41連戦すべて一本勝ち。この偉大な記録を持つ、サンボの生ける伝説・ビクトル古賀さんが11月3日に亡くなられていたことが日本サンボ連盟より公表されました。83歳でした。
格闘家としての輝ける業績が取り上げられますが、ご本人は「俺が人生で輝いていたのは10歳だった」と言われていました。1945年、満州。コサックの血を引くビクトルさんは引き揚げ隊から置き去りにされるものの、たった独りで1000キロを踏破し、日本に引き揚げてきたのでした。
その驚異的な体験を、ノンフィクションライターの石村博子さんが何年にもわたって丁寧に聞き取りを続け、書き上げたのが『たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く』(角川文庫)です。
2009年の単行本刊行時、ビクトルさんと親交のあった加藤登紀子さんに書評を寄稿していただきました。最期まで一介の自由人として生き抜き、ロージナに還られたビクトル古賀さんのご冥福をお祈りし、カドブンにて再掲させていただきます。
偉大な格闘家とはまた違った顔、コサック少年ビーチャの素顔を皆さんに知っていただければ幸甚です。(編集部)
この少年のサバイバルはまさに奇蹟! スリリングだ!! 加藤登紀子
「ゴーリコ! ゴーリコ! ゴーリコ!」
そこにいた老いも若きも、みんなカップルになって、抱き合ってウォッカを飲んだ。
遠くロシア革命の直前に生まれたというクセーニア。その息子、ビーチャの結婚式が、お茶の水のニコライ堂で行われたのだった。
集まったのは、ロシアの地から満州へ逃げのびた亡命ロシア人たち。戦後、中ソ対立の激化の中で、日本へと流れついた人たちだ。
クセーニアは、私の父が、そのロシア人たちの働く場所をという目的で開いたロシアレストラン・スンガリーのコックさんをしていた。
私がお店に行くと、
「ミーラヤ、ジェーブシカ!(可愛いお嬢さんだね)」
と言っていつも私を抱きしめてくれた人だ。
ロシア正教のニコライ堂で、荘厳な式の後、花ふぶきで花婿、花嫁をむかえ、教会の敷地内の小部屋で宴会は開かれたのだった。
出席者の中で一番子供だった私は、白いレースの服を着て花嫁のウェディングのヴェールを持つ役。その晴れ舞台もドキドキものだったけれど、その後の宴会では一人のレディーとしてむかえられ、ワインのグラスを持たされた。
ロシア式の宴会は、テーブルいっぱいに並べられたザクスカ(前菜料理)、次から次へと立ち上がって、スピーチをして、みんなでウォッカを飲み干すにぎやかなものだ。
そして宴の終わりには、何とビーチャがウェディングドレスのままの花嫁を抱き上げて踊った。ビーチャのコサックダンスの見事なこと。みんなで歌うロシア民謡の見事なハーモニー!
中学生だった私は、もうただ興奮して見つめていた。
私のその後の人生に、これほどの完璧な祝祭を見たことがない、といってもよいほど、何もかもが素晴らしく映画のクライマックスのシーンのように今も私の心に焼きついている。
そのビクトルが一体、どこでどのように生まれ育ち、日本へ帰って来たのか、その後の人生をどう生きたのか、私はこの本を読むまで全く知らなかった。
何というすごい物語なのだろうか。
コサックの人たちの運命と、そのありありとした誇り高き姿、その中で育つ男の子たちの颯爽とした少年時代。
それだけでも、もう充分なほどのスペクタクルだが、この本では、それはほんの序章。
少年ビクトルがソ連軍の満州侵攻と同時に、家族と離ればなれになってからのサバイバルは、想像もつかないスリリングな旅日記だ。
クセーニアと、日本人の古賀仁吉の間に生まれた少年ビクトルが何故、こんなにしてまで日本に帰りつこうとしたのか。父親の仁吉のいるハルビンから日本へ引き揚げ列車に乗ろうとしたビクトル。
けれど、ソ連軍の略奪にいためつけられていた日本人たちは、ロシア人というだけで憎悪の感情をむき出しにした。
母との突然の別離、父との愛憎、戦争の後の混乱を生き抜く少年ギャングたちとの友情、そして最後にたった独り、引き揚げ列車からひきずり降ろされて、歩いた一〇〇〇キロの曠野。
「生きる」ということから刻々と発信される驚きの物語は、生き抜くための知恵と屈しない生命力と、少年らしい純情の結晶だ。
一歳八ヶ月で終戦をハルビンでむかえた私も、二歳八ヶ月で引き揚げ列車の旅をしている。
母は、生きていることが夢のようだったこの旅を「たぐいまれな旅」と呼んだが、ビクトルの旅こそは、まさに奇蹟。貴重な記録であり、興奮の絵巻物だ。
>>石村 博子『たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く』
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