その男は単身、北陸の片田舎にやってきた。理不尽な要求ばかりの「カラス上司」の命令は、この地で失踪した警官の行方を捜せというもの。そう難しくはない仕事のはずだった。しかし、のんびりした田舎町の皮を一枚剥ぐと、利権をめぐるいざこざと、決して知られてはならない秘密があった。
Huluで小栗旬が主演したドラマも話題になったミステリ『代償』や、ファム・ファタールものの近年の収穫『本性』の著者、伊岡瞬の最新刊である。
その男、つまり主人公の名は樋口透吾。かつては警視庁捜査一課の刑事だったが、十七年前に目の前で三歳の息子を誘拐されるという失態をおかしてしまう。妻とは離婚。警察も辞めたが、いまは民間の調査会社で調査員をやっている。民間といってもその内実は、警察OBたちが政府中枢から依頼された調査を行うというきなくさいものだった。樋口は消息が知れない息子を捜すという目的を心に秘めながら、仕事で全国を転々としていた。今回も警察上層部のコネを使って地元の巡査を巻き込み、早々と決着をつけるつもりだった。しかし、調査に目星がつく前に、殺人事件が起きる。児童養護施設、青少年の更生施設、有料老人ホーム、医療クリニックの複合福祉施設「岩森の丘」に入所していた青年が斬殺死体で見つかったのだ。
現代の日本は世界に例を見ない超少子高齢社会へと向かっている。また、幼児虐待事件が後を絶たず、子どもの福祉が十分でないことも問題になっている。また残虐な少年犯罪がしばしば報じられ、厳罰化が議題にのぼる。この複合福祉施設にはこれらの社会問題がすべて集約され、都市部から遠く離れた場所にある。この物語はフィクションだが、こうした施設があってもおかしくないと感じられるのはなぜだろう。おそらく、私たちの心のうちに、こうした問題を日常から切り離し「見たくない」という意識があるからだろう。そして、この施設を営むのが中国系の製薬会社であるという設定にも不気味なほどのリアリティを感じる。
この物語は樋口以外にも何人かの視点人物がいる。樋口の調査を手伝う巡査、「岩森の丘」の更生施設にいる青年、児童養護施設の女性職員や、この地域に影響力を保持し続けている元村長らだ。複数の視点から描かれることでこの地域の光と影が立体的に見えてくる。しかも、彼ら自身のこれまでの人生についても書き込まれ、群像劇としての面白さもある。
だが、登場人物の中でもっとも強い印象を残すのはやはり主人公の樋口だ。息子が消えてしまったという喪失感を抱えた樋口は、事件を通じて自己を回復するきっかけをつかもうとする。この設定はハリウッド映画の主人公像を連想させる。しかも、ハンサムで女性にモテるのである。ヒーローの資格は十分だ。
樋口は謎を追ううち、大きな陰謀の影に気づく。『冷たい檻』とは何なのか。その言葉の意味がわかったとき、読者もまた戦慄するはずだ。いま、この国が直面している現実が起こすかもしれないサスペンス─『冷たい檻』は現代的な題材を扱い、「いま」と向き合うためのエンターテインメントなのである。
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『代償』
伊岡 瞬
(角川文庫)
両親を亡くし、遠縁に引き取られた小学生の圭輔。その家には同じ歳の達也がいた。だが、達也は悪の権化のような少年だった。達也の手を逃れ、長じて弁護士になった圭輔は事件の被告となった達也と再会し、弁護を引き受ける。彼らの対決に心揺さぶられる傑作。
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