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レビュー

不思議な名前、美味しそうな料理、少年達の冒険――長野作品の魅力が散りばめられた『いい部屋あります。』

 夢か現実かわからない、幼い頃の記憶というものがある。『いい部屋あります。』は、まさにそんなプロローグから始まる。海を見たことのない少年の、見知らぬ大人の男性との冒険。
 その後につながるのは、うって変わって、一人の十七歳男子が、大学進学をきっかけに上京した春の話だ。部屋探しをしている彼が、これから通うこととなる大学の学食で、見知らぬ男子学生に話しかけられ、そこからさらに不思議な流れに巻き込まれていく。
 どこか夢めいていたプロローグとは違い、しっかりと現実味を帯びているものの、それでも非日常な空気が漂っているのは、登場人物たちの名前も一つの理由かもしれない。主人公の鳥貝(とりがい)をはじめ、安羅(やすら)多飛本(たびもと)百合子(ゆりこ)(特に珍しいこの苗字は、【タヌキではなくキツネのアクセント】で発するらしい)、白熊(はぐま)時屋(ときや)など、長野作品ならではという感じの珍名続きで、思わずニヤリとしてしまう。それぞれの描写によって、人物がぐっと浮かび上がってくるようだ。
 誰もかれも一癖ありそうで、彼らの発言の真偽が定まらぬまま、ドキドキしつつも読み進めるうちに、ストーリーはさらに違う方向へと進んでいく。上京物語、部屋探し、にはけしてとどまらない。一旦実家へと戻った主人公は、そこで意外な人物と再会し、プロローグの出来事へとつながるような回想をし、さらに自分の出生の謎を探っていくこととなる。
 先に解説を読まれる方のため、ストーリーは小説本体でたっぷりと堪能してもらいたいこともあって、ざっくりとした本筋の紹介になってしまったが、目をひくのは当然、人名ばかりではない。

外装は、ややクリーム色がかったモルタルで、窓枠は褐色、スレートぶきの屋根はスモークグリーンだ。二階建てだが、屋根窓がついているので、三階建てのように見える。一部三階建てなのかもしれない。

仕切り壁をかねたキャビネットの上半分の背板はガラス製で素通しになるが、室内の照明がひかえめなうえに、なかにおさまった酒瓶やリキュールグラスなどの、こまやかな細工のひとつひとつが乱反射してかがやきを放つので、キャビネット全体がまばゆい光をまとっているようだった。

 
 引用したのはいずれも、主人公が案内される男子寮についての描写だが、まったく知らないその場所が、一気に目の前にたちのぼる。丁寧でありながらも、過剰ではない、品のある的確な描写。さすが、と舌を巻かずにいられない。
 そして情景もさることながら、わたしの目や空腹に訴えかけてやまなかったのが、料理についての描写だ。プロローグのアプリコットタルトをはじめ、この物語には、随所で印象的な料理が登場する。それらがどれも、本当においしそうなのだ!
 中でも一番食べたくなったのが、オムレツだ。【炒めた野菜を敷きつめた皿に、豆乳をくわえた卵液をながしこんでオーブントースターで焼く】という簡単なレシピながらも、ふわふわの半熟のたまごの食感が頭の中で想像されて、このときばかりは、読書する手を止めたくなってしまうほどだった。
 料理たちは単なる小道具ではなく、主人公の背景やつながりを思わせるための、大切な役割を担っている。登場する男子学生たちの、身につけている衣服についての描写もいくつもあって、人間の根本である「衣食住」が、ここにしっかりと存在している。
 単行本時のタイトルでもあった「白いひつじ」にまつわる、ミステリーめいた記憶や出来事が少しずつ解きほぐされていく、核となる部分はもちろんだが、ささやかに見える日常的な一シーンも、間違いなくこの小説のおもしろさを支えているものだ。何気ないやり取りの中に、ハッとするような印象的な一言が紛れているようなこともあって、細部までじっくりと浸りたくなる。
 ここからは個人的な話になってしまうのだが、わたしには主人公のようにはじめて海を見たときの記憶はないが、はじめて長野まゆみさんの作品を読んだときのことはうっすらと記憶している。中学生だった。タイトルや装丁が気になって、学校の図書室だったか、あるいは市立図書館で手に取ってみたのだ。読んですぐに夢中になった。現実と夢のあわいを漂うような心地よい文章。まったく難解ではなく、むしろ知っている言葉だけで構成されていながらも、知らない世界が広がっていて、夢中になって読んだ。図書館で何度も借りることを繰り返し、うち何冊かは、どうしても手元に置いておきたく、実際に購入して本棚の片隅に並べていた。
『いい部屋あります。』で、久しぶりに長野さんの作品に触れ、ああ、そうだった、と思い出した。次にどんな展開が起きるのか、登場人物たちがどうなっていくのか、知りたくてたまらなくなって、ひたすらに次の行、次のページへと読み進めていく感覚。
 あっというまに読み終えてしまったあと、読書の愉しさとは、まさにこういうものなのだ、と気づかされた。
 ただ目の前に広がっている物語に足を踏み入れて、その中を一人で歩きつづける。時に笑ったり、時に涙ぐんだりしながら。シンプルな喜びが、まぎれもなくそこにある。歳を重ねて、読書が単なる日常となる中で、ひたすらにページを繰る感覚を、いつのまにかどこかに置き去りにしていたのかもしれない。
 最後に主人公たちがたどり着いた爽やかで美しいラストは、わたしたち読者にとっても、忘れがたいものになるだろう。時々、珍名ばかりの寮の住人たちの今後を想像しながら、豆乳入りのオムレツを食べることにしよう。


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