角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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ヒュー・ロフティング『新訳 ドリトル先生月から帰る』
ヒュー・ロフティング『新訳 ドリトル先生月から帰る』文庫巻末解説
訳者あとがき
河合 祥一郎
本書は、『ドリトル先生の月旅行』に続く、シリーズの第九巻である。
本書が書かれたのは一九三三年。ドリトル先生が月の世界へ行って消えてしまったとする第八巻『ドリトル先生の月旅行』(一九二八年)をもって「ドリトル先生」シリーズを終えようとしながらも、読者からシリーズ継続の強い要望があったために本書によって再開したという経緯は、第八巻の「訳者あとがき」に記した。
本書で「永遠の命」を求めるドリトル先生の姿が描かれるのは、二人の妻を亡くした作者ヒュー・ロフティングの強い喪失感ゆえなのかもしれない。九歳のときに母親を癌で亡くしたC・S・ルイスも、ナルニア国物語『魔術師の
本書のもうひとつの特徴は、ドリトル先生と動物たちの関わりが希薄になって、代わりに先生の哲学的探求が濃くなっていることである。語り手のトミー・スタビンズがドリトル先生に成り代わって動物たちを診察し、動物との関係を引き受けている。巨大化した先生とのコミュニケーションはむずかしくなり、先生は動物たちとの関わりを避けて、自分の時間を確保しようと努める。シリーズが始まったときに先生が持っていたあらゆる動物と積極的に関わろうとしていた献身と好奇心の熱意は薄らぎ、先生は自分の研究のために時間を確保しようとする。いわば無限の時間を持っていた若い先生から、時間の有限性を認識した老練な先生へ変わったと言ってもよいだろう。
さて、本書ではドリトル先生は自分の時間を確保するために、なんと
第一巻『アフリカへ行く』では、白人ぎらいのジョリギンキの王さまが先生と動物たちを捕らえて投獄し、ポリネシアが先生の声色をまねて王さまをだまして見事に脱獄するというストーリーになっている。第二巻『航海記』では、パドルビー刑務所に収監されたルークをたずねて、先生はイギリスの本格的な牢屋に初めて足を踏み入れている。第三巻『郵便局』では、強大なエルブブ国の総督が、真珠が採れるハーマッタン岩をうばおうとして、真珠とり業を行っていた先生を短いくさりにつないで投獄する。先生がひとりで収監された最初の例である。このときは、先生のポケットのなかにいた白ネズミが外との連絡役となり、一切の食事を与えられなかった先生に少しずつ飲食物を運ぶ。先生は獄中でひげまできれいにそってさっぱりとしているので、魔法使いだと驚かれ、こわがられて、みごとに出獄の運びとなる。ここまでは、牢屋は「とじこめられたくないところ」という一般的な意味合いで語られる。
ところが、第四巻『サーカス』から風向きが変わってくる。この巻では、オットセイのソフィーを川に落とした先生は殺人犯と誤解され、投獄されるが、投獄される前から、先生は牢屋に入ることについて「べつにどうってことはない。牢屋なら入ったことはある」と語る。そして「パンと水を持たされて小さな石造りの牢屋に入れられ」るのだが、パンはおいしいし、「ベッドも悪くない」と言って、ぐっすり休むのである。出獄する際に先生は「あなたのところの牢屋は、とてもすばらしいです」と警視に語り、「本を書くのに、ちょうどいい場所だ。じゃまが入らないし、風通しもよろしい。しかし、ざんねんながら、用事があるので、すぐに出て行かなければなりません」とまで言っている。「本を執筆するなら牢屋に入ろう」という伏線はこのときから引かれていたわけである。なお、この巻では、ライオンが町に出て、「野生動物を放し飼いにし、人々を危険にさらしたという罪」で先生は再度投獄されており、ますます牢屋に慣れている。
第五巻『動物園』では、牢屋の話を語る牢屋ネズミに対して、先生は「私も牢屋に入ったことがあるし、牢屋の生活はとても静かでくつろげる」と述べている。この巻では、シドニー・スロッグモートンの屋敷を火事から救ったことで投獄されそうになるといういきさつもある。同様に第六巻『キャラバン』では、先生は牢屋に入れられる危険をおかして、かごの鳥たちを逃がしてやっている。
こうして、第七巻で月へ行ってしまうまで、先生が牢屋と無縁になることはないのである。そして、月に行った先生は月の男に捕らえられて帰ってこられなくなってしまうわけだから、いわば月が先生の牢屋になったとさえ言えるかもしれない。
こうして見ていくと、研究や執筆を進めるためには、牢屋にとじこもって集中すべきだと先生が考えるのも自然だと言えよう。私自身、ケンブリッジ大学で博士論文を執筆していたとき、自分の部屋にこもりきりになっていて、大学図書館とスーパー以外に外との連絡が一切なかった時期があって、そのとき「
寝食を忘れて研究に没頭するドリトル先生のようすは何度も描かれてきたが、これまでは、たいてい、その研究の末、早朝などに先生が興奮して新たな発見をしたことをトミー・スタビンズに語るといった展開になることが多かった。しかし、本書では、先生は「永遠の命」というあまりにも大きな課題にむかって、ひとりきりで研究をつづける姿が示されて終わりとなる。生命の根幹の問題に果敢に立ち向かう先生はりっぱであると同時に孤独にも見える。
さて、この長寿の追究というテーマは続巻の『ドリトル先生と秘密の湖』でも展開される。長寿の動物と言えばカメである。チープサイドの二百歳をはるかに超えて、なんとノアといっしょに方舟に乗ったカメという設定になっている。ノアの方舟の話は、ナルニア国物語『魔術師の甥』でも語られるが、どちらも生命の原点に立ち返ろうとする試みと言えよう。
最後に、本書にまつわる謎をひとつ。第八巻『ドリトル先生の月旅行』で登場した巨大な蛾ジャマロ・バンブルリリー(オス)は、本作ではジャマラ・バンブルリリーとメスの名前に変わってしまっている。なぜだろう? 答えは……わからない。
作品紹介
新訳 ドリトル先生月から帰る
著者 ヒュー・ロフティング訳 河合 祥一郎
定価: 814円(本体740円+税)
発売日:2021年12月21日
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