジイに無駄に舌打ちとかされて、やってもいないミスを俺のせいにされて上司のくだらねえ説教聞かされて、後輩になめられて、客に謝って、謝って、謝って、定時に帰って嫌味言われて、それでもたいして給料貰えなくて、貯金とか将来とか結婚とか、そんなの全然考えられなくて。そうやって生きてますって。ハスミさんみたいな人には考えられないですよねって。そしたら」
出てくるはずの言葉が喉の途中で引っかかってしまったように、一瞬だけ翔太の言葉が詰まった。
「そしたら、すごいって。あの人、言ったんだ。ほんとにえらいと思う、僕には一生できないって」
そんなこと、これっぽっちも思ってないくせに。言いながら、翔太がくしゃりと顔を歪ませた。
「なんだよ、僕にはできないって。俺だって、ほんとはできねーよ。できないけど、
遠くの空がわずかに光って、分厚い雲の向こうからごろごろと地鳴りのような音が聞こえた。
「あいつら結局、俺みたいな人間のことなめてんだよ」
小学生の子ども達は、いつのまにか遊ぶのをやめていた。空を指さして、雷だ、と叫ぶ。
「ふつうなんて、サラリーマンなんて、ほんとはつまんねー仕事だと思ってんだ。くだらない人生だと思われてんだよ。だから俺は」
「そう思ってるのは、翔太だよ」
一瞬、誰の声だかわからなかった。遅れて反響するやまびこのように、遠くから自分の声が聞こえていた。まるで、舞台に上がっている時みたいに。客席には、ぽかんと口を開けたままの翔太がいた。
「翔太が誰より、自分の仕事をつまらないって思ってる。くだらないって、なんでこんな仕事やらなくちゃいけないんだって思ってる。自分がいちばん、自分を
翔太は、何を言われているのかわからない、という顔で私を見つめていた。
「そんなわけ、ないじゃない。できないことをできるようにして生きていくことが、つまらなかったり、くだらなかったりするわけないじゃない」
これは、翔太の「見たくないもの」だろうか。それとも、「聞きたくないこと」だろうか。
「ずっと、考えてたの。夢はいつまで見られるんだろうって」
膝の上で横になったままのミルクティーが、たぷりたぷりと揺れている。私の
「でも、今わかった。私達これまでずっと、現実を見るようなふりしてこっそり夢を見てたんだなって。いつまで中途半端な状態のまま、こうして生きていけるんだろうって。そんな時間、どうせいつか終わっちゃうって。長くは続かないってわかってたのに」
砂糖が入った飲み物は最近あまり好きじゃない。飲むと、頭が痛くなるから。本当は随分前から、そうだった。でも、翔太の前では平気なふりをして飲み続けた。だって、翔太の中で私はミルクティーと決まっている。これまでも、これからも、ずっと。
「でもそんな時間、本当はもう終わってたの。それに気づかないふりしてただけなんだよ」
私が否定しない限り、翔太は永遠にそれを信じ続ける。
「終わったんだよ。ビューティフル・ドリーマーはもう終わったの。私達、ずっと学生でいられるわけがないじゃない。変わらないものなんてないんだよ。翔太だけが、それに気づいてない」
その瞬間、小さな水滴がぽつりと頰を打つのがわかった。
「……だからもう、終わりにしようよ。私もそうするから」
ぽつり、ぽつり、ぽつり。地面が水玉模様に
つづく
※次回は12月号に掲載予定です。