自分が中学生だった頃から、すでに四半世紀以上経つが、あの頃のひりひりとした感覚はいまだに身体のどこかに残っていて、ふとした瞬間に記憶のかけらが飛び出してくる。
それはたとえば、昼間の窓越しの陽光に埃がきらきらと舞ったときや、遠くに見える山の稜線が黒く縁取られたように見えるとき、台風のあとに浜辺に打ち上げられた、流木やペットボトル。そんなものたちに触れた瞬間、ふいにあの頃の自分が立ち現われて、胸をきゅっと締め付ける。
心も身体も急成長を遂げる年頃。アンバランスであぶなっかしくて、つい手をさしのべたくなるけれど余計なお世話だと突っぱねてしまう時期。そのくせ放っておかれると、どうして助けてくれないの! と怒りの矛先を向けてくる。今いる小さな世界がこの世のすべてだと思い込み、クラスというささやかな単位のなかで悲観し、怒り、泣き、笑う。
タイムマシンがあって中学時代に戻れると言われても、絶対に戻りたくないと思う。毎日、窮屈でいたたまれなくて、意味なくはずかしくて、常に怒っていて、自分を持て余していたあの頃。
本書『クラスメイツ〈後期〉』は、中学一年の十月からはじまる。前期から引き続き、一年A組二十四名の物語だ(後期は十二名のクラスメイツの話)。読みはじめていくと、瞬く間に中学時代に引き戻される。引き戻されるというよりも、気付けばどっぷりとあの頃に身を沈めてしまっている。
思うのは、誰かが見て感じる自分は、自分が知る自分ではないということだ。それぞれの章で登場するクラスメイツは、自分が主人公の章とでは異なった印象をもたらす。
真面目で口うるさい久保由佳は、クラスで疎まれ嫌われているが、後期のクラス委員長に立候補する。結果を出すことを父親に強いられ、その期待に応えるための立候補だ。むろんクラスメイツはそんなことを知るよしもなく、結果は三票で落選(「秋の日は……」)。
ずるくてうそつきで、前歯が欠けていて、机が臭いイタラナすぎるイタル。ノムさんは、クラスのみんなから見捨てられているイタルのためにイタル更生計画まで立てる。そんなイタルは、家では祖母、母、姉の女三人に囲まれ、至れり尽くせりの居心地のいい日々を送っている。けれど最近ちょっと自分の気持ちが変わってきた。
ときどき、無性に逃げたくなる。鬼は外、福はうち。世界がそんなに単純じゃなくなってきた今日このごろ、イタルはとにかく、眠いのだ
P200
そんなふうに感じるのは身の内に芽生えたほのかな恋心。A組でいちばんかわいいアリスのことが、イタルは気になってしょうがない。それは保健室で聞いてしまったアリスの重大な秘密が原因なのだった(「イタルが至る」)。
そのアリスは、前期での登場では大人しい印象で、どちらかというと清楚なイメージだったが、イタルを悩ませる「処女」にまつわる話(「約束」)を読むと、「そうだったの!?」と驚いてしまう。アリスはクラスメイツの一歩先を行く恋多き女だった。
前期でふしぎちゃんパワー全開だったレイミー。けれど、「バレンタインのイヴ」の章を読むと、まったく違う面が見えてくる。
タケちゃん先輩の話になると、千鶴はたちまちレイミーの知らない千鶴になる。タケちゃん先輩に恋をして、千鶴は変わった。急に大人っぽく。急に女っぽく。つまり、大人の女っぽく
P164
こんなとき、おろおろしないでしっかり「いいこと」を言えるしほりんはすごい、とレイミーはつねづね思う。しほりんはいつも冷静だ。人のことをじっと見ていて、ひっこみじあんなわりに、ときどき鋭いことを言う
P164
レイミーはふしぎちゃんなどではなく、友達の言動を敏感に感じ取って分析するクラスメイツだった。そればかりか、誰にも言っていないが本命チョコをあげる相手までいるのだ。友達に相談するでもなく、実に着々と、一人ひそかに行動を起こしていたのだった。レイミーは、地に足の着いた現実的な女子なのだった。
