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レビュー

母と娘の記憶は舌でつながっている 『ことことこーこ』

 私の場合は阪神・淡路大震災の直後だった。まだ六十代だった夫の父親の言動が変だと気付いた。全壊した家から荷物を運び出すように義母が指示しても義父が動かない。一月の寒い中、道端にしゃがみこんで枯れた雑草をむしっている。どちらかというとのんびり屋のしゅうとだったので、最初はすぐに治ると思っていたが、事態はどんどん悪くなっていった。
 最初は物忘れ、次第に怒りっぽくなり、何事からも意欲が失せていく。どこかおかしいと思いながら納得しない義母や、義父の兄弟、親戚たちを説き伏せて病院に連れていくと痴呆ちほう症(当時はそういわれた)が始まっていると診断された。大震災がきっかけとなったのではないかと慰められても、その後の脱力感は忘れられない。
『ことことこーこ』の主人公、佐藤香子さとうこうこが母親の異変に気付いたのが三十八歳の時。母の琴子ことこはまだ七十一歳だ。いくらなんでも早すぎる、と思ったのは当時の私も一緒だ。 
 あれから二十年以上経ち状況は良くなっている。介護保険は充実してケアマネージャーやヘルパーさんの仕事ぶりには頭が下がる。何より情報が簡単に手に入るようになった。家族は患者を隠すこともなく、身近な人は経験談を語りアドバイスもしてくれる。介護する側の負担をできるだけ少なくできるよう、いろいろな器具も開発されている。
 だが身近な人間が認知症であることを最初に告げられた時のショックは、まさに青天の霹靂へきれきという言葉がぴったりだ。百歳の長寿が珍しくない今、六十代七十代での発症は認めたくないという気持ちは痛いほどわかる。きっとすぐに治るだろう、と最初は焦ってしまいがちだ。
 香子も何度も忘れっぽい母を叱り、無神経な弟に怒鳴り、気の利かない弟の嫁にいら立つ。だが客観的に見て、弟の岳人がくとは逃げないだけ立派。香子は不満かもしれないが、岳人の妻の知加ちかだって気遣いながらなんとかしたいと思う気持ちは伝わってくる。仕事仲間も協力している。ただ、そのさなかにいる当事者にはわからないものなのだ。
 香子の「自分がしっかりしなければ」という思いは長女にありがちな力みだ。私も長女、先々に気を回す。誰よりもできるという自負もある。周りを頼るより、自分でやったほうが早いと動いてしまう。
 だが、やがて息切れる。それを認めたくないから、さらにがむしゃらに動く。この香子はあの時の私だ。病院を探し、リハビリ施設に手紙を書き、本をしこたま買い込んで勉強した。役に立たなかったとは言いたくないが、すべてが終わり、時間が経った今だからわかる。親との問題は、想像していたよりはるかに長期戦で、気負っていてはこちらが倒れてしまう、ということを。
 母と娘の記憶は舌が覚えていた。食べ物の記憶は年老いても残ると聞く。『介護民俗学という希望—「すまいるほーむ」の物語—』(新潮文庫)の著者でケアマネージャーの六車由実むぐるまゆみさんは、入居している利用者に子供のころから馴染んだ味の料理を作ってもらっている。味は古い記憶を甦らせ、普段はあまりものを言わない人も楽しそうに参加するという。
 香子の仕事と母の琴子が記した料理ノートがシンクロしていく場面は胸が熱くなる。表紙に戻ってタイトルを眺め、思わず微笑む。認知症だからといって、何もできなくなるわけではないし、何もわからなくなっているわけでもない。母の心は母にしかわからないけれど、自分の母であることは死ぬまで変わらない。
 阿川佐和子さんの小説にはいつも女性が等身大で登場する。「正義のセ」シリーズをはじめ仕事や恋愛の身近な事件に「あるあるそういうこと」とつぶやきながら引き込まれる。介護と仕事の両立はある年齢層の女性の多くが直面する壁だ。真面目な女性ほど苦労する。でもこの小説は、あなたは一人じゃないと励ましてくれるだろう。


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