数年前のこと。散歩の途中、よく手入れされ花がとても綺麗に咲いているお家の花壇を見つけたことがあった。花が大好きな母に、この花壇の様子を知らせたいと思い、近寄って携帯で写真を撮ろうとしていたら、いきなり「どろぼう!」と叫ばれた。びくっとして振り向いた私に「あら、ごめんなさい。写真撮ろうとしただけだったのね」と家の主は言った。「最近よく持ってかれちゃうのよ。だから、あなたが犯人かと思って」とすまなそうに言った。
「いえ、こちらこそ、勝手に撮ろうとしてすみません、とても綺麗だったから」
「いいのよ。好きに撮ってね」
お互いすぐに誤解は解けたが、生まれて初めて、泥棒呼ばわりされた衝撃は、なかなかのものだった。
小学校、中学校と地元の学校に通っていた私にとって、高校生になって一番変わったことは、なんといっても電車通学になったことだった。毎朝、満員電車に揺られながら、学校に通った。電車の中で初めて痴漢に遭った時は、怖くて声が出なかったことが悔しくて、次に遭ったら絶対声をあげてやるぞ、と固く心に誓った。
その数日後、満員電車の中、後ろからスカートの中に手が入ってきたのだが、その手を掴むことができないほど、車内はぎゅうぎゅうづめだった。「でも今日は絶対、痴漢を撃退するのだ」と息巻いていた私は思い切ってそのままの姿勢で「やめてください!」と叫んだ。車内は、しんとした。そして私の周りにいたサラリーマンは、一斉に自分じゃないと示すように私から離れた。自分の周りに空間ができた。恥ずかしくて下を向いた。犯人は分からずじまいだった。次にまた満員電車の中で痴漢に遭った時は、犯人だと思う人の足を降りる時に思いっきり踏んづけた。でももしかしたら、私は違う人の足を踏んだかもしれない。
「寃罪」とは、とても大きな、自分とはかけ離れた遠い出来事のように今まで思っていたが、寃罪予備軍は日常に溢れているのだと、『真実の檻』を読んで痛切に感じた。
物語は、大学生の石黒洋平が、自分の本当の父親が「赤嶺事件」と呼ばれる殺人事件を犯した死刑囚であることを知るところから始まる。殺された被害者は、母親の両親――、つまり彼は、被害者の孫であり、加害者の息子であったのだ。この事実を受け入れられない彼は、「赤嶺事件」が寃罪の可能性もあり、父親は無実かもしれないという一縷の望みに賭け、この事件を調べ始める。
洋平は赤嶺事件を追う中で、寃罪の疑いのある事件に次々と遭遇する。一つ一つの事件を調べていく過程で、司法の抱える問題点を知り、自らの思い込みの危うさにも気づいていく。大学生である彼は、スポンジのようにそれらを吸収し、成長しながら「赤嶺事件」の真相に迫っていく。
警察の管轄である留置場を監獄に代用できる法律によって、いつでも自由に取り調べができる「代用監獄」や、家族や友人から切り離されて、自白を強要される「人質司法」によって、無実の人間も簡単に犯人に仕立てられてしまう可能性があることを知る。そして父親が殺人という大罪を認めてしまった状況を、洋平は理解する。
また、検察の問題――検察庁は約九十九・九パーセントの有罪率の低下を気にし、絶対に有罪を得られる案件しか起訴しないように訓告されていること。三回、無罪判決を受けた検察官は解雇されるという噂まであること。当時「赤嶺事件」を担当した検事は、その時大事だったのは真実より、有罪を勝ち取ることだったという事実を知る。
また、誠実で、厳格で、公平で真実を見抜くと思っていた裁判官は、常時三百件(!)もの訴訟を抱えていて、処理件数を増やすためには手抜きを選ぶこともあり、有罪の判決書を裁判前に書き、時間を短縮する。自分の判断に不都合な証拠は信じず、書類を重視する。裁判官ばかり集合している公務員住宅に住み、毎日職場と家を官用車で送り迎えされ、一般市民と交流する機会がない「隔離された生活」を送る結果、市民感覚とはかけ離れた判決を書くようになる。
記憶というのも常に作り変えられるから、目撃証言も百パーセント正しいのか、本当のところは分からない。警察には不祥事を隠すためのマニュアルまで存在する。
メディアは警察発表をそのまま垂れ流すだけで、独自の取材をしない。匿名の世界では自作自演や成りすましで、他人を陥れたり、印象操作したり何でも容易にできてしまう。
作家は、これでもかというほど、寃罪に繋がる要素を挙げていく。
寃罪は、司法だけでなく、関わった当事者たちの様々な思惑が絡み合った結果、生まれるものだと知る。司法の現実は、こんなにも脆弱で、危ういものだったのか、と、一度起訴されれば「有罪」という終着駅まで急行列車で一直線に走るようなものだということに、洋平と一緒に私は愕然とした。
これでは、寃罪が生まれてしまうのも無理はないどころか、まだ埋もれている寃罪事件は他にもたくさんあるのかもしれない。
寃罪が生まれてしまう背景を理解し、真実へと近づいていく中で、洋平は、家族とは何かを何度も自問自答する。家族とは、血なのか、絆なのか。育ての親か、生みの親か、生みの父親は有罪なのか無罪なのか。振り子のように揺れながら、真実へと近づいていく。
私は、この揺れる心の描き方が、とても好きだった。真実に近づくためには、何度だって揺れていいのだ、いや揺れるべきなのだ、と思った。
司法の問題点は、司法のみならずそのまま、現代の私たちの問題点と重ならないだろうか。
揺れることなく、一つの答えを見つけたら、そこに向かって一斉に突き進む。
人は見たいものしか見ないし、思い込みもある。思惑もある。本当は、違うかもしれない、おかしい、と思っても見て見ぬふりをして、正しいとされる方向しか見ない。本当はもっと、答えを出すまでに立ち止まって、あらゆる観点から考えてみることが必要なのに。
この物語を読んでいると、何度も思い込みが解かれ、沢山の寃罪に繋がる要素を知ることによって、どんどん気持ちがフラットになっていった。受け皿が広がっていくように、真実の重みに備えることができる静かな強さが生まれた。
一人でも多くの人に、この物語を読んでほしいと切に願う。
寃罪事件がこれ以上起きないために、真実を見抜く力をつけるために。
何より、ありとあらゆることに悩める者たちに、この物語は開かれている。
ゆっくり進めと。
>>角川文庫創刊70周年 特設サイト
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