平安時代中期、都から遠く離れた坂東(関東地方)の地で朝廷に対して反旗を翻し、新皇を名乗った人物がいる。その男、平将門は時代によってその評価が分かれる。辺境で反乱を起こしたならず者扱いされることもあれば、民衆の側に立った革命家のように評価されることもある。その実像はいかなるものだったのか。『落花』は都から坂東に下ってきた僧侶、寛朝の目を通して、将門を描いた長篇小説である。
二十二歳の寛朝は敦実親王の長男として生まれながら、幼い頃に出家し、祖父の寛平法皇(宇多天皇)が開いた仁和寺で修行を積んできた。音曲にも秀で、経典の読誦法の一つである梵唄(声明)を得意としていた。だが、父は当代随一の楽人であり、寛朝への評価は辛口だった。父への複雑な思いも作用したのだろう、寛朝は常陸国にいるといわれる楽人・豊原是緒の行方を捜すために坂東にやってきた。「至誠の声」を持つといわれる豊原に教えを受けたかったからである。
都では坂東は群盗が跋扈する野蛮な辺境地と考えられていた。その象徴ともいえる人物が平将門である。伯父との私闘に端を発した戦乱の当事者として朝廷に訴えられ、危険人物とされていた。しかし、寛朝が対面した将門は野蛮な武人という噂とは異なるものだった。人懐っこく笑い、幼い娘とともに歌舞音曲に親しみ、群盗の頭とも親しく言葉を交わす。何もかもが精緻につくりあげられた都とは異なる、野卑だが伸びやかな坂東の人と文化に寛朝は衝撃を受ける。
『落花』の軸の一つは寛朝と将門の関係である。ともに天皇の血筋という共通点がありながら、片や僧籍、片や武将。生まれ育った地も、都と坂東と対照的である。皇統を源流とする二人の対照的な人物が配置されることで、『落花』は平安という時代に差したかすかな翳りと、武家の時代への胎動を予感させている。
もう一つの軸が寛朝と、寛朝の従者、千歳である。千歳は寛朝の父、敦実親王に仕え、琵琶で身を立てる野心を持っていた。そのために豊原是緒の手元にある琵琶の天下十逸物の一つ、有明を手に入れたいと考え、寛朝に同行したのである。親王の子と下人では出自の違いは歴然だが、敦実親王との関係では千歳が心理的に有利だ。そして琵琶と唄の違いはあれど音楽を渇望している。寛朝を光とすれば影に当たる人物である。
寛朝たちが捜しあてた豊原是緒は、出家して心慶と名乗り、傀儡女たちに音曲を教えたり、楽器を直したりしていた。それどころか、有明を盲目の傀儡女、あこやに贈っていた。そのことを知った千歳は有明を奪うために邪悪な一計を案じる。
私たちは将門の生涯が悲劇的な結末に終わることを知識として知っている。『落花』が見事なのは、その最期を、もつれ合った糸が導き出した運命のように繊細かつ鮮やかに描いているところだ。寛朝と千歳が象徴する仏教と音楽、そして世俗的な野心とがそのドラマをいっそう彩り豊かなものにしている。いまから一〇〇〇年以上前に起きたできごとが、登場人物たちが奏でるハーモニーによって立体的に立ち上がってくる。耳を澄ますように静かな気持ちで読みたい作品だ。
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澤田瞳子『泣くな道真─大宰府の詩─』(集英社文庫)
寛朝の祖父、宇多天皇に重用されながら、大宰府に左遷されたのが菅原道真である。この作品はうだつの上がらない大宰府の役人、龍野穂積の目から道真を描いている。怒りと悲しみに満ちた道真の心が再生していく過程を、ユーモアを交えて温かい筆致で描く。
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