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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.61

こういう書き手を待っていた!――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『首ざむらい 世にも快奇な江戸物語』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

由原かのん『首ざむらい 世にも快奇な江戸物語』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、老練かつ瑞々しい一冊。

 そうだ、由原かのん。あなたのことをずっと待っていたのだ。
『首ざむらい 世にも快奇な江戸物語』(文藝春秋)は、第九十九回オール讀物新人賞受賞作を含む由原のデビュー短篇集である。表題作の「首ざむらい」は『オール讀物』二〇一九年十一月号掲載時は「首侍」という題名だった。読んで、あらら、なんとおもしろい小説なんだろう、すごい才能が出てきたな、と思ったものである。新人賞受賞作で、しかも短篇でここまで印象に残るものはそれほどない。一口で言えば、最初から商業作品として完璧であった。短篇なのでどこにも書評のあてがなく、本になったら書こう、と決めた。これだけの実力だから、すぐに一冊分ぐらい書いてまとめてくれるだろうと思っていたのだ。
 ところが、出なかった。途中で『オール讀物』に短篇が掲載されたが、出ると思っていた二〇二一年中には本にまとまらなかったのである。おかしい、あんなに完成度の高いデビュー作だったのに、なんで後が続かないんだろう、と不思議に感じた。そのうちに二〇二二年が来てしまい、由原の短篇はぱったりと『オール讀物』に載らなくなった。ああ、出ないなあ、と思いつつ自分がこの作家の本を待っていることさえ忘れてしまった時に。
 出たのである。
『首ざむらい』が出た。不意討ちをくらったような気持ちである。もちろんすぐに読んだ。読めば記憶が蘇ってくる。そうだ、こういう小説だった。新人らしからぬ文体の個性が既に備わっている。手触りが違う。既製品にはない特徴がところどころにある。ここは作者が苦しんで書いたのかな、とか、この表現を思いついてきっと嬉しかっただろうな、とかいうような文章をあちこちに見つけることができる。こういう小説を読む行為は楽しい。実は表題作を読んだのは、JR鹿児島本線に乗って八代駅から熊本駅に移動している車中であった。馴染みの薄いローカル線に乗っているのだから降り間違えないようにしなければならない。初めは気にしながら、時折停車駅名を確認しつつ読んでいたのだが、そのうちにどうでもよくなってきた。話に没頭したくなってしまったのだ。それで面被りクロールのように顔を伏せて読んだ。ふと気が付いて顔を上げると、熊本駅に着いていた。慌てて降り、ホームで残りの数ページを読んだ。
 幸せな読書体験を約束できる。「首ざむらい」というのはこういう話だ。物語の起点は慶長二十(一六一五)年春、大坂冬の陣が終わって三月というところに設定されている。主人公の池山小弥太は二十歳である。武士として生まれたが関ケ原の合戦によって主家を失い、父は病の果てに死亡、残された母が働きながら小弥太を育ててくれた。左太夫という叔父があり、小弥太を可愛がってくれたが、豊臣方に召し抱えてもらうのだといって大坂に向かい、まだ戻らない。小弥太に母は命じる。大坂に行って左太夫を連れ戻しなさいと。初めての一人旅ゆえ尻込みをする小弥太に、驚くべきことを母は明かした。実は左太夫は小弥太にとっては実の父親だというのだ。委細は大坂で、当人に聞くように。と言われましても、と当惑しながら小弥太は旅立った。
 その道中で事件が起きた。詳細は省くが、小弥太は亡父の形見である刀を奪われ、生首と出会うのである。生きて宙を飛ぶ生首だ。年恰好はたぶん小弥太と同じくらい。この首に危ないところを救われ、一緒に旅をすることになる。生首は毎晩酒を飲ませることを要求するなど、ずいぶん図々しいのだが、なぜか可愛げがあって小弥太はむげにできない。やがてあることが起きて、小弥太は生首と意思疎通ができるようになる。名前は斎之助、武士として身を立てようとして旅に出て奇禍に見舞われ、そのようなあさましい姿になったのだという。二人は共に大坂の地を踏む。
 お判りのとおり、これはロード・ノヴェルである。ロード・ノヴェルの主題は距離だ。なにがしかの距離を移動する間には、必ず心中に変化が起きる。それを描くのである。時には気の合わない者同士が一緒に旅をすることもある。たとえば、突然実父ができて動揺している青年とわがままな生首のようなコンビが。移動が二人を成長させれば、当然両者の関係性は変わっていくだろう。物理的な距離を移動する間に、心の距離も近づいていくというわけだ。物語の山場は大坂夏の陣である。豊臣家を滅亡させ、徳川の治世を安定に導いた最終戦争だ。その模様が描かれる。当然だが、英雄など登場しない、悲惨極まりない戦場の地獄絵図だ。軍とは無縁の市民が嬲り殺され、女は辱めを受ける。近代的な倫理観で中世的な合戦を描くというアナクロニズムの手法を採り入れることで、作者は物語に現代性を吹き込もうとしている。小弥太と斎之助は死の恐怖を共に体験する。一人は生首なんだけど。
 こうして書いていて思ったが、「首ざむらい」は非常に技巧的な作品だ。ここで読者は感動するはず、ここで落涙するはず、という勘所を見事に押さえている。だから心がどよめくし、涙がこぼれるのだ。笑える箇所もふんだんにある。小弥太と斎之助が交わす会話がおもしろいだけではなくて、何気ない描写で思わず笑わせられるのだ。斎之助が酒を飲むのは、固形物では栄養を摂れないので飯の代わりなのだが、もちろん首なので、単に流し込んだだけでは素通りしてしまう。ではどうするかといえば、流れた酒を盆に受け、それを首の断面からしみ込ませるという面倒なやり方をするのである。濁り酒を飲ませると酒粕が断面に張り付いて取れなくなってしまう、というのが細かく、こういうところでクスリとくる。
 技巧のもう一つは、本篇が回想形式で書かれていることである。慶安元年というから一六四八年、すなわち大坂夏の陣から三十三年後にこの話は物語られる。この時間経過も仕掛けの一つなのだ。三十三年という時の流れがあるからこそ最後に感興が込み上げる。そういうところまで行き届いた小説だ。
 収録作のうち「孤蝶の夢」は『オール讀物』に掲載された「スガリ」と同題短篇とを一つにまとめた作品で、児童虐待から逃れて養父によって山で育てられるようになった少年が主人公である。「首ざむらい」との共通点は、運命に翻弄される個人の姿を描いていることで、なすすべもなく蹂躙されながらも尊厳だけは決して失うまいとするひとびとが各篇で主役を務める。「孤蝶の夢」にはミステリー仕立ての趣向があるが、すべてを知った主人公が、それでも「二度と過去からは逃げまい」と決意する幕切れは静かな感動を呼ぶ。
 書き下ろしの二篇は「よもぎの心」と「ねこまた」で、前者には人の臓物を抜き取る河童、後者には年を経て化ける猫又のことが描かれる。やはり運命から逃れずに生きようとする人の姿が描かれ、読みながら清々しい思いになる。妖怪もおどろおどろしく描かれるのではなく、愛らしい姿で読者に語りかけてくるのがいいのである。ユーモアセンスのなせるわざだろう。
 繰り返しになるが老練なところがあり、一九六〇年生まれ、現時点で還暦を超えた書き手であるということを知って頷いた。しかし感性は瑞々しく、筆致も躍動感に満ちている。こういう書き手を待っていたのだ。待っていたのだ、由原かのんを。


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