クラス委員長でしっかり者、さわやかなイケメンヒロは、みんなが思うヒーローなどでは決してなく、実はからまわりの連続の日々だ。最後まで、タボがどこから越してきたのかを知らなかったという、ぼんやりぶりなのだ(「その道の先」)。
久保由佳とつるんでいる日向子はクラスでは目立たない存在だが、ブログにクラスメイツの悪口を並べ立てている。その悪口はかなり的を射ていて、日頃の日向子の洞察力がうかがえる(「マンホールのふた」)。
みんな、クラスメイツが思っている自分とは違う自分を持っている。当たり前のことだけれど、ついつい自分本位に、それが正しいと勘違いして、友達を定義付けしてしまう。
『クラスメイツ』を読んでいて、「こういう子いるいる」「中学時代のあの子に似てる」と何度も思ったりしたが、それもきっと違うのだろう。二十四人のクラスメイツは、誰とも似ていない、この世でただ一人の人間だ。
二十四人の物語のなかに、二十四の個性があり屈託がある。中学時代を通ってきた読者なら、ここに書いてあることだけがその子のすべてだとは、よもや思わないだろう。文字のうしろには彼ら彼女たちの、おそらく自分でも説明しようのない複雑な気持ちが見え隠れしている。それを感じ取れるからこそ、時代は変わっても、あの年代特有の自意識や葛藤は普遍的なものだと感じることができるのだ。
誰かから見たら取るに足りない悩みでも、本人にとっては世界を揺るがすほどの大変なことだ。中学時代は特にそれが顕著だと思う。小さな挫折と成功を繰り返しながら、日々懸命に自分の居場所をさがす日々。
二十四人の物語を読んでいると、無為に過ごす日もたのしく一日を終える日も、それらはかけがえのない日々で、使い古された言葉だけれど、無駄なときなどいっときもないと思える。
中学一年の彼ら彼女たち。来年、再来年は、また違う顔を見せてくれるだろう。いや、もしかしたら、ほんのひと月後には、大きな変化を遂げているかもしれない。二十四人の成長がたのしみでもあるし、すっかり歳を重ねてしまったわたしからは、彼らの未来は希望そのものでもある。
実は本書を読んでいて、ひそかに何度も涙ぐんでしまったのだが、目頭が熱くなったのはわたしだけではないだろう。それぞれの章の最後の一文で、彼らの小さな一歩を見届けられた気がして胸が熱くなった。どんな子にも、平等に世界は手を広げていてくれるのだと、しみじみと感じ入った。田町の章「見いつけた」のラストでは、思わず担任の藤田先生のように号泣してしまった。
また、自分が一年A組のクラスメイツだったら、と想像するのもたのしい。わたしの好みのタイプは敬太郎かな。ちょっと微妙なところもあるけど、ハセカンもいいな。仲良しの友達になれそうなのはこのちゃんと千鶴かな。真琴もいいな。ひそかに久保由佳も応援したい。なんていろいろと妄想し、自然と頬がゆるむ。
等身大の二十四人の物語。小説の醍醐味は、ハラハラドキドキする冒険譚だけのものでも、未知の世界を見せてくれるだけのものでも、新たな教養を与えてくれるだけのものでもない。
自分と重なり合う部分を登場人物の誰かに見つけ、共感したり安心したり、過去を思い出したり振り返ったりすることによって、自分を肯定することができ、未来へのささやかな一歩を踏み出せるものでもあるのだ。
きれいなうわべだけをすくい取るのではなく、ごくありふれた日常を切り取り、真っ向からそれを体現する。小説に媚びることなく、偽りのない物語を紡いでいき、読む者の心を震わせる。そんな森絵都という作家を、わたしは心から尊敬し、また憧れているのである。
一冊一冊、未来に進め。
>>カドフェス2018 特設サイト
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