W受賞作! 吉原を舞台に、女の人生模様を情感豊かに謳いあげる時代小説。
『髪結百花』
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
『髪結百花』著 泉ゆたか
『髪結百花』文庫巻末解説
解説:
朝の吉原仲の町、母親のアサに急かされ、梅はその背を追う。物語はここから始まる。二人が目指すのは仲の町大通りに面した大見世、「大文字屋」だ。アサに続いて
こんな不穏な匂いが漂っていることに男たちは気付いているのだろうか。ざわつく胸を落ち着かせるために深呼吸をしても、梅の気は晴れない。「息をするだけで、肺が他人の
この、「肺が他人の唾液でべとつくような気がした」という一文に、はっとなる。なんて容赦ない、けれど的確な表現なのだろう。たったこれだけで、吉原が「悪場所」であるということが読者の胸に印象づけられる。同時に、この物語の書き手が、並々ならぬ力量であることも。
入り組んだ廊下を進み、アサと梅母娘が
てきぱきと梅に指示を出し、タネと名乗ったその子どもの身体を清めた後、梅と共に髪を洗い上げたアサは言う。「お梅、おタネの髪は、あんたが結いな」と。
アサは腕利きの髪結いで、吉原の遊女の髪結いは、アサが持つ仕事の最も大きなもののうちの一つだった。けれど、梅が嫁ぎ先から出戻るまでは、どれほど頼んでも吉原に連れてきたことはなかった。
二年前、梅は「武蔵屋」という金貸しの家の次男坊・龍之介と祝言をあげた。家格の違いを乗り越えて結ばれた二人だった。
冒頭、梅が殊更に吉原の空気に嫌悪を示す裏には、そんな背景も含まれていたのだ。そのことを踏まえていたからこそ、アサはそれまで梅を吉原に伴うことがなかったのだが、この日、梅を連れて来たのは、やがて自身が中風で倒れ、右手が使えなくなってしまうことを予感していたのかもしれない。
アサが倒れた後、髪結いの仕事は梅が引き継いだ。もちろん、吉原での仕事も。けれど、腕利きだったアサのようにはなかなかいかず、梅は自分の技量の足りなさに
わかなは紀ノ川付きのかむろなので、梅は紀ノ川とも少しずつ近しくなっていく。ある日、〝
物語は、ここから梅と紀ノ川にフィックスしていく。夕霧の髪の毛を用いて作った「しゃぐま」と、それに
けれど、紀ノ川の花魁としての頂点は、その〝俄〟の一瞬限りだった。降り注ぐ賞賛のなか、紀ノ川は倒れてしまう。紀ノ川のお腹の中には、新たな命が宿っていた──。
ここから、物語の終わりまで、さらに山場がいくつかあるのだが、それは実際に本書を読んでみてください。
本書を読み始めた時は、あぁ、これは梅という女が、吉原という特殊な世界で髪結いとして成長していく物語なのか、と思ったのだが、読み進めていくとそうではないことが見えてくる。もちろん、梅の成長
たとえば、腕利きだったことはもちろん、人としても遊女たちから好かれていたアサと我が身を比べては、いつまでたっても遊女たちと
「黙って引き下がってはおりませんよ」
「家を追い出されるときに、店の売り物は、すべて滅茶苦茶に
直後、大部屋は遊女たちの笑い声に包まれる。梅と遊女たちの垣根がぐっと下がった瞬間だ。「旦那は、何の商いをしておりんした?」という紫乃の問いに、「旗師であります。私が壊した由緒あるお宝の値は、総じて千両は下りません」。
「千両!」と遊女たちは大盛り上がり。もう垣根などどこにもなくなっている。
この時の梅は、きっと胸を張っていたことだろう。自分は、
物語の終盤、梅が紀ノ川のために、恨んでも恨みきれない元亭主の龍之介に頭を下げるのも、紀ノ川がぼろぼろになった身体で、梅に文金高島田を結ってもらうのも、みんな〝女意気〟あってこそのものなのだ。
婚礼の髪型である文金高島田に髪を結い上げ、アサが用意した白打掛を羽織った紀ノ川が、ふん、と鼻を鳴らし、「思ったとおり、ぜんぜん、似合わなかりんす」と、「憎たらしい表情で言い切って、得意げに梅を眺め」る場面。
「花嫁支度なんて、やっぱりわっちにはぜんぜん似合わなかりんす。嫁なぞ行かぬ人生でああよかったと、心から満足しんした。お梅さん、ほんとうにありがとう」
この紀ノ川の言葉に込められた
こういう言葉を紀ノ川に吐かせた作者を、私は信じる。本書が一人でも多くの読者、とりわけ、自分の周りの理不尽と闘っている女性たちに届いて欲しいと思う。梅のような、紀ノ川のような〝女意気〟を、心に宿して日々に向かい合えますように、と。
作品紹介・あらすじ
『髪結百花』著 泉ゆたか
髪結百花
著者 泉 ゆたか
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2022年03月23日
W受賞作! 吉原を舞台に、女の人生模様を情感豊かに謳いあげる時代小説。
ここまで優れた作品を上梓した作者を、ただただ絶賛したい――。――書評家・細谷正充
"理不尽"と闘う2人の女意気に、思わず胸が熱くなる! ――書評家・吉田伸子
吉原遊郭を舞台に、女の生き様を描いた人生賛歌。
遊女に夫を寝取られ離縁したばかりの梅は、生家に戻って髪結いの母の手伝いを始める。心の傷から、吉原で働く女たちと距離を置いていたが、当代一の美しさを誇る花魁の紀ノ川や、寒村から売られてきた禿のタネと出会い、少しずつ生気を取り戻していった。そんな中、紀ノ川の妊娠が発覚し――。男と女の深い溝、母娘の複雑な関係、吉原で生きざるを得ない女たちのやるせなさ。絶望の中でも逞しく生きていこうとする女たちを濃密に描く。
第1回日本歴史時代作家協会賞新人賞、第2回細谷正充賞受賞作。
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