文庫解説 文庫解説より
「ビブリア古書堂」シリーズの著者が自らの創作姿勢に向き合いつつ贈る「書くこと」へのエール!
「小説が書けない」の先へ
『文章読本』という書名の本がわが国にはとても多い。谷崎潤一郎をはじめ、川端康成、中村真一郎、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさし、錚々たる顔ぶれの大作家たちが、それぞれ独自の知識見識に基づいて文章の書き方を指南してくれる。どれも素晴らしい内容なのだが、若い頃にふと疑問に思ったことがある。
なぜ小説の書き方指南ではないのだろう。
もちろん文章は大事だ。小説を書くにあたっての基礎でもある。しかし、せっかく職業作家が書いているのだから、アイディアの出し方、物語や登場人物を作る方法といったことを中心に解説してもいいのではないか?
まあ、ないものねだりである。それらの『文章読本』は小説を書く人間ではなく、文章が上手くなりたい人々全般に向けて書かれている。しかし、当時の私は小説家志望のアマチュアだった。学生時代は文芸サークルに所属し、卒業後も就職せずに新人賞に送る小説を書いていた。いや、書こうとして空回りばかりしていた。きっとこの瞬間にも、そういう人間は全国に数え切れないほどいるはずだ。
真夜中に何か得体の知れないインスピレーションを得て、勇ましくパソコンのキーボードを叩きまくるが、次の日その大長編の冒頭とおぼしき何かを読み返すと、普段自分が読んでいる小説とはまるで違う。とにかく面白くない。どう直せばいいのか以前に、どこがどう悪いのかも見当がつかない。小説家志望の人間なら一度は沈むであろう泥沼である。
『僕は小説が書けない』は特異な小説だ。中村航氏と芝浦工業大学が共同開発した小説創作支援ソフトを使って、中村氏と中田永一氏がプロットを作り、五~十枚程度を交互に執筆していったという。
物語は不幸を引き寄せる体質の高校生光太郎が、廃部寸前の文芸部に勧誘されるところから始まる。ヒロインの七瀬をはじめとするアクの強い先輩やOBたちと交わっていく中で、かつて書けなかった自分の小説と、小説を書けない自分自身に向かい合っていく。
この題材の選択は執筆過程と無縁ではないだろう。基本的に文章の執筆は個人作業で、小説家は自分の小説観を他人と共有する機会があまりない。それぞれが一国一城の主のようなものである。小説を書くことそのものを物語にすれば、交互に執筆するという形でも内容について共有しやすくなる。何しろ「小説が書けない」というのは、光太郎のような初心者だけではなく、プロの小説家にとっても共通の悩みである。
この物語は書きたいと思う人間すべてにとって他人事ではない。真剣に取り組んでいればいるほど、地獄の蓋が開くような胸苦しさを感じずにはいられないだろう。主人公の光太郎がいかに書けないか、いかに乗り越えるかという描写は実に生々しい。
まず未完だった小説の文章の痛々しさを徹底的に指摘されるところからスタートする。薦められる文章の指南書が木下是雄『理科系の作文技術』なのが心憎い。そこからプロット作りの重要性がシナリオライターである原田の口から語られる。プロットポイントの設定など、念頭に置かれているのはシド・フィールドの映画脚本術だろうか。このあたりもリアルである。
最初に大作家たちの『文章読本』について触れたが、著名な作家が創作技法全般について体系的に語った本は、以前(少なくとも日本では)ほとんどなかったと思う。そのようなテクニックはいちいち学ぶ必要はない、という風潮があったのかもしれない。
特にエンターテインメントの作家の中には、映画脚本術の解説書でストーリー構築を学んだ者が珍しくない。ちなみに私も「仁義なき戦い」などで知られる脚本家・笠原和夫のシナリオ骨法十箇条を長らく参考にしていた。
ここまで来るとはっきりするが、この『僕は小説が書けない』は小説の書き方指南の意味も持っている。それをさらに奥深いものにしているのは御大の存在だ。
御大は才能を恃みにする感覚的な作家志望のアマチュアで、才能より理論を優先させる原田とは完全に真逆の考え方を持っている。
感覚と理論のどちらが重要か、と考えたことのない小説家はまれだと思う(もちろん、それが本当に対立項なのかという問いも含めてだが)。
初心者が書く小説のほとんどは、他の人間にとって独りよがりな駄作である。自作をより面白くするための方法論は不可欠だが、ただ他人の需要に応えようとし続けると、書けるジャンルも扱えるテーマも狭まり、展開も画一化していって、最終的に書くことへのモチベーションも見失いかねない。
本来、私たちは小説など書く必要はない。
特にエンターテインメントの分野では、作り手による「これを伝えたい」という過剰な押し付けは作品にとってマイナスに働くが、作り手の中にある切実な感情、倫理のようなものが反映されていない作品もまた、受け手の共感を呼びにくい。
自作の質を上げようと努力し続けると、うまく書けなかった頃から持っているストレートな衝動に、不思議とどこかで立ち返らざるを得ない。書く必要などなくても、とにかく書かずにいられないのである。一見、傍若無人な御大は、光太郎の小説を書くことに対する感情の根本を引きずり出す役割を担っている。
恋愛や出自への葛藤を抱えつつ「小説が書けない」自分を乗り越えようとする光太郎の物語が迎える結末は本編を読んでいただきたいが、まだこの先も続く余地を残しているように見える。続編を願わずにはいられない。