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地方に暮らす退屈な社長夫人の“覚醒” 『みずうみの妻たち 上・下』

 ああ、バブル期の男と女って! と、林真理子『みずうみの妻たち』を読みながら身もだえした。一九九〇年一月から九二年三月まで、学芸通信社の配信で新聞連載された長篇が、このたび文庫オリジナルで登場した。これが人妻の奮闘を描いた、非常にスリリングな物語なのである。
 湖に臨む地方都市、M市。香山朝子かやまあさこは病院の娘として育ち、東京の女子大に通ったのちにこの街に戻り、菓子屋、香泉堂こうせんどうの息子、哲生てつおと結婚、社長夫人である。子どもはおらず、しゅうとめとの三人暮らしだ。四年前、地元の裕福な夫を持つ女たちと「みずうみ会」を結成、「奥さま会」と揶揄やゆされながらも親睦を深めている。いちばん親しいのは造り酒屋の跡取り息子の妻、二歳下の文恵ふみえである。
 香泉堂の商売は順調で、朝子の暮らしは刺激はないが実に平穏。しかし、夫との仲は冷めている。そんな彼女が〝覚醒〟の時を迎えることになる。それは、哲生の愛人の存在の発覚。問い詰めると「お前も好きなことをやったらいい」と開き直る哲生に対し、彼女は言い放つ。「店を持ちたいの」。この街で本格的なフランス料理店を開きたいと、咄嗟とっさに思いついたのだ。香山朝子、三十二歳にして新たな船出なのである。
 実は才覚があったのか、知人のシェフに相談に乗ってもらいながら順調に話を進めていく彼女は、店の内装を東京の建築家、大和田おおわだに依頼することに。これが四十代のなかなかいい男。冷静にビジネスの話を進めるつもりであったものの、朝子は、話の勢いで彼に夫の浮気についてぶちまけてしまう。おそらく、大和田はその瞬間、朝子にロックオンしたのであろう。そこから彼は時にさりげなく、時に強引に、朝子に迫る。しかし我らがヒロインはなかなか用心深く、彼に惹かれてはいるものの、一線を越えることは頑なに拒否。それにしてもこの大和田、とびきり甘い口説き文句を言ったかと思えば、急に連絡が途絶えたり、いきなりM市まで会いにきたりと、女心を翻弄しまくる手腕に長けた、恐ろしい男である。朝子は甘い誘惑に酔うが、同時に、名家の女として人目につく自分に醜聞が立つことも恐れている。
 そんな彼女にショックをもたらしたのは、大和田を通じて知り合った作家の加藤と、文恵が不倫関係に発展したこと。友人に忠告を重ね、その一方で目撃情報が出れば火消しに走る朝子だが、でも読者には分かる。内心、彼女が恋に突っ走った友人を羨ましいとも思っていることが。
 朝子のような真面目な性格の既婚者が、誰かに惹かれたからといって暴走することはまずない。しかし相手の熱意、友人の不倫実行、そしてビジネスを進める高揚感といったさまざまな要素が絡んだ時、その行動は後先考えないものになる。とはいえ快楽におぼれるというよりも、どこまでも理性と感情の間で葛藤する姿が本作の読みどころであり、「不倫はダメ、絶対」と思うような読者でも、彼女に感情移入する部分はあるのではないか。
 店の内装へのこだわりやシェフ探しなど、レストランづくりの内実もなかなか興味深く、ようやく彼女が見つける職人気質かたぎの料理人がなんともいい味を出している。また、個人的に読み進めながら気に留めていたのが夫との関係で、こんなに冷え切った関係なら離婚すればいいのにと簡単に考えてしまう自分に対し、夫婦はそんな単純じゃない、と教えてくれる展開。そして朝子と大和田との関係については、彼女が自分で決断を下すところが実に痛快である。
 地方の有閑マダムたちの生態や携帯電話をめぐるあれこれ、そして何より昨今ここまでの人は希少種ではないかと思う肉食系男性の行動パターンに、バブル期ならではの香りを感じさせられるのも、時を経て読むからこその妙味。それにしてもいうまでもなく、話の転がし方の巧みなこと。上下巻一気読み必至である。


